第伍話
土屋碧海は選挙事務所のパイプ椅子に座って、棚の上に載っているテレビの中継画面に映し出された、赤城帝と呼ばれ、偉そうに建国宣言をしている男の姿を、苦虫をかみつぶしたような顔で見ていた。
「何が赤城帝だ。どうせどっかのボンボンだろ。ウチの先生が大統領になるはずだったのに、どこぞの馬の骨とも分かんねぇのが勝手に皇帝を名乗りやがって。そう思いませんか、前田さん。」
そう言いながら、碧海はテープルに置いてあったペットボトルのお茶を呷り、隣で同じように顰めっ面をしている前田裕也に向かって言った。
「そうだな。ウチの先生ならこんな地味なやり方ではなく、もっと世界に向けて堂々と発信なさっただろうに。これではまるで、運動会の開会式みたいだな。」
裕也もそう言ってお茶を呷る。
先生の大統領就任を祈願した高崎ダルマが神棚から事務所を見下ろしていた。
「それにしてもどうなるんでしょうね、この群馬は。憲法って見ましたか?皇帝が好き放題出来るようになってて、大統領制よりも独裁色強いんですよ。」
碧海は、ダルマを一瞥すると前田に言った。
「ああ、読んだよ。先生も仰っていたけど、中世に逆戻りしたなって。民主主義国家の日本から帝国が誕生するなんてあり得ないだろって。
まったくその通りで、この男がこの群馬をどうする気なのか、しっかり見極めていかないとな。俺たちはこれから搾取される側に回ることになるからね。」
そう言って裕也は溜息をついた。
「本当にそうですね。前田さんは何か対策とか考えてるんですか。」
碧海は裕也の言葉に大きく頷きながらも、尋ねる。
「対策かぁ。何かしておかなきゃって気にはなってるけど、何をどうしたら良いかはまったく分からないよ。この先どうなるか分からないし、どんな政策が打ち出されるかも分からないしな。」
「そうですよね。確かに具体的なことが何一つ見えてこないんで、どうして良いか分からないですもんね。対策を立てようがありませんよね。」
「そうなんだよな。困ったもんだよ。」
二人は、グンマー帝国建国式典の中継を見ながら、お茶を飲んでいた。
スピーカーからは新しく作られた帝国国歌が流れていた。画面に映る面々はこれからこの国の中枢を担っていく人々なのだろう。中には二人が知る顔もあり、県知事の姿もあったが、そのほとんどが見たことのない顔だった。
「ところで、県が国になったってことは、県境は国境になる訳ですよね。ということは隣の県に行くのに、これからはパスポートが必要ってことですよね。」
碧海は、再び裕也に聞いた。
「そうだな。新潟や金沢へ行くのにも、東京に行くのにも、パスポートは必要になるだろうな。山間部の県境には、今有刺鉄線のフェンスが建設されていて、今年中には完成するらしいって話だしな。」
裕也はそう言って、長い溜息をついた。
「マジっすか。完成するってことは群馬を一周グルッと囲むってことですか。」
碧海は驚いたように聞く。
「そう、そういうこと。まあ、利根川とか、一部建設出来ないところもあるだろうから、そういうところをどうするのかは知らないけど、とにかく全部グルッと一周取り囲むって話だぞ。先生がそう言ってたから、間違いないよ。」
碧海の勢いに若干引きながらも裕也は答えた。
「俺たち籠の鳥かぁ、檻の中のペットじゃないですか。」
碧海は自分たちが置かれた状況を改めて認識したことで、想像以上のことが起こっていることに驚愕した。
「そういうことになるな。あの皇帝が、きちんと餌付けしてくれたら良いけど、今の群馬経済じゃどこまで保つのか。」
「そうっすよね。餌付けかぁ。この先、飯食えんのかなぁ。」
碧海は裕也の言葉に、更に打ちのめされた。
「飯だけじゃないよ。生活用品だって滞る可能性が出てくる。なにせ、全部輸入になる訳だからな。当面は関税を掛けないって話だけど、いつどうなるか分からないからな。」
「関税って、そうか。そんなことも考えなきゃいけないんですね。ますますあの皇帝とやらが憎らしくなってきました。」
「まあ、関税とかに関しては、ウチの先生が大統領になっても同じような問題が起こるから、それに関してはあの男を恨むのはお門違いだけど、国境線と称してフェンスを造るのはちょっとやり過ぎな気もするな。」
「そうっすよね。やり過ぎですよね。……うんやり過ぎだよ。やり過ぎ。」
碧海は、そう言って自分の中で何かを消化していった。
「おいおい、あいつを恨むのは良いけど、過激なことをするなよ。なんせ皇帝なんて名乗るヤツだ、何をしでかすか分からないからな。命がいくつあっても足らないなんてことになるぞ。」
「そ、そうですね。気を付けます。」
裕也の言葉に、碧海は素直に頷きながらも、心の中で何かを決意したのだった。
* * *
