148話 【SIDE-桐谷ひのえ】幸せのありかでこそ首をかしげよ
「お会いできて光栄です、桐谷ひのえさん。今、貴方の目を見て、この時間が精彩に富んだものになると確信しました」
このくらいの年齢の男が私に美辞麗句をくれようとすると、大概ひと言目は美しいだの麗しいだの、女性としての容姿を褒める言葉選びになりがちなのに。彼――新垣治の配慮は、少なくとも私という個との対話を試みる者としての、才気に溢れた態度であった。
永田町に位置する五つ星ホテルの個室ディナー。
和ダイニングとか高級割烹などとでも称されそうなコンセプトのそこは、間違いなく私が経験してきた中で最も上等な空間だった。
新垣さんに嫌味なくエスコートされ、私は椅子に腰を下ろす。
窓の無い部屋の脇に目をやれば、上品な額に収まる日本画。眼前には木目の美しいテーブル。漆塗りの盆の上には、デルタ折りされた純白のテーブルナプキン。2人には広過ぎる部屋を照らしきれない灯りが、対面に座った彼との距離感を曖昧にしている。
40半ばにして既に濃く刻まれた目元の皺はまるで彼の苦労の歴史を物語っているようで、それでいてメディアで見るよりも幾分も柔らかい表情をしている。けれど着こなしには隙がなく、サイズ感に寸分の狂いも無さそうなネイビーのスーツに身を包み、袖口からは群青のカフスボタンが煌びやかに光を反射している。
「私のような者にこのような特別な席をご用意いただき、国民清粋党の総裁が一体どういったご用件でしょう?」
「逸るお気持ちもお察ししますが、先ずは一杯いかがでしょう」
流石に、私は緊張している。
そしてそんな様子を気取られたのか、新垣さんは柔和な表情でお品書きをよこす。
正直、今そんなものを眺めても目が滑る。元地方局のアナはこんな高級店での正解なんか知らない。しかしやっとの思いでワインを選ぶことに決める。本来ならこの場では日本酒とかが望ましいのかもしれないけど、生憎ながら私は苦手なので。
「良いですね……今や日本食は海外でも認められ、ワインで楽しむのも一般的になってきていると聞き及びます。私も本日は洋装ですし、同じものをいただきましょう」
私に恥をかかせまいとしているのか、あるいはミラーリングにより好意を示しているのか。その徹頭徹尾隙のない気遣いは、残念ながら私をより緊張させていた。
「そういえば……貴方が同窓であることは以前より存じ上げておりましたが、私の立ち上げた研究会の同志だったことも最近になって知りましてね」
ひとしきりのアイスブレイクを終え食事も進み始めた頃に、新垣さんは少しづつ本題へと触れ始めた。
報道研究会――なんて何の外連味も無い名前のそれは、新垣治が帝東大生だった頃に立ち上げたサークルだった。学生時代の彼は報道を目指していたのか、はたまた政界への足掛かりとして何か目算があったのかは定かではない。けどマスコミ系サークルの中ではかなり硬派な部類であったそれは、残念ながら私の後輩クンたちの代で廃部になった。
「心苦しいのですが、報道研究会はもう……」
「ははっ、気に病まないで下さい。あの触れ込みでは、いずれ無くなることは目に見えていました。むしろ十数年もよく続いてくれたと驚いたものです。それにそのお陰で貴方とお話する口実が増えたと考えれば、もう充分に役割は終えたでしょう」
そんなことを意味深長に告げながら、新垣さんは脇から何やら一冊の小冊子を取り出し、こちらに差し出した。
「これは……『幸首』」
黄緑のレザック表紙に印字されたその文字を、私は思わず読み上げてしまう。懐かしさを感じるそれは、報道研究会の機関誌だった。
号数は12。私のいた最後の代のもの。
「“幸せのありかでこそ首をかしげよ”――私が初めて発刊した時にはそんな、『満たされている者こそ体制に疑問を投げかけられるように』という想いを込めていました。……もちろん学生の姿勢として『報道未満』であることも肝に銘じつつ」
