独白のゲーム
私は特別に裕福でも貧乏でもない家庭で生まれ育った。
いわゆる普通の家庭だ。
ややこしい環境や理由は一切無く、平凡とも幸せとも言える生活。
母親は家事をこなしながら育児をしてパートもして、父親は限りなく仕事一筋に近かったが育児や家族サービスを忘れてはいなかった。
だからどこの家庭にもあるような小さな問題はあったが、両親は立派な夫婦関係を保っていた。
そんな両親の間で育った私は、恵まれていたと言っても過言ではない。
母の素敵な料理、父との遊園地、母との苺摘み、父とスポーツ、父と母と私の幸せな一時、両親の愛情。
本当に幸せと呼べただろう。
何せ個人の幸せへの価値観は子供の時に決まる。
子供の時に感じた幸せが基準となる。
その後の人生で不幸や幸運だと思うのは、子供の頃の幸せを基準にしているからだ。
子供の頃が不幸であればあるほど後は幸せに感じて、逆に幸せであったほど後は不幸に思える。
だから子供の頃に戻りたいと思うのは、今が子供の頃と比べたら不幸だからだ。
そして私は幸せだと思った。
子供の頃………、とは言っても幼少期だったが幸せだったと思い返せれる。
その後の疑心暗鬼や憎悪の不幸に比べてしまえば。
いつだったか、私が小学生の時に父は変わった。
比較的温厚だった父は暴力的になり、思考や性格が滅茶苦茶になっていた。
怒鳴ることはあっても手を上げることは無かった父は私を力強く叩き、母を殴りつけた。
まるで別人だった。
日が経てば見るからに顔つきも変わっていったし、前は温厚と言われていたのが信じれなくなるほどに過激になっていた。
考えてみれば、父は病気だったのかもしれない。
性格が変わってしまうような脳への病気。
もしそうだったとしても当時の私と母にはどうしようもない。
私達に分かるはずが無いし、何よりまともに父とコミュニケーションすら取れる状態では無かった。
だから私達は愚者のように暴力に耐えていて、父の粗暴を増長させていた。
毎日暴力と罵倒に暴言、止まらない泣き声と嗚咽、沢山の心の傷。
やがて生活は全て悪化していて父は仕事を無くし、母は気力を無くし、私は幸せを無くした。
でも本当の不幸はこの後だった。
幸せから不幸へと堕ちていく私達は、越えてはいけない一線を破ってしまう。
どんな理由や病気のせいにしても許されない事。
誰にもメリットが無い悪行。
私が学校から帰宅した時、日は暮れていた。
何せ家庭での居心地が悪いのだから、無意味に時間を費やして家に帰っていた。
けれどそれは愚行だったのかもしれない。
帰るのが早ければ起きなかった可能性もある。
………私が家に入ってリビングに入ると、まず母が背中を向けて倒れているのが目に入った。
そして次に狼狽していた父親。
『あぁあぁ、お前か……。何で帰ってきた…!よりによってこんな時に………。いや、それより何とかしないと。何とか………何か…』
すでに私の名前を呼ぶことが少なくなっていた父。
それは不快だったが、それより私は倒れた母親が気になった。
下手に動くと殴られると思っていた私は、リビングの入口から父に恐る恐る声をかける。
『お母さん?お母さんどうしたの…?』
また殴ったの?と訊きたくなったが、怖くて私は訊けなかった。
でも、ただ殴ったにしては父も母も様子がおかしいと子供ながら気がついてしまっていた。
しかしおかしいのは父や母だけじゃなかった。
母親の下に赤いシミがあった。
カーペットに赤いシミ。
いつも綺麗にされていて、暴力的になった父ですら汚すことはなかったカーペットにだ。
その赤いシミは見慣れないほどに、鮮やかに赤く広がっていた。
『とにかく、動かさないと………。まだ生きているかもしれない…!』
父がそう言って母を転がり起こした。
その上に向けられた母の顔を見て、私は泣く。
状況を受け入れるより先に怖くて泣いてしまった。
母の顔が潰れていた。
それとも陥没していたのかな。
そこの記憶は曖昧になってしまっているが、一目で分かるほどに母の顔は赤くて、形が無くなっていたのだけは覚えている。