仕事を終えた土屋碧海は、前橋駅から少し行ったところの路地を入っていった。雑居ビルの入り口は、ステンレス製のドア枠にワイヤーが入った小さな曇りガラスが付いているドアを全身で押し込んで無理矢理開けた。かなり建て付けが悪いのか、金属の軋み音が建物内に大きく響き渡った。
「こいつはいつ来ても開けにくいな。」
碧海は独り言ちながら、薄暗い廊下を進み、奥の階段を三階まで上がっていく。
三階に辿り着いた碧海は、表札も何もないドアを開けて中へと入る。
部屋の中は、古びた家具と紙の束、香炉の残り香が漂っていた。埃臭さはないが、爽やかさもなかった。壁には古い写真や、何かの証書のようなものが貼られてはいるが、赤茶け所々破けていて、テープで補修されていた。
「ばあさんいるか!……ばあさん!」
碧海は、中に入ると声を上げた。
「ばあさんばあさん、五月蠅いよ小僧。聞こえてっから、大声出さねぇでおくれ。近所迷惑だっぺ?」
奥から現れたのは、小柄で少し痩せた老婆だった。頬はこけ、杖をついてはいたが、矍鑠としていた。髪は雪のように白く、一つに結わえられているが、所々に跳ね上がった毛が蛍光灯の光を受けて銀糸のように光っていた。丸眼鏡の奥の目は、年齢に似つかわしくないほど鋭く、碧海を上から下まで一瞥する。まるで品定めをするかのようだ。
「またあんたかい。昨日も来たばっかじゃねぇか。こんなばあさんのとこ来てねぇで、たまには街の娘っこにでも声かけてこいな。」
碧海をからかうその声は、年寄り特有の掠れ声ではあるものの、その響きの中に凜とした張りがあり、声の端々からは、年齢を重ねてきた重みのようなものを感じた。
「へっ、あんな乳臭いメスガキどもなんて相手してらんねぇよ。俺にはもっとでっかいことを成し遂げるっていう夢があるんだ。あんな奴らを構ってやる時間はないんだよ。」
碧海はそう言って虚勢を張る。
「はっ、ちゃんちゃらおかしいねぇ。ガキがガキ笑ってどうすんだい。私から見りゃ、おめぇも同じ穴の狢だっぺ。……まぁ、そこ座んな。」
そう言って老婆は古びたソファーを指差す。
勝手知ったるなんとやらだが、老婆の許可がないうちに座ると、持っている杖で叩かれるのだ。礼儀がなってないとかなんとか言って。
「ところでばあちゃん、昼間の建国式典見たか。」
碧海は所々穴が開き、解れたままになっているソファーに座るやいなや、老婆に尋ねた。
「ああ、見たよ。テレビでずっとやってたからねぇ。まさかこの群馬が独立すんとは思わなんだ。長生きはしてみるもんだねぇ。」
老婆は冷蔵庫から季節外れの麦茶が入ったポットを取り出すと、コップを二つ持って碧海の対面に座った。麦茶が好きなのか彼女はいつ来ても煮出した麦茶を出してくれる。
「でもさ、帝国って言ったら、戦前の日本みたくなるんだろ、大日本帝国みたくさ。」
碧海は老婆からコップとポットを受け取り、麦茶を注いで、老婆と自分の前に置く。
「そうさねぇ。戦さえしねぇでくれりゃ、帝国だろうが共和国だろうが、わしゃどっちでもいいけどねぇ。」
そう言って老婆は麦茶を口に含む。
「まあ、戦争するために独立したんじゃないみたいだから、そうはならないだろうけどさ、どっかのボンボンが皇帝の地位に収まってさ、なんか偉そうにしてたんだよ。ありゃきっとろくでもない政治をやるね。」
そう言って碧海も麦茶を飲んだ。
「どっかのボンボンって、ありゃ星野んとこの坊やだよ。」
「星野って?」
「星野製作所さね。星野誠史の孫で、役員かなんかやってたんじゃねぇかね。」
「ばあちゃん良く知ってるな。知り合いか?」
「ああ、よく知ってっさ。坊やのほうじゃなくて、じいさまのほうだけどな。学生のころはよく畑で顔合わせたもんだよ。あのころは皆貧しくてねぇ……ひもじい思いもしたもんさ……。」
「分かった分かった。それで、その星野ってのは、どんなヤツなんだ。」
若い時分の話をさせると時間がいくらあっても足らないので、碧海は老婆の話を遮った。
「さあ、あの坊やのことは良くは知らないさ。でも、じいさまは実直で、何事にも好奇心旺盛でな。女学生からはモテておったのぉ。」
老婆は少し頬を赤らめながら、懐かしそうな顔をして言う。
「なんだばあさんも追っかけた口か。」
「馬鹿言うんじゃないよ。あん人はそんな軽い人じゃねぇ。憧れはしたけど、わしゃ遠くから見てるだけで充分だったさ。」
「そうか。まあ、それは良いんだけどさ。ばあさんにはちょっと色々調べて欲しいことがあるんだよ。」
「なんだい、仕事の話かい。そいつぁ高くつくよ。」
「分かってるよ。金の心配はしなくて良いよ。ちゃんと出してくれる人がいるから。」
「そうかい。で、どんな話なんだい。」
碧海は、老婆に調査して欲しいことを事細かに伝えた。




