163話 【SIDE-都築甲斐斗】不似合いな昼下がり
「ちょっとは体格良くなってきたんじゃない?」
春先の穏やかな陽気は、鬱屈とした日々を多少は和らげてくれているのかもしれない。
そんな昼下がりに麻布十番のとあるカフェで落ち合った大学帰りの女性は、僕を見ると開口一番にそう言った。
「ジム通いももう3ヶ月目ですので」
「……でも多分、そんなストイックになる必要ない。だからあんまり身体を虐めないようにすることね」
かつての番記者業務は一日中走り回る必要があったため運動の苦手な僕には苦行だったけど、そのお陰でスタミナはそこそこに鍛えられていた。しかし健康的とは言い難く体重は落ち気味だったので、今は筋肉をつけるために渋々ジムに通っている。
警察学校に入ったら柔道で黒帯を取らなければならないという事実は、僕を憂鬱にさせるのに充分だった。なのにその憂鬱に身を置く事で僅かばかりの安らぎも感じていた。
「まぁ、そっちの方が甲斐斗にとって楽なのなら、好きにしたらいいけど」
対面に座った彼女の名は郷田聡美。
この近くの大学の医学部に通っており、この春から5年生になる。
あの日僕が庁舎案内をしたメガネの女性は和義様の娘だった。隼人様が双子だということは知っていたけど、聡美様は表に出てこないので顔までは認知していなかった。郷田邸を出入りするようになった僕は、図らずも彼女に再会したのだった。
今日はメガネをかけていない。
郷田邸の周りに番記者やパパラッチが張っている際には彼女が連絡仲介役になる事もあるし、今ではこうしてプライベート紛いの時間に呼び出される事もある。
娘に変な虫が付かぬように見張っておけと言っていた和義様は、どこまで本気なのか分からない。SPの真似事のような指令を何度も貰っているけど、警視庁に採用されるまでは無給の僕に駄賃を握らせてくれるのだから文句は言えない。
半年前は記者として研鑽を積んでいたのに、どうにも数奇な人生になってしまった。
「……今は勉強の方にも力を入れなければならないので、身体作りはほどほどにしております」
「そっちだって、多少点数が満たないくらいならお父さんが捩じ込むから、どうとでもなる」
プライベートでの聡美様は、第一印象とは程遠い素っ気ない態度の人だった。
警視庁の採用試験もすぐそこに迫っている。
警察官志望の中でも警視庁は特に倍率が高く、その後の公安警察への配属はさらに道のりが険しい。聡美様はそんな事を簡単に言ってくれるけど、僕はできるなら公正な道を歩みたい。
「……ちょっと。今、さてはお前も裏口入学か?って考えたでしょう。私は違うから」
「……いえ、そんな事は」
聡美様は紅茶で喉を潤しながら、つっけんどんにそんな事を口にする。彼女は名家の生まれとあって、学業成績も優秀なようだった。今は研究医を目指しているらしい。
「ところで、最近お父さんやけに機嫌が良いんだけど、何か心当たりない?」
辺りが空席で聞き耳を立てられない事を確認し、僕は小声で答える。
「手ごたえのある政敵が台頭して、それが嬉しいようです」
政敵の名は新垣治。
皆国党の若手議員だった彼はこの春に離党し、清廉情報思想を政治理念とした新党――国民清粋党を立ち上げた。それは半月前の衆議院解散と同時期だったのに、民清党は少ない準備期間で4議席を獲得。与党を脅かすような勢力とは程遠いけれど、裏切りともいえる彼の動向を総理は目の敵にしているらしい。しかし一方で、和義様個人はそんな彼をかなり評価しているようだった。
そして新垣氏は、驚くことに僕が大学時代に所属していたサークルの創始者でもある。10代近くも上なので面識は無いけど、彼が卓越した器量の持ち主であることは機関誌『幸首』のバックナンバーからも窺えた。
「敵が有能な裏切り者って、お父さんにとって良くないことじゃない。それで機嫌良くなるとか意味わからない」
和義様の視野にはもう国政は無く、日笠の受注したタクシーシステムの完成を見計らって都知事選へと出馬する予定だった。だから総理が民清に手を焼くのを、和義様は高みの見物ができる。けれどこの愛娘がどこまで教えられているか定かではなかったし、それに彼女は理解するつもりがまるで無さそうに言い捨てたので、僕は黙っていることにした。
言い付けでカフェに付き合ったけど、そろそろ帰宅の時間。
聡美様を郷田邸へ送り届けるのは何故か僕の日課にさせられていた。うろつく番記者やパパラッチには顔見知りも多いため、万が一でも素性がバレないよう、僕はサングラスをかける。
僕が今こんな事に勤しんでいる事は、友人たちは当然の事ながら遠方の家族も知らない。両親にはまるで新聞記者を続けているかのように振る舞っている。疑われるような事があればいくらでも偽装してやると和義様は言っていたけど、それでも家族と連絡を取り合う際は細心の注意を払っている。
帝東大入学のため上京してきた時からの住まいも、大学や大和新聞社に記録が残っているという理由で、和義様の指定するマンションに引っ越した。
公安警察になる準備は前倒しで着々と進んでいる。
日を追う毎に秘密が増え、生活が窮屈に、現実感の無いものになっていく。
そんな現状を、今の自分にはこんな生活がお似合いだと言い聞かせて過ごしている。
「似合ってないね、それ」
一瞬、何のことかと戸惑ったけど、それはサングラスを指しているようだった。僕だって似合うとは思っていない。
「恐縮です」
僕はこの和義様の愛娘の機嫌を損ねぬように、しかし努めて遜りも気易くもしなかった。彼女の方もこちらの態度については特に気にする様子も無く、ただ好き勝手に呼びつけては取り止めもない話を振るばかりだった。
このぶっきら棒な娘のお守りも今だけの仕事で、警察学校に入学すれば今度は寮生活が始まる。そうすれば仮初のマンション暮らしも終わり、彼女と会う事もしばらくは無い。そして半年の期間で優秀な成績を収めれば、いよきよ公安警察への道が拓けてしまう。
僕の心を置き去りに、景色は目まぐるしく変わっていく。
サングラスでそのコントラストを誤魔化しながら、僕は車のキーを片手に会計を済ませた席から立ち上がった。