今でも何で殴ったのか分からないが、父に殺意や悪意があったのは間違いなかった。
ただ殺意があるだけで、覚悟も罪悪感も何一つも無い。
とにかく父は母の死体を隠そうと無くそうと、まるでその場に私が居合わせていないように試行錯誤し出した。
父は間抜けだよ。
自分の子供の前で、母を解体しようとするのだから。
結局は解体は難しくて中断していたが、より母の姿は無惨になっていた。
更に死体を運ぶのを、泣く私に手伝わせようとした。
それがいけなかった。
父が私に触ろうとして、私は殺されると思って叫んだ。
『いやぁああぁあぁあああぁぁぁああぁ!!やだやだやだぁ!触らないで!ああぁああぁあぁあぁあぁぁぁ!!やめてぇええぇ!』
すると私の悲鳴に負けない怒声を父は張り上げて、私を全力で殴ってきた。
『うるさいうるさい黙れぇ!!周りにバレたらどうするつもりだ!お前、俺がどうなると思ってやがる!』
私は強い痛みと共に殴られた衝撃で体を転がせて、壁に背中をぶつけた。
どんな虫歯より辛い痛み、酔いより酷い吐き気、深い眠気より意識が飛びそうな頭。
私は母が死んでいる以上に、現状が恐ろしくて仕方なかった。
何も考えられない。
私は恐怖と脅威に怯えるだけ。
一方、父は保身しか頭にない。
いかに母の死を擬装して隠し通せるか、どうしたら自分は捕まらないかしか考えていない。
私に見られた時点で、絶対に隠せるのは不可能だと言うのに馬鹿な人。
でもそのことを父は分かっていた。
『いいか、この事は誰にも言うなよ!あと明日一日は家にずっといろ。いるだけでいい。分かったか!?』
『お母さんは………?』
『これから隠す』
そう言って父は慌ただしく行動し始める。
私は母が大丈夫か訊いたつもりだったけど、すでに母は死んでいると父の中では結論づいていた。
顔が潰されて全身が切られているから死んでいるのは当たり前だが、子供の私に把握できるわけも無い。
父は母を袋やら紙で包んでから浴びた血を洗い流して、着替えてから車を玄関に近づける。
それから母を担いで家から出ていってしまう。
他にも、私が連絡が取ったり外出しないように細工はしていたけど動けなかったから分からない。
ただ、父が母を物として扱っていたのは思い出せる。
しばらくして、深夜に近づいてからか父は帰ってきた。
そして一歩も動いていない私を見て、軽蔑した眼差しを向けてくる。
それから溜め息を吐いて、ただ一言。
『漏らしたのか、汚い。まぁ、いい。それより今日の事を忘れろ。全部だ。夕方は俺と一緒にいて、母は出かけて帰って来なかった。そう記憶しろ。分かったか?』
『………』
私が何も反応しないから、父は私の髪を掴んで殺人者の目で私を睨み付けた。
もう、この男は父親ではなくて見知らぬ暴漢だと確信できた。
『放、して………』
『………口答えするな。俺は疲れたんだ。もう話は明日する。今日は着替えて寝ろ』
そうは言われても私は低学年ほどの小学生。
どうすればいいか正しい判断ができなくて、父の顔色を伺いながらそのまま寝室へ行ってしまっていた。
そして眠れぬ夜を過ごす。
私は朝になってからお風呂で軽く体を洗い流し、静かに着替えた。
それから学校に行こうかと迷いながら、私は行く仕度を始める。
学校に行くのは義務的で体や思考に染み付いていたし、家から逃げたかった気持ちがあったからだ。
でも父は起きて来た。
仕度をしていた私を見て、朝から怒声と暴力は私に振るわれた。
『この馬鹿が!今日は一日中家に居ろと言っただろうが!この愚図!ガキが逆らうつもりか!』
『ち、違うッ…!あぁ!痛い!痛い…!やめて…、やめてぇ……!』
何回か殴られた後、父は私を引きずってソファに座らせた。
そして昨日の出来事を復唱させられる。
母は方不明、母は行方不明、母は行方不明、母は行方不明。
虚実を何度も何度も言わされた、聞かされた、暗示させられた。
でも事実を知る私は虚実を記憶しない。
虚実を覚えはしても、嘘だと知っているから決して父の言葉は受け入れない。
父は母を殺してしまった。
それだけを記憶に刻んだ。
