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絵空事イデオロギー  作者: 千枝幹音
第03章 蒼玉色デモクラシー
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037話 国民の権利

 ハヤトが再びこの病室に現れたのは、ルームサービスのランチを食べ終わった頃だった。


「わっ、ホンモノのハヤトだっ! サイン! サイン下さい!」

 心の準備はできていただろうが、それでも本人を前に菖は取り乱していた。


「これは可愛いらしい助手さんだね、妹から聞いているよ。もしかして、無線で話してた子かな?」

 菖が差し出したアイちゃんを包むゴツいスマホケースの裏に、ハヤトは慣れた手つきでサインを書く。その物腰もテレビ越しに見た今朝とは違い、柔らかなものに戻っている。


 そう言えばハヤトが俺のタクシーを拾う直前まで、菖と無線で会話していた事を思い出す。



「――電波法第52条」

 サインを書き終えたスマホケースを菖に返しながら、ハヤトが突拍子もなく言い放つ。


 きょとんとしている菖を他所に、ハヤトは挑戦的な視線を俺に向けている。

「joxiの無線なら、私用も合法でしょう」

 俺はハヤトの言わんとしているコトを察し、言葉を返す。


 本来のタクシー無線は、国の定めたHz帯で配車業務を行う事が義務付けられていた。そしてこの一般業務用無線では、定められた用途ではない無線使用を禁ずる。これが電波法の第52条である。すなわち、菖と他愛のない会話を行うことは許されないないのだ。


 しかし、joxiに搭載された通信機は、タクシーで既存運用されていた400MHz帯ではなく、ケータイなどで使用されるGHz帯が採用されていた。基地局を経由して通信するそれは、無線機というよりただのハンズフリー通話装置なのである。そして通話により運転が注意散漫になるという危険性も、joxiの自動運転サポート機能がカバーしていた。


「父さんはなぜ、そんなことをしたんだろうね」

 ハヤトは俺の答えに、さも返答を読んでいたかのように爽やかな笑顔を返した。


 joxiは首都経済圏構想の屋台骨であり、その設計思想は紛れもなく郷田和義のものである。個人タクシーの使用する無線を業務用無線の法の枠から外したことに、郷田和義の意図があるというのだろうか。ハヤトはそんな含みのある言葉をこぼした。


「俺のタクシードライバー歴は浅いので、理由は量りかねますね……けど、色々と便利でありがたいですよ」

 ここがシロ派のテリトリーど真ん中という事を差し引いても、あのタクシーの優秀さは疑うところがなく賞賛に値した。


「そっか……」

 父への賛辞など聞き飽きているだろうに、ハヤトはどこか遠い目をして一瞬だけ物思いに耽った。父を誇るでも妬むでもなく、その瞳はもっと純粋な潜考の光を宿していたのを、俺は見逃さなかった。

 ハヤトの言う通り、彼にとっては本当に父親の政治は遠いところにあるのかもしれない。



「……そうだ、オレからキミたちへプレゼントを持ってきたんだった。まだ開封してはいけないよ」

 一呼吸置いてハヤトはそう言うと、俺と菖に封筒を一封ずつ手渡す。そこにはこう記されていた。


『東京都渋谷区 神宮前 X-XX-XX

 選挙人 橘乙郎

 不在者投票証明書在中』


「……随分と、手が早いんですね」

 記された住所は、これが本来なら自宅に届くべき物であることを示している。それをいとも簡単に複製してこの場に揃えているのだから驚きだ。

「そりゃそうさ。参政権は国民の大切な権利だからね」


 国民の権利、とは大仰な言い草だ。こんな状況で口にするそれは、特権民からの皮肉なのだろうか。


「あ、これでこの病院から出ずに投票するんですね!」

 少しの間を置いて、菖が封筒の意味を理解する。参院選の投票は明後日だが、ハヤトとしては俺たちをここに軟禁していたい。その為の処置ということだ。変なところで筋を通そうとするのは、厳格な父親を持った故なのだろうか。

 しかし名刺のあった俺はともかくとして、居候の菖の素性はどうやって突き止めたのか疑問が残る。


「オレには何でもお見通しだってコトだよ」

「聡美さんに聞かれたの、ここに来るまでの車内でね」

 ハヤトの意味深長な言葉は相変わらずだが、今回に限っては菖のネタばらしにより早々に打ち砕かれる。ハヤトは参ったとでも言いたげに、両掌を挙げるジェスチャーをする。


「後で投票立会人をよこすから、その時に封筒を開封して投票しておくれ」

 ハヤトはさも簡単なことのように、そう言ってのけた。


 病院という特殊な場においては、入院患者には不在者投票制度が適用される。寝たきりの重病患者には、立会人の方から病室に赴いて投票が可能になる制度だってあるのだろう。

 だが、俺や菖は入院患者ではないどころか、郷田隼人が半ばプライベートで囲い込んだ侵入者だ。投票環境を用意できるのもさる事ながら、住民票に紐づく投票のあれこれを昨日の今日で用意するのは至難の筈。


 ここまで自由に融通を効かすことができるのが、政界の重鎮の血族かつ芸能界トップの男のスケールだとでもいうのか。


 ハヤトは相変わらず飄々とした態度で、片手をひらひらさせながらこの部屋を後にした。


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