第弐話
日本国埼玉県本庄市。
ここでは、現在地下放水路の工事が進められていた。年々ゲリラ雷雨の被害が拡大し、これまで整備されてきた下水路だけでは対処出来なくなってきたため、大量の雨水を一挙に排水するための地下水路を整備していたのだ。
その工事現場の駐車場で、彼らは何かを準備していた。
「親っさん、今回もよろしく。」
そこに、年の頃は四十代中半、全身にグレーのつなぎを身に纏い、黒髪にアッシュ・グレージュのメッシュを入れたボブヘアーの女性が颯爽と現れた。手にはそんな格好に似つかわしくないアタッシュケースと黄色い工事用ヘルメットを小脇に抱えていた。
「おっ、虹華の嬢ちゃん、来たな。こちらこそよろしくな。」
六十代中半の男が、黄色いヘルメットの下から、病気かと思うぐらい色白の髭面でニカリと笑った。
「首尾はどう?」
「ん、守りは完璧だぞ。」
「そっちの守備じゃなくて……。」
「冗談だよ、首尾は順調だよ。別働隊の方も含めてな。」
「そう、それなら良いわ。」
そう言って虹華と呼ばれた女性は小脇に抱えていたヘルメットを被り、顎紐を止めた。
「ただな、一つだけ懸念点があってな……。」
そう言って親っさんと呼ばれた胡子稔明は言葉を濁した。
「ここじゃ話せないこと?」
「いや、そこまで深刻じゃないんだが、熊さんが気付いている可能性があってな。」
胡子は小声でそう言った。
「そう、でも、決行するんでしょ。」
虹華はそんなことは織り込み済みとばかりに言う。
「まあ、そうなんだが、とにかく気を付けてくれよ。嬢ちゃんなら大丈夫だと思うけど、くれぐれも慎重にな。」
胡子は虹華の目を見て真剣に言う。
「分かったわ。いつも心配してくれてありがとう。」
そう言って虹華はニコリと笑い、胡子を心配させまいとする。
矢島虹華がこれからおこなうミッションは、グンマー帝国への潜入任務だ。入国には非常に厳しい審査があり、政府関係者、特に自衛隊関係者はまずもってビザが下りることはない。更に、軽犯罪も含めて犯罪歴のある者、また一定の資産を持たない者などは、完全に弾かれてしまう。
偽造パスポートや身分証を以て潜入する方法も可能ではあるが、どういうわけか、その悉くが失敗に終わっており、今回、潜入任務に定評のある虹華の許にミッションが舞い込んできたという訳である。
「話は聞いてると思うけど、向こうに渡ったら草が待ってるから、そいつにこれを渡してくれ。」
そう言って胡子は懐から小さな箱を取り出して、虹華に手渡した。
「これを渡せば良いのね。」
虹華はその黒い手のひらサイズの箱を受け取ると、胸のポケットに入れた。
「ああ、そうだ。頼んだよ。」
「大丈夫よ。任しておいて。で、今回使うのはどの子?」
「ああ、こっちに来な。ウチの秘蔵っ子を紹介するよ。」
二人はそう言って歩き出した。
駐車場から鉄の扉に閉ざされた入り口を入ると、そこには地下へと続く長い階段があった。下からは冷たい風が上がってきて、虹華の頬を撫でる。
「地下50mまで掘ってあるんだそうだ。いわゆる大深度地下ってやつだな。ここに内径10mの放水路が掘られていくんだそうだ。完成すれば春日部まで雨水が一挙に流れるんだそうだ。」
胡子が少し得意気に説明する。
「へえ。で、この階段をひたすら降りていく訳?」
虹華はそう言って地下深くへと続いていく階段を見下ろした。
「まさか、嬢ちゃんにはなんてことなくても、老体の俺には地獄の所業だぞ。こっちだよ。」
そう言って胡子は更に奥へと進んでいった。
「これね。」
目の前に工事用の簡易エレベーターの扉が現れた。
「そうだよ。」
そう言って、胡子は壁のボタンを押す。
金網で作られた簡単な扉が開くと、二人は籠に乗り込んだ。
胡子が行き先を押し扉を閉めると、ガタガタと音を立てながら、地下深くへとエレベーターは降りていった。
地下に到着した二人は、用意してあった軽トラックに乗って工事用通路を走り始めた。
「坑を掘るのに1年はかかったからな。」
胡子がハンドルを握りながら呟くように言う。
胡子が言う坑とは、グンマー帝国へと掘り進めた地下通路のことである。
「良く掘ったわね。」
虹華は感心したように言った。
「まあ、これぐらい朝飯前よ。……と言いたいところだが、確かに大変だった。なにせ、奴さんに気付かれちゃなんねえからな。
大深度地下とはいっても、どうしたって掘削振動は発生するからな。関越の下を掘り進めて行ったとは言っても、気は遣ったさ。」
胡子はちょっとドヤ顔である。
「それは大変だったわね。」
「まあな。でもよ、モグラ3号のナナちゃんが良い仕事してくれたからな。」