その殺人がどれほど罪深くて、おぞましいかまでは理解に及べなかったが、悪い事だけは分かっていた。
通報という発想すらできず、父が恐ろしくて真実を黙る私。
誰にも相談できなくて、虚実しか口にする事を許されなくて、私は苦しんだ。
何年も苦しむ。
運が良いのか母失踪に対して父は疑いをかけられただけで済むし、母の両親はすでに他界していた。
更に母は一人っ子育ちで、交流のある親戚はいなかった。
ただ母の親しい友人が父に問い詰めたけど、今の父は異常に気が強くて暴力的だ。
すぐに母の友人は数日で問い詰めるのをやめて、逃げるように引っ越しまでしてしまった。
それから数年も経てば、もう事実は漏れることは無いと私は悟った。
そして、母が殺されて変わった事は多くある。
まず私生活が更に劣悪なものとなった。
ご飯すら食べるのは難しく、私は野草や種を口にするほどになっていた。
もちろん物乞いをしていたし、万引きもしてしまっていた。
それでも常に空腹でお腹が満たされる事は無くなった。
更に監禁に近い生活になってしまう。
母の生前より私は家にいなくては駄目で、ずっと自室で本ばかり読む生活になる。
おかげでつまらない知識ばかりは増えていったが、友達とは遊べなかった。
友達と遊べないなら、友達を友達と呼ぶには難しい。
だから素行のせいでもあったが、私は友達を失う事になっていた。
生活の乱れは心の乱れだと、よく言ったものだ。
まさに私はその通りとなる。
挙動不審になりがちで気遣いは皆無。
言動もおぼつかず、学校から課されたノルマは一切達せれない。
不良というより、まさに何もできない子供となっていた。
そんな私を修正する人が、身内にいないのだから周りにも居るはずがない。
物事の分別すら困難で、私は酷い成長をしていく。
そして中学生となって、父の私への虐待は外道を増した。
今思い出しても気持ちが悪い。
口にするだけでも吐きそうだ。
『お父さん…離してっ!近づかないで!触らないで!嫌だよ………、私嫌だよ…!』
『うるさいな。大人しくしろよ!ほらっ!大人しく………しろ!』
『やめてぇ…!!お願いだから…、気持ち悪いよぉ………』
『親に向かって気持ち悪いとはなんだ!はっ、やっぱりまだまだガキか。気持ち悪いなんて思うとはよ。この、ガキめ……っ…!!』
『嫌、イヤ………。嫌………!』
私は父に抵抗する術も力もない。
全ての暴力は受け、虐待を受け、私の体も心もボロ雑巾となる。
もう我慢できなかった。
自殺しようと考えていたがそれはできない。
父への怒りと憎しみが自殺を思い止めた。
だから、いつしか私は父を殺そうと決心する。
自分と母のために父を殺さなければと。
綿密に精密に計画を立て、あらゆる事を本で調べ、少ない時間で材料を調達し、機会を狙い続けた。
しかしその機会は訪れなかった。
ある日の朝、私が起きてリビングに行くと父は倒れていた。
うつ伏せで固まっていた。
呼びかけても父は動かず、触ると既に冷たい体となっていた。
周りには吐瀉物が散らかっている。
病死だ。
死因は脳腫瘍によるもの。
やはり父は病気だったのだ。
何がともあれ、私は手を汚さずに父の早死にを見届けれて一安心した。
その後は私は施設に引き取られて真っ当にとは言い切れないが、まともな生活を送ることになる。
だけど父が私に付けた傷は癒えることはなかった。
徹底的に異性に対して恐怖心と嫌悪感を抱き、私は異性を毛嫌いした。
父にされた行為により、異性というだけで信頼は無くて憎しみしか持てない。
もう私は歪んでいた。
この歪みきった価値観や物の見方は今でも直ることはなく、世間で言う常人とはかけ離れた思考しか持てない。
父が死んでから幾分か月日が経つ。
歪んだ思考は変わらなかったが、まともな生活のおかげで生活への態度や姿勢は大きく変わった。
普通に生活できるのが何よりも嬉しく、自分で自分を修正していくよう努力した。
人並みになるだけでも私には大変な苦労が必要で、その経験や苦労のおかげで私は努力を惜しまなくなった。
最低レベルに生きていた私は死ぬもの狂いであらゆる勉強をして、平凡な大学に入った。
