167話 【SIDE-都築甲斐斗】順序
孫六氏からターゲット引き継ぎを終えた日の夜。
僕は帰宅すると電気も点けずにソファで頭を抱えていた。
私人Xは乙郎だった。
僕を含む番記者たちが誰一人として執行できなかった正義のジャーナリズム――それを親友がやってのけたんだ。思い返せばあの晩餐会の日に乙郎とすれ違ってしまった事が、スクープの糸口になった可能性すらあり得る。
「ふふっ……ははは……!」
この孤独な部屋に響く嗤い声は、どうやら僕のものらしい。
親友のジャーナリズムが巡り巡ってこの国を変えるきっかけを作ったのだという、清々しさすらも感じる高揚感。やっぱり乙郎は、弱い立場からでも巨悪に立ち向かえる、僕の信じていた通りの男だった。
そして同時に、自身を苛む気付きにも襲われる。
その後のツワブキの結末や乙郎が既に記者を辞めていることを鑑みれば、僕とすれ違ったことがきっかけで彼の人生が狂ってしまったのかもしれない。あの日の僕は軽率で、その因果で乙郎は5年以上の歳月が経ってなお公安に目を付けられている。
もう何年蓋をしていた、数多の情動が疼く。
「……どうしたの?」
パチンッ、と電気が点く。
声の主はもうここの合鍵すら持ち歩く聡美様だった。
「何か変な笑い声聞こえたけど……大丈夫?」
見上げると、聡美様は珍しく多少なりとも心配するかのような顔色を滲ませていた。
「……どこで狂ったんだろうね」
「えっ……?」
僕は終わりの無い自問自答を切り上げ、顔を覗き込む彼女に視線を送る。
「聡美様……貴女はいったい何の研究をなさっているのですか……!?」
小鳥遊丈は以前より国家機密に相当する情報に手を掛けており、それは和義様が日笠重工と推し進めてきた研究開発にまつわるものである――和義様からここまでは聞かされていた。
そしてその機密はもはや契倫会だけのものではなく、皆国党全体に関わる特大の利権へと変貌を遂げている。それはひとえに和義様の政治力で成せるものであったのだけど、だからこそ総理派は警戒を強め、結果として僕はこの件を守るB班でなくA班の方に配属されたのかもしれない。
和義様はその事について特に憂う様子を見せなかったけれど、僕が郷田邸に呼び出されて報告を求められる事も日に日に減っていった。もはや僕は和義様にとっても期待外れの駒に成り下がったのかもしれない。
そうして長いことこの件の核心に迫る機会が無かった僕に話を持ちかけて来たのが、総理派B班の孫六氏だったのだ。
僕は孫六氏から聞いた話を、聡美様に問いただす。
「――小鳥遊丈が盗み出したのは、とある研究医療チームの報告書の写しです。それは和義様の裏からの働きかけで多くの予算が追加され、中枢先進医療センターで未知の症候群について日夜研究を続けている……貴女の居るチームです」
この事実を紐解き対処する事が、乙郎に対して責任をとる方法なのだと自分に言い聞かせる。
聡美様は特に驚いた素振りを見せず、ただ観念したかのようにため息を吐く。
「そうね。でも未知の症候群じゃなくて知覚性デバイスジャック、ちゃんと論文も出てるから」
「裏の動向を追えば追うほど、それだけでは説明しきれません。未知で公開されていない部分があるのではないですか?」
「……その内容を教えるのは許されていない。解るでしょう?」
「理解した上で、貴女だから聞いています。教えて下さい!」
僕がソファから立ち上がると、視線の高さが逆転する。
「っ……! なら、もうここには来ません。この鍵もお返ししますので」
聡美様はいつものぶっきら棒な言葉遣いなんかより数段と冷たい敬語で、僕を突き放し踵を返そうとした。
「――待って!」
衝動的に体が動いた。
僕が聡美様の肩を掴むと、その勢いで壁際まで追い詰めてしまう。背が壁に当たった衝撃で聡美様が小さく呻く。初めて掴んだその身体は想像よりもずっと華奢で、僕は及んだ行為への嫌悪の念に襲われそうになるのを必死に堪える。
彼女のハーフアップは崩れ、その輪郭線にはらりと後れ毛が垂れた。一呼吸置いて、勢いで閉じていた聡美様の瞼がゆっくりと開く。