「何その名前。3号でナナって紛らわしいわね。」
「かわいいだろ、嬢ちゃんとも名前が似てるし、親近感が湧くってもんだろ。」
「親近感どころか殺意が湧くわね。」
「おいおい、そんなこと言うなよ、名前付けたの指令だからな。」
「やっぱり。後でC4でも送りつけておくわ。」
「物騒だな。指令を爆殺するのは構わないけど、俺たちを巻き込むなよ。」
「冗談よ、冗談。」
そう言う虹華の目は笑っていなかった。
「嬢ちゃんが言うと、冗談に聞こえないから、勘弁してくれよ。心臓に悪いって。」
胡子はそう言って笑う。
これから虹華がグンマー帝国に侵入する坑道は昼夜を問わずここ一年を掛けて、胡子が率いるチームが地道に掘り進めてきたものだ。
地下放水路の工事現場を利用し、偽装工作をしながら関越自動車道の下で、1日およそ30m前後をシールドマシーンの遠隔操作によって掘り進めた。
胡子の話では日常点検やメンテナンスには苦労したようだが、虹華を送り出すには十分な坑道が出来上がったという。
軽トラックは5分程で侵入のための坑道入り口に到着した。
工事用通路の脇に作業用の広場があり、プレハブ小屋と様々な重機が置かれていて、その奥に内径2m程の坑道が奥へと続いていた。
「ここだよ。」
胡子はそう言うと、軽トラックを広場の空きスペースに入れた。
坑道にはずりと呼ばれる掘削土を搬出するパイプと資材を搬入する線路が敷かれ、壁には様々な用途のケーブルが延びていた。
「これが、モグラ3号のナナちゃんが掘った坑だよ。」
胡子は坑の前で、まるで孫が作った作品を自慢するように言った。
「その名前、どうにかならなかったの。」
虹華は少し不機嫌な顔で言う。
「俺に言うなよ。指令が決めたんだ、下々の俺たちにはどうしようも出来ないよ。」
そう言って胡子はシュラグのポーズをした。
「別に責めてる訳ではないわ。ただ、爆殺に値するぐらいの怒りが沸々と湧き上がっているだけよ。」
虹華はそう言って、真っ暗な坑道の奥を見た。
「だから、冗談にもならないから、勘弁してくれって。……まあ、それよりもほら、嬢ちゃんが乗る車がこれだ。」
胡子の後ろから、大の男が四人がかりで乗り物を担いできた。
形状はボブスレーで使うような橇に鉄道用の車輪が付き、内部には様々な計器類だけでなく、電車のようなマスコンまで取り付けてあった。
「これで行けって言うのね。」
虹華はその乗り物を隅々まで観察しながら言った。
「そう。およそ10㎞程だから、歩いて行けない距離じゃないが、坑道内は換気が出来てない上、灯りもないからな。」
胡子はそう言って、もう一人が運んできた装備を受け取り、荷物運びの五人に礼を言った。
「そう。それなら楽させて貰うわ。」
虹華はそう言ってニコリと笑う。
「ああ、こいつに乗っていけば、あっという間だ。」
胡子もニコリと笑う。
「まさか、これにも変な名前が付いてたりしないわよね。」
虹華がふと疑問に思い尋ねる。
「変かどうかは俺が決めることじゃないが、ナナカちゃんって名前が付いてるぞ。」
胡子は恐る恐る告げる。
「あの指令、絶対殺す!」
自分と同じ名前を橇に付けた指令に対し殺意を覚え、虹華は拳を握り締め、歯ぎしりをした。
「嬢ちゃん、まあ抑えてな。怒り心頭なのは分かるけどよ、あれでも一応俺たちの指令だからな。」
「だからよ。一度殺して地獄の苦しみを味わえば良いのよ。」
「ははははは、そうだな。まあ、一度死んだら二度と生き返っては来ないけどな。それほどの苦しみを味わうべきではあるな。」
虹華の言葉に胡子は声を上げて笑った。
虹華は、胡子から橇の操縦についてひととおりレクチャーして貰い、用意された酸素ボンベを背負い、マスクを着用した。呼吸を確認してから、橇に乗り込むと、いよいよ出発の段になった。
「一応、向こうでの手筈は整っているから、安心して行ってこい。ただし、無茶はするなよ。必ず無事に帰って、土産話を聞かせてくれ。」
胡子は虹華の目をしっかり見てそう言った。
「分かってるわ。安心して、私は矢島虹華よ。ヘマはしないわ。焼きまんじゅうと蒟蒻を買ってきてあげるから。」
そう言って虹華はニコリと笑った。
「ああ、楽しみに待ってるよ。気を付けてな。」
「それじゃ、行くわ。」
虹華はそう言うと、胡子が進路の安全を確認し終わるのを待った。
これから単身グンマー帝国に乗り込む不安と、後戻り出来ない覚悟が、虹華の心に渦巻いていた。
虹華は大きく深呼吸し、胡子の合図に合わせて、マスコンを手前に引いた。橇は徐々に加速を始め、あっという間に坑道の奥へと消えていった。




