159話 【SIDE-都築甲斐斗】狩りの慣わしの呪い
あのシークレットと銘打たれた得体の知れない晩餐会はもう5日も前の事なのに、その爪痕は未だに僕を苛んでいる。
今まで全く繋がりの無かった筈の、日笠重工会長と郷田大臣の会合。記者懇談会とも政治資金パーティーとも言い切れない、あの不可解な催し。一般報道されている内容と相反するこの国のパンゲア展望を、決定事項のように語る郷田大臣。
それらを思い返す度、自分は記者としてオフレコなどという要請に従っていて良いのかと自問自答する日々。
「刺激的な夜だったろ? まぁお前ももう4年目だし、色々と知っていく時期かもな」
それは恒例の深夜残業中だった。上司に誘われた喫煙室で一服していると、彼はこちらの内心を見透かしたようにその件について触れた。
「はい、とても勉強させていただきました……やはり伊東さんクラスの方はご存知なのですね」
伊東さんは大和新聞本社のデスクだ。同じ政治部の所属で、僕の書いた原稿に目を通して整えてくれる立場の人。
晩餐会について面食らう事は多かったけど、あの大所帯で執り行われたのだからその内容の機密性自体は高くないのかもしれない。僕たち新米にすら漏らすような内容を、政治家と蜜月なメディアの上層部が知らされていないとは考えにくい。あの場にいた政財界の者たちも、既に諸々を知った上で僕たちの反応を楽しんでいる様子だった。
世間には伏せられているけど、関係者には当然のように周知されている事実。それはジャーナリストとしての僕が最も憎むべき光景であり、しかしどこにでもありふれていた。
「おいおい、皆まで言わせないでくれよ? ただまぁ、なんだ、どこもそんなんだから、思うところはあるだろうが若いウチは逸るな。今はキャリア形成に励むのがお前のすべき事だ」
それは、義憤に駆られかねない若手の暴走を牽制するかのような響きだった。でも上司の言葉とあれば、その抑圧には逆らえない。
晩餐会では自我を出した発言をしてしまい、しかもそれは郷田大臣の意見と食い違っていたようだった。もし大臣の心象を損ねてしまっていたら、今後の番記者業務に支障が出てしまうかも……なんて考えると気が滅入る。キャリア形成に励むのならば、一時の感情を棄てて取材対象とももっと上手く付き合わなければ。
普段からのらりくらりとしている伊東さんにも、情熱溢れる若手時代があったんだろうか。
「……はい、精進します。お気遣いありがとうございます」
「なぁに、俺が楽したいだけだよ」
今の僕に何かを変えられると思うほど自惚れてはいない。
それに何より上司の顔に泥を塗る訳にはいかなかった。
僕は運動が苦手だ。
物心ついた頃にはもう薄らと自分が周りより劣っている事に気付いていた。けどパズルを解いたり図鑑を覚えたりする事はよく褒められたので、きっとそれが僕の武器なんだろうと幼心に感じていた。
しかし小学校に上がって机に向かう日々が始まっても、僕の武器はまったく良いものに思えなかった。
時間割には何種類も修めるべき学問があるのに、男子のコミュニティは運動という物差しだけで回っている。主要教科オール5で体育だけ2だった僕が、オール2で体育だけ5のクラスメイトに舐められる。運動が得意な奴の周りに人が集まり、苦手な奴はさらに苦手な奴を見下すことで自尊心を保つしかない。
そんなのおかしいって叫びたかったけど、でもそれは仕方の無い事だと何故だか納得してしまう自分がいた。だって僕は突き飛ばされたら勝てないと本能的に理解してしまうし、それだけで足がすくむ。
テストで100点を取った日の夜も、リレーでアンカーを務める夢を見た。勉学では満たされないものが、僕の奥底に粘りついて離れない。
中学に入ってもその苦悩は続く。
自分を変えたいと願って勇気を出して入った運動部で、なのに僕の手足は思うように動かなかった。上下関係を誇示する為だけの非効率的な習慣の中で、レギュラー入りできる運動能力と先輩に可愛がられる愛嬌が備わっていなければ、後はもう惨めな思いばかり。
けどここで逃げ出したら僅かに残る最後の自尊心すら折れてしまいそうで、しごきに耐える事こそ男を成長させるんだって、そんな風に自分を騙しながら3年間を過ごした。
高校受験で入学した進学校では、皆が勉学に励み学問ひとつひとつに価値が認められているのを感じた。僕ももう身の丈に合わない運動部は選ばず、かつてより穏やかでいられる3年間だった。でも異性にモテるのはやっぱり肉体の強い男子たちばかりだったように思う。
卒業アルバムを彩るのは球技大会やスキー合宿、あるいは文化祭で張り切る生徒たちの姿だった。最も多くの時間を捧げた勉強なんかよりも、身体を動かした思い出こそが高校時代の宝物だとでも言うかのように。
大学を出て社会人になって、新人に求められるのはここでも体育会系の精神だった。番記者に体力と根気が必要なのはもちろん、大量に設けられるタバコや酒の席での振る舞いの中で過剰に上下関係を刷り込まれる。
それに何とか耐えられたのは、中学3年間の運動部の経験があったから。大学生活でやっとのこと否定できるようになったあの辛い時間が、僕の中でまた価値を示し出した。
それは物心ついた頃からずっと側にある不変のしきたりで、迎合して耐える事だけが僕にできる闘いだった。
だから本当に、乙郎や桐谷先輩と飲んだあの日の僕は虚勢まみれだったんだよ。
大学のあのとびきりに輝いていた時間――そこでしか持ち得なかった夢をもう一度掘り返して、世界の流れに逆らってでも遂行すべき信念があるかのように語らって……でも現実の僕は取材対象や上司の顔色を伺いながら、強い者に巻かれてスクープを無かった事にしようとしてる。
今の弱い僕はその力に逆らえない。
音を上げて逃げ出したりするようではお前は一生一人前になれない、しきたりを守り下積みの不条理に耐え、強者になって初めて信念を振るう権利が得られるのだ――と僕を見下ろしているもう一人の僕が居る。
そいつを失望させることだけが、どうしてか何よりも怖いんだ。




