第参話
矢島虹華と言う人物の名が、表舞台に現れ、我が国の民を震撼させたのは、二十一世紀末、我が国の機密が何者かによって盗まれたとされる事件が発生し、それが明るみに出た時だった。
凄腕のスパイと称された矢島虹華の名は、それまでもその筋では知れ渡ってはいたが、一般の人々が知るようになったのはその時が初めてである。これはまだ先の話になるので、矢島虹華については時を改めて語るとして、今はグンマー帝国の成り立ちについて語ることにしよう。
グンマー帝国の前身である日本国群馬県は、人口約200万、関東平野の北西部に位置する、県内総生産7兆円を超す経済都市として発展を遂げていた。
利根川流域に発展した内陸にある群馬県は、三方を山に囲まれ、嬶天下と空っ風などと言う言葉が示すとおり、養蚕織物産業の発展により女性の収入が高く、男性が自分の妻を天下一と自慢する程、女性の社会進出が進み、地位が高いことを示唆していた。
そんな経済的にも社会的にも進んだ考えを取り入れていた群馬県であったが、そもそも、この地にあった上毛野国は古代東国の一大中心地で、四世紀には前方後円墳が出現する程、都から遠く離れていたとは言え、先進技術をいち早く取り入れるなど、周囲から一目置かれる存在であった。また古くから大陸との交流もあり、その交流を示す石碑なども域内に数多く遺っている程、世界の流行をいち早く取り入れる土壌があった。
明治になると、富国強兵の一端を担うべく、養蚕織物業が広くおこなわれ、特にフランスの技術協力を得て開業した富岡製糸工場は日本の近代化に大きく貢献した。
また戦後は四人の内閣総理大臣を輩出するなど、経済だけでなく政治でも日本の発展に大きく貢献し、群馬の名は日本だけでなく、世界の人々に認知されるまでに至った。
こうして経済的にも政治的にも大きく発展してきた群馬県であったが、その前途には暗雲が垂れ込めていた。
時は2025年、日本国は経済的にも政治的にも斜陽国と成り下がっていた。その原因は与党政権のやりたい放題である。国民を食い物にし、経済は空前の好景気を迎えているにもかかわらず、国民は困窮を極めていた。
栄養失調による死者は毎年2000人を超え、餓死者も二桁を数えるまでに増加していた。
いつ崩壊してもおかしくないこの日本において、群馬県内ではこのまま日本と共倒れしたくないと考える勇猛果敢な志士が立ち上がろうとしていた。
その志士たちが担ぎ出したのが、小渕、中曽根、福田のいわゆる政治御三家の子女たちである。彼らを中心に独立国家を建国しようとその準備を開始していたのである。
* * *
「おい、聞いたか、前橋市長の不倫話。」
「ああ、聞いたよ。まったく巫山戯た話だぜ。」
「まったくだよ。仕事の話で密会してたとかなんとか言い訳してるけどよ、見苦しいったらありゃしねぇぜ。」
「だな。仕事さえしっかりしてくれたらよ、別に私生活はどうだって良いとは思ってたけどよ、あんな言い訳めいたこと言ってるようじゃ、仕事の出来だって高が知れてんだろ。」
「そうだよな。女性市長だから真面目に市政を運営してくれるかと期待してたんだけどよ、とんだ裏切りだぜ。」
「まったくだ。ところでよ、最近なんか黒い噂が流れてるんだけど、お前知ってるか。」
「どんな噂だよ。」
「群馬県が独立するって話だよ。」
「馬鹿言ってんなよ。そんなの昔からグンマー帝国だ、グンマー王国だ、なんだかんだって他県の連中が好き放題言ってるだけだろ。群馬県に行くにはパスポートがいるとかなんとか巫山戯たこと抜かしやがって。」
「それがよ、そんな巫山戯た話じゃなくて、本当に独立しようと画策している連中がいるらしいんだよ。」
「マジかよ。そいつら頭おかしいんじゃねぇのか。こんな日本で独立してどうやって国を運営していくんだよ。ただでさえ前橋市が混乱してるって言うのに、馬鹿も休み休み言えって、いや、寝言は寝て言えって。」
「まあ、そうなんだけど、聞いた話によると、小渕、中曽根、福田の政治御三家が独立国家の権力を握ろうと水面下でバチバチやってるらしいんだよ。」
「あほくさ。確かに彼らは政治的名家だけどよ、今の当主たちが優秀だとは限らないんだぜ。」
「だからだよ。優秀じゃなければ傀儡国家として自分たちの好きに出来るじゃねぇか。優秀じゃなければない程、彼らにとっては都合が良いんだよ。」
「マジで言ってんの、そんなこと。」
「マジもマジ、大マジだよ。御三家の誰かを総理なり大統領なりに就任させて、群馬国を建国しようって話が大真面目に水面下で進んでるらしいんだよ。」
「それが本当だとしたら、県政はどうすんだよ、あっ、独立したら国政か。まあどっちでもいいや。それに経済だって、自給自足できてるわけじゃないんだぜ。主要な食料は県内の農家でなんとか賄えても、足りないものは絶対出てくる。工業製品だってそうだ。これまでは単に他県から輸送してきたものが、すべて輸入って言う形になるんだぜ。関税を掛けることはなかったとしても、税関を通す手間が一つかかる訳だろ。物流は大混乱をきたすはずだ。」
「ああ、そうだな。人、物の動きは混乱をきたすだろうな。生活だってどうなるか分からない。まあ、具体的な話がどこまで進められているのかは俺も知らないけど、とにかくそう言う噂があるってことだ。もし、群馬に未練がないなら、とっとと他県に移った方が良いぜ。」