はらりと表紙を捲れば、その裏には彼の言った通りのことが印刷されている。その意味を曖昧にしながらも私たちで紡いできた、報道研究会の理念。本人の口から聞けば、より一層の含蓄がある。
そして、左のページには目次。
論説はたったの3つ。
『完全公正な世界報道機関構想』都築甲斐斗著
『階調式所見止揚論』橘乙郎著
『ジャーナリズムの瑕疵と誤謬への譲歩』桐谷ひのえ著
「これは私があの部室を最後に訪れた日……もう10年近く前に頂戴した一冊です。後進の勇姿に触れようと、当時も目を通したのを覚えています。しかし今になって貴方のご活躍を耳にし、再度この本を手に取ってみれば、非常に興味深いものが見えてきました」
学生時代の稚拙な論説を深掘りされそうで、またも嫌な緊張が走る。そんな風に身構えていても、新垣さんはもうお構いなしに言葉を続ける。
「学生というものは皆、理想を追い求めようとするものです。ここに記された貴方の後輩2人だって例外ではなく、でもそれこそが学生に許された特権でしょう。しかしどうやら貴方だけは、当時から冷たい現実と向き合っていました」
報道するのが人間の時点で、完璧などあり得ない。だからそれを理解した上で一人ひとりが折り合いをつけ、自分にとって有益な情報にこそ視線を送らねばならない。誤報の指摘に終始し潔癖を目指すことには生産性がない。――そんな心構えみたいなものを説こうとしたのが、私の書いた内容だった。
真に大切なのは正確性を追い求めることではなく、正確では無いと知った上で報道とどう向き合うか。その意味では事件報道も天気予報と変わらない。
「けれどもあの頃とは時代が変わりましたね、桐谷さん。今や報道の主戦場はAIというブレイクスルーにより塗り変えられました。貴方にとってパンゲアは……人間でなくAIシステムによる報道は完璧と言えますか?」
「いいえ」
私は、気付けばそれを即答していた。
この国のパンゲア加盟は、清廉情報思想派が報道革命の末に勝ち取ったとされる、アオ派のトロフィー。だから民清党総裁に相対してそれを否定するべきではなかったかもしれない。
しかし目の前の彼はとても楽しげに私に問いかける。
「それは、何故です?」
「AIが抽出、精錬しているソースは結局のところ全て、人間の発信した情報に他なりません。これは玉石混合のビッグデータの真偽を検証するにはとても優秀ですが、それだけでは片手落ち。一部の人間が独占している情報を開示させる能力は備わっていないからです」
秘密を共有する者たちが結託すれば、それを打ち崩す力はパンゲアにはない。ネット上にエビデンスが存在しない事件はファクトチェックしようがないのだ。だからこそ6年たった今でも、配信者転落死事件の真相は謎に包まれている。
「これを解決するには、それこそ至るところに監視カメラを仕掛けたり、国民全員の端末の情報を監視したりして、それらをパンゲアのソースとして直接流し込む必要があるでしょうね」
「ははっ、意外と過激なことを仰るのですね……けれど核心をついていらっしゃる」
新垣さんは嬉しそうに、しかし私の言葉を遮り過ぎないよう次の句を促した。
それを望んでいると思われても心外なので、私は即座に否定する。
「もちろんそんな事、この国では倫理的に許されません。独裁を敷く国家なら可能でしょうが、そういった国はそもそもパンゲアに加盟に否定的です」
倫理観の成熟した国では、完璧な報道は実現できない。
倫理観の欠如した国では、完璧な報道が必要とされない。
「だから、パンゲア加盟後の世界でも報道はやはり人の手にあり、そしてそれは完璧とは程遠い。私たちはその事実から目を逸らしてはなりません」
言い切ってから、歯止めが効かなかった事を少し後悔する。
乾いた拍手の音が、私の気恥ずかしさをより強調した。
「素晴らしい。やはり貴方は私の思った通りの方だ。……それでは本題です。私と共に国政という場で、その論を掲げてみませんか?」




