044話 滴る温度、撫でる温度
俺は勢いよく上体を起こした。
まだ残暑が猛威を奮う9月の正午過ぎ。あれから2ヶ月も経ったというのに、未だにあの日の夢を見ることがある。
クーラーを点けていた筈なのに汗だくな身体を、俺はベッドから引き摺り下ろした。
カーテンの隙間から覗く太陽は、まだ高い。
夜勤続きのルーティンを送っているため、今日も床に就いたのは朝の9時辺りであった。まだ3時間程度しか眠れていない。
しかしもう一度ベッドに入る気にはなれなかった。
汗を流そうとシャワーへ向かうと、リビングのソファベッドで丸まって寝ている菖が目に入る。
菖の寝床として大きめのソファベッドに買い替えたのだが、以前の癖が抜けないのか縮こまって寝息を立てていた。
俺は菖を起こすまいと、物音を立てないようにしながら通り過ぎる。
浴室には、物を極力置かないようにしている。
シャンプーなどのボトルが並んでいるだけだ。
その理由は、菖が盲目状態でシャワーを浴びるため、全て手探りで判断しなければならないからだ。
ボトルは並べる順番が決められており、たまに入れ替えたまま放置してしまうと菖に怒られる。俺用のメンズシャンプーを菖が間違えて使ってしまった時は、半日くらい落ち込んでいた。
蛇口をひねると、まだ少し冷たいままのシャワーが汗で濡れた頭皮に降り注ぐ。
2ヶ月前、参院選当日のあの日。
俺と甲斐斗は5年半ほど振りに再開した。
あの時、公安6課のコートに身を包んでいた甲斐斗を反射的に非難してしまったが、よく考えれば俺にそんな資格があるのだろうか。
お前に説教される筋合いは無い、と。
甲斐斗が口にした言葉が刺さる。
俺は報道革命後の業界から逃げたのだ。一方、甲斐斗は信念を捻じ曲げてまで、まだ一線に身を置いている。
「ダセェな……」
いつまでも温かくならないシャワーを首筋から背中に感じながら、俺はそんな言葉を漏らしていた。
リビング――と言っても10畳ちょっとの空間にPCデスクスペース、ソファベッド、台所スペースが所狭しと並んでいる。
菖にせがまれて最近購入したばかりの小さな中古のテレビは、シャワーを浴びる前とは異なり画面が点いていた。続けて俺は、ソファに菖が居ないことに気付く。
「おはよ」
かけられた声とともに、ふわりと芳ばしい香りが漂う。両手にひとつづつコーヒーカップを持った菖が、俺の前を横切ったのだ。
菖はカメラ付きメガネを買ってからも、家ではヘルメットの方を愛用している。ヘルメットに仕込んだカメラの方が画質や画角などが高性能だからだと言っていた。
菖はリビングのローテーブルにカップを置いてソファの端に座ると、その横のクッションを無表情でポンポンと叩く。
俺は誘われるがまま、彼女の横に腰を下ろした。
俺はまだ、甲斐斗と、あの日の事を呆然と反復していた。
この2ヶ月、あの夢を見た日はいつもこうだ。
菖は気付いているのかいないのか、特に俺のことを気にかけもせずテレビに耳を傾けているようだった。外はまだ充分に明るい時間帯だが、対面するビル群の陰になって日光はほとんど入って来ず、照明を点けていない室内は薄ぼんやりと暗い。
あの中枢先進医療センターでの問答以前に、最後に甲斐人に会ったのはいつだったか。
それは確か、配信者転落死事件が起きる一週間程前だった。取材現場ですれ違って、僅かだが言葉を交わしたのを覚えている。あの時はきっとあいつにとっても仕事中で、会社は違えど同じスクープを追っていたのかもしれない。
しかし報道革命に呑まれ、俺はそれを記事にはできなかった。甲斐人にだってきっと、苦しみの中で断念したスクープがあっただろう。
それ以来、俺達は連絡を絶っていた。
そして2ヶ月前、お互いに望まぬ姿での再会となったのだ。
「冷めるよ。コーヒー」
テレビから視線を離さずに菖が呟く。
いや、彼女にとって視線など意味は無いのだが、それでもこちらを視ていないのは何となく感じた。
俺はゆっくりとコーヒーを啜る。
温かな苦味が舌を伝う。
ここのところはずっとアイスコーヒーだったため、淹れたてのコーヒーは久々だった。
彼女がおそらくシャワーの音で起きたこと、そしてコーヒーを淹れてくれたこと。それらにお礼や労いの言葉のひとつもかけるべきであるのに、今は頭が上手く回らない。
『――それでは次のニュースです。都内の犯罪検挙件数が更新され、これにより四半期ごとの検挙率が9期連続での増加となりました。これについて郷田都知事は、警視庁を高く評価すると共に、外国人犯罪の割合が急増している事に対し苦言を――』
俺はテレビから流れるのニュースを聞きながらも、何か菖に述べる感謝の言葉を探していたが、それが見つかる前に菖が口を開いた。
「新聞記者から警視庁に転職って凄い経歴だよね。しかも公安って、警察の中でも特にヤバいトコらしいし」
それはニュースの内容から広げた会話なのだろうか。いや、情けない事に俺の態度から甲斐斗の件で思い詰めていたことが筒抜けだったのだろう。
菖は何の前置きもせずに、あの日の話題を振ってきた。
甲斐斗は入社した新聞社で先ずは社会部に配属されたと、当時聞いた覚えがある。サツ回りなどの下積みも経験していたのなら、元より警視庁と近しい間柄であったのかもしれない。
それでも菖の言う通り、公安部ともなればそこに至るまでの道のりは決して易しくない。
甲斐斗のあの、冷たい視線が思い起こされる。
「一体何がアイツをそこまで駆り立てたのか、今の俺には知る権利も無いな……」
「何故なら俺は、そこから逃げたのだから?」
俺が続けそうになった弱音を、俺より早く、菖が被せた。
俺は驚いて菖の方へ顔を向けると、瞬間、両頬に強い衝撃が走った。
「いい加減くどい! いつまでくよくよしてんの? 仕事の貴賎なんて考えないでよ。おつろーくんに甲斐斗さんのことが解らないように、甲斐斗さんにだっておつろーくんのコトは解らないよ」
両手で俺の顔を挟む菖は、険しい表情で見えていない筈の大きな瞳を真っ直ぐに俺へ向ける。こんなに近くで、俺を心配して励まそうとしてくれている。
俺は両頬に伝う小さな温もりを感じながら、今大事にすべき物へと目をやる。職や仲間を失っても、また新しい職や仲間を得たのだ。失ったものより、今大切にできるものに焦点を合わせなければ。
人生とは、きっとそうやって巡らせるものなのだから。
「悪い。そろそろ直る」
相も変わらず、自分でも笑ってしまうくらい、足りない返答だった。
しかし菖は、それでも満足気な笑顔を返してくれた。そして俺の頬を挟んでいた掌をゆっくりと撫で下ろして言った。
「ヒゲ、剃り忘れてる。今日もお仕事なんだから、しっかりしてよね」