そして私は一人の男性と出会う。
その男性は特に秀でたわけもなく劣っているわけでもなく、真っ直ぐで平凡な男性。
もちろん私はその男性を毛嫌いする。
でも男性は愚鈍なのか態度を変えずに接してきて、私に優しくしてくれた。
でも何かポリシーがあるわけじゃなく、情けない所も多々見る事はあった。
そんな男性に惹かれる事は無かったけど、私は少しだけ心を開いてしまっていた。
でも男性自体が嫌いなのは変わらず、その男性嫌いのことをその男性にちょっとだけ話してしまう。
多分、その時はお酒を飲んでいたからアルコールのせいだろう。
『そうか。まぁ、人それぞれ思うことはあるよな。でも、女の幸せは結婚とかよく言うよな。つまりは人生を共にするパートナーがいるのが、幸せって事なのかな。……俺、哲学的な話は苦手だから分からないけど』
男性は酒を一口飲み、話を続けた。
『でも結婚に限らず、信頼できる奴は欲しいよなぁ。本当に信頼できる奴を探すのは、結婚相手を探すと同じくらい難しそうだ』
『………そうだね。よく考えてみれば同性にも私には信頼できる人はいない。貴方は、いるの?信頼できる人』
勉強に時間を費やしていた私。
おかげで交流関係は蔑ろにしてしまっていた。
それに私は疑り深い性格でもあって、人を信頼するのも怖かった。
『ん?いるよ。二人な。軽薄そうな友人と、君かな』
冗談か分からないが、意外な言葉に私は困惑して戸惑った。
言われると思っていなかったから適当に受け流すこともできない。
『え、私?何で?』
『少なくとも俺よりは優秀だからかな。そういう学的能力から見て、俺は君を信頼しているよ。それに君は生真面目だ。そういう所を見ても凄いなと素直に思う。信頼というより尊敬かもな』
そう言われて、くすぐったい気持ちになる。
私は頑張った。
まともに生きていけるように努力した。
でもそれは一つの小さな目標で、人生の大きな目標や考えは無かった。
信頼できる人と結婚して子供を授かり、平凡に生涯を遂げる。
誰もが子供の頃に憧れて、普通のようで普通以上の幸せ。
少なくともその夢は私の子供時代より、幸福なのは間違いない。
そう、普通の人生。
私は普通の人生を歩んでみたいと思った。
『ねぇ、その尊敬できる女性と生涯を一緒にしてみない?』
『は?どういうことだよ?酔ってるのか~?』
『そうかも。でも人生のパートナーは探さないと見つからないんでしょ?それに私、付き合った経験無いから色々と知りたいなと思って』
この男性に、告白まがいの事をした理由は相手が平凡だから。
それに唯一嫌いじゃない男性だと思ったからだ。
別に特別な感情を抱いているわけではない。
『ん~、俺も異性と付き合った事は無いけどな。とりあえず仲の良い友達としてよろしく、って所か?親しい異性はいないんだろ?』
『そうだよ。だから貴方が初めて親しい異性の人。改めてよろしくね』
『あっははは、よろしくな。……さん!』
わざと彼は私に、さん付けで呼んで茶化した。
私はそれを愛想笑いで流す。
初めて異性に向けた笑顔。
初めての異性との友達以上の付き合い。
何もかもが新鮮で、味わったことの無い幸せがあった。
話の途中で言ったように、人の幸せへの価値観は子供の頃に決まる。
熱烈な愛や真剣な愛は子供の頃に体験する事は決して無い。
だから大人になってからの愛は、幸せそのものだ。
初めて本当の愛の幸せを知るのは大人だけだ。
もちろん私は子供の頃に愛という感情とは無縁だった。
そのおかげで、余計に愛の幸せは甘くて暖かくて心地よかった。
心を許すのは怖いけど、心を許せる相手がいるのも幸せだ。
……でも私はその幸せの深みに溺れてしまった。
あまりにも愛の幸せは私には特別過ぎた。
余談だが、嫉妬という憎しみは愛の大きさに比例するだろう。
愛が大きくなればなるほど思考は硬くなり、間違っていても想いや考えは真っ直ぐになる。
だから嫉妬は恐ろしい。
自分の事しか考えれなくなって、手段を選ばなくなるから。
そしてある日のある事を境に、私は愛に囚われていると気付かず、嫉妬に駆られた。