「……なに?」
その眼光は一切の怯みを見せず、真っ直ぐと僕を見つめる。
「公安の任務じゃない。僕個人の頼みとして教えて欲しいんです」
「……成程、自負はあるのね。でもそんな見え見えじゃ搦め手としてもお粗末じゃない?」
「余裕が無いのは、認めます……でももう僕一人の力じゃ間に合わなくなってしまいそうなんです……!」
「貴方の事情なんて知らない。それにこんな順序で詰められても逆効果って、わからない? あるいは力ずくも辞さない心構えなのかしら」
やっぱり軽率な行動だった。
聡美様のその言葉で、僕はもうこれ以上我を通すことが難しいと察した。彼女はこんな虚仮威しが通じる相手では無いって、心のどこかでは解っていた。すると、取り返しのつかない事をしてしまった後悔が押し寄せる。
「……申し訳ありません」
卑劣な自己満足に従い最後だけでも優しく、聡美様の肩からそっと手を引こうとする。しかし今度はなんと彼女が、その手を力強く掴んで引き寄せた。
「――来年春にこの星を襲う磁気嵐、それがデバイスジャック患者に悪影響を及ぼす可能性があるの」
「えっ……?」
突然の事で呆気に取られている僕を他所に、彼女は突拍子も無い説明を浴びせてきた。
関東圏に住まうデジタルネイティブ世代が陥る電磁波に敏感な体質――それを知覚性デバイスジャック症候群と定義付けて聡美様たちが研究していたところまでは知っていた。あまり注目はされていないけど、さっき彼女が口にした通り論文が発表されている公然の事実。
しかし太陽フレアの活動により降り注ぐ磁気嵐がその患者に卒倒や知覚障害をもたらすのなら、未曾有の災害は避けられない。そしてその刻までの猶予はもう一年未満。
それは聞けば聞くほど極秘で研究されていた事に納得のいく内容で、そしてこれを和義様が知らない筈がなかった。あの人の事だから聞けば教えてくれただろうに、敢えて自分からは語る人じゃない。だから今日まで色々な事に目を逸らしてきた僕には、決して辿り着けなかった事実。
「もう残り一年を切ってる。それまでに明確な対処法を編み出せなければ、上はこの事実もろとも秘匿で貫くつもり。小鳥遊は盗み出した研究資料からそれに勘づいて、許すまいと考えているのでしょうね」
それはただただ唖然とするしかない驚愕の事実。
小鳥遊丈はこの国をパニックに陥れる情報を握っている。
「何故……話したのですか」
しかし僕の口から最初に出てきた疑問はそれだった。
聡美様は俯くと、震える声を絞り出した。
「……もう無理。……助けて」
それは初めて聞く聡美様の弱音だった。
和義様の娘として常に気を張っていた彼女は、重すぎるその秘密を吐露して楽になりたかったに違いない。
衝動的にでも、軽率にでも。
僕と聡美様は境遇が似通っていた。
機密性の高い生業に囚われ気安い友人も持てない生活で、責任と向き合う時間ばかりが増える日々。そんな中で唯一、互いの事情を把握した上で気兼ね無くとりとめのない会話が許されていた間柄――それが聡美様と僕の不可分な関係。
彼女が僕の家に頻繁に訪れていた理由、そしてこの昏い部屋で己を嗤っていた僕を独りにしないでくれたものの存在に、今更ながら気が付く。
「……任せて下さい」
だから自然とそんな言葉が出た。
自己嫌悪する今の職も立場も、聡美様の為になるのならまだ前向きに利用できるかもしれない。
彼女はまだ流れていないそれを掻き消すように手の甲で拭うと、僕の言葉に満足したかのように少しだけ口角を上げた。
「でも、私に言い訳を作ってくれた事は褒めてあげる。責任を問われたら“乱暴されて言わされました”で通しちゃうから。そうならないように守ることね」
「守ります。貴女のことも、秘密のことも」
僕は聡美様の震える手を握り返すと、この5年間知る事の無かった彼女の体温を感じた。彼女のこんな表情を見たのは、この時が初めてだったかもしれない。
「……順序、今度は間違えなかったようね」