「そこまでの話なのかよ。マジで。」
「マジで。」
「そういうことなら、頭の片隅にでも置いておくわ。」
「ああ、もし県外に出るなら俺に言えよ。俺は出るつもりで移住先探してっからよ。」
「お前、出るのか。あれだけ地元の企業が良いとかなんとか言ってたのに。」
「まあな。出るのは寂しいし辛いけどよ、でも背に腹は代えられねぇだろ。ひもじい思いはしたくねぇしな。」
「確かにな。お前がそこまで考えてるんなら、俺もよく考えるよ。」
* * *
「父上。最近県内がかなり焦臭いようですが、我が社は大丈夫なのでしょうか。」
星野誠翔は夕飯の食卓で父、誠浩に問うた。
「焦臭いというのは、独立の話か。」
誠浩は箸を止めて誠翔に確認する。
「そうです。一触即発の状態になっていると市井では噂になっています。実際街宣車もよく見かけるようになりました。父上はどう考えているのですか。」
「うむ。まあ今日明日にも独立するというのならば困ったことにはなるが、幸い我が社には様々な知見がある。どんな形になるにせよ従業員たちを守るのが第一義だ。」
二人は星野製作所を経営する社長とその専務として、会社の未来、群馬の行く末を案じていた。
「ですが父上、早めに手を打って置くに越したことはないと考えますが。」
「うむ。そうだな。群馬が独立か……。よもや冗談ではなくなってきたのだな。さてどうしたものか……。」
「父上、私が考えるには群馬が独立した場合、物流が混乱するのは明らかです。県境が国境になるということは、いずれ群馬に出入りするものには税関が関与してくるでしょう。どのような国家体制を敷くかは分かりませんが、県内経済を守らなければ群馬はたちまち困窮してしまいます。であれば、関税というカードを切るのは時間の問題。そうなれば、日本も同様のカードを切ってくる。我が社の販路も原材料の入荷もたちまち影響を受けることは必至。」
「そうだな。海外からの原材料にまで関税が掛けられてしまったら、二重関税ということになるな。そうなったら我が社は立ち行かなくなる。」
「そうです。幸い県外にも製造工場はございます。万が一独立し関税がという話になれば、そちらでの製造をメインにして、県内工場は群馬県内向けの製品のみを製造するという形にすれば、取り敢えずの急場は凌げるかとは思いますが、いかがでしょうか。」
「そうだな。その方法も一理はあるな。いずれにせよ、具体的な対策は必要だな。よし、明日の役員会議で皆の意見を聞いてみよう。すべての可能性を洗い出す必要があるからな。必要ならば社員からの意見を吸い上げることも視野にな。」
「はい。では明日早速そのように手配いたします。」
誠翔は父の言葉に大きく頷き、会社の行く末について、その後も誠浩と大いに議論を深めた。
* * *
時は移り2028年、星野誠翔は墜星宮に参拝していた。
墜星宮は、星野製作所にとってなくてはならない存在である。なぜなら、星野製作所を立ち上げた誠翔にとっての祖父、故誠史がこの神社の宮司と懇意の仲であったからだ。
その時の宮司は祖父と前後して亡くなり、今はその子息である星宮文也が宮司を務めており、誠翔と懇意になっている。
その星宮文也と社務所の奥で話をしていた。
最初はたわいもない世間話ではあったが、やがて政治御三家の政争へと話が移ると、星宮からとんでもない提案がなされた。
「誠翔君、君は群馬の未来を担う気はないか。」
星宮が改めて姿勢を正してそう言った。
「どういうことですか。私は県民として当然群馬の未来を担うつもりはありますよ。」
誠翔は星宮の真意をはかりかねて、曖昧な返事をする。
「そうか。担ってくれるか。では、話を進めても良いね。」
星宮は誠翔の返事を聞いて、何を勘違いしたのか話を進めるという。
「ちょっと待ってください。話を進めるって、どういうことですか。」
誠翔は突然の話に慌てた。
「ん?ああ、君に皇帝になって欲しいんだよ。」
星宮は、何を慌てているんだとばかりに当たり前のように言った。
「こうてい?」
誠翔はとっさに〔こうてい〕という音が理解出来ず、何のことを言っているのか分からなかった。
「皇帝だよ。エンペラー。国を統べる者だ。つまり、君をグンマー帝国の初代皇帝として擁立しようということだ。」
誠翔は何を言っているんだこの人はという目で星宮を見た。
「ちょっ、……ちょっと待ってください。……冗談ですよね。……なぜ私が……。」
誠翔は戸惑いを見せた、なぜ自分が皇帝などにならなければならないのか訳が分からず、そのあまりの荒唐無稽な話に、星宮が気でも触れたかと思い、言葉を続けた。
「……グンマー帝国の初代皇帝って、そんなネットミームみたいな馬鹿げた話、……宮司さんともあろう方が何を言ってるんですか。……私も群馬県を良くしたいとは思いますし、そのために、微力ではありますが、私の出来ることはしていきたいと思っています。ですが、皇帝っていうのはちょっと違うんじゃないですか。」
誠翔は星宮に対し、戸惑い、率直に意見を述べ、反論した。
「いや、もう我々の中では既に決定事項なんだよ。……ちょっと待っててくれ。」
星宮はそう言って席を立つと、部屋の隅に置いてあった子機を取り上げ、どこかに連絡をして、誰かを呼び寄せたようだった。
誠翔は、自分の与り知らぬところで運命が勝手に動き出していることに、戦慄を覚えた。




