136話 2人の時間
ふと目を開くと、菖が俺の顔を覗き込んでいた。
「あっ、起きちゃった?」
ソファと言うには高級過ぎる寝心地を感じながら菖を見上げると、シャンプーの香りが熱気を帯びて伝ってくる。首からタオルをかけ、半乾きの髪が癖毛を強調させている所を見ると、まだ風呂から出てそう時間は経っていないようだ。それでも視界を確保するためのメガネはしっかりとかけていた。
「……ハオランはどうした?」
「お風呂出て、スンウさんの方の部屋に行ったよ」
上体を起こし、時刻を確認する。
俺も昨夜は派遣市民の騒動と翌日の打ち合わせで徹夜だったため、疲れが溜まっていたのだろう。時計が14時過ぎを指しているところを見るに、あれから小一時間ほど眠ってしまっていたようだ。
菖は俺の隣に腰を下ろす。
「……聞かせちまったな。つまんねぇ話を」
寝起きの頭を整理すると、先刻自分がついに打ち明けてしまった事実が思い出される。
「んー、……でも、聞けて良かったよ」
それは菖にしては存外に淡白で、見えていない視線をわざわざ逸らす程度にはよそよそしい。しかし話の顛末を考えれば、触れ方に慎重になるのも仕方がないのかもしれない。
俺の中でずっと重く、黒く、粘りついていた俺だけのもの。それを孤独に背負うことが禊なのだと言い聞かせて、それ以上向き合わないようにしていた過去。
俺のジャーナリズムの挫折の軌跡と、
アカリの手を取れなかったという記憶。
それが、俺が吐き出したものだった。
菖はもう慣れた手つきでリモコンを操作しコーヒーと軽食を注文すると、それは15分程で部屋に運ばれてきた。
「美味しいんだけどさ……流石に3週間も居ると飽きてきちゃうんだよね。聡美さんが私をここに置いてるの秘密らしくって、極力外出はしないでって言われててさ」
サンドイッチを食べながら少しずついつもの調子を取り戻していく菖に、この数週間の他愛のない話をする。聡美さんの研究の全貌は把握していないが、彼女の逼迫した雰囲気は日に日に強くなっているそうだ。
「私のチカラ……知覚性デバイスジャック症候群の研究をしてるってのは、聡美さんから既に説明を受けてたんだけど、今日唐突にお父さんの名前が出てきてびっくりしちゃったよ」
その口振りだと、自分が小鳥遊丈の娘であることはやはり明かしていないようだ。
「おやっさんは今日まで、配信者転落死事件の真相を俺が話した唯一の人だった。そんなおやっさんが俺のことを庇って事件の取材資料を擬装してくれたお陰で、公安やアオ派の疑いが俺に向く事が無かったのかもしれない」
閲覧可能な資料の中に事件に関するものは無かった――と退社したツワブキ社員が漏らしたから、俺を含め一般社員は私人Xの容疑から外されていたのだ。
だから俺が目撃者だと名乗ってあの事件の真相を話せば、もうおやっさんが追われる理由は無くなると考えてた。
「お父さん、本当に何してるんだろう。……私の父親だもん、きっととんでもないことをしでかしてるに違いないね」
「そりゃあ、大した説得力だな」
菖はそんな冗談で煙に巻いたが、その実どれだけ心配しているのかは想像に難くなかった。
それ以上の話は、皆が揃ってからの方が有意義だ。
だから俺は菖に、離れていたこの3ヶ月の話をしてやった。秋山をタクシーに乗せたことや、桐谷先輩とのクリスマスディナーの話。
「ちょっと。私もそれ食べたかったんだけど」
菖がわざとらしく頬を膨らませる。
「今度連れてってやるから」
1人のタクシー営業は大変で菖の偉大さを思い知ったとか、食事はより簡素なものが多くなったとか、そんな他愛のない会話もした。その度に反応をくれる菖の姿が愛おしくて、自分もまた寂しかったのだといらぬ実感が湧いてしまう。
「へー、おつろーくんってソラ色を通すために記者を辞めた頑固者だと思ってたけど、ハオランちゃんとスンウさんの肩を持って助けようとしたんだね」
昨日今日の出来事を説明すると、菖は意地悪くも少し嬉しそうに話す。彼女がアオ寄りの考えを持っているのは、今も変わらないのだろう。
「アオとシロの中間に立つ事は、空色的信条の手段にはなっても目的にはならないからな。情報の不足により公正な判断ができず、それで損をする人が居る状況なら、俺はそれを拒みたい。今回は偶然、その行動がスンウたちに寄っただけだ」
「……なるほどね。ハヤトさんに誘拐された理由についても、そーいえばそんな事言ってたっけ。……確かにそれだけが動機なら罪深いね」
引っかかるような事を言うので二の句を促すと、彼女は少し苛ついたような笑みを浮かべて言い放った。
「アカリさんも災難だったって話っ! 元カノの話なんかしてくれちゃってさっ。彼女の気苦労が知れちゃうよまったく!」
それは事の深刻さに対して随分とフランクな物言いだったが、珍しく少し上擦ったその声色からはまだこの話題に対する彼女の緊張も伝わってくる。しかし腕を組んで大袈裟に怒るような仕草をするのは、アカリの話に無理にでも自然に触れようと勇気を出してくれたから――そんなことが、今は手に取るように解る。
「あぁ……いや、……菖だって、随分と簡単にアイリスである事を暴露してくれたじゃないか。お陰で協力し合える場が整った、あれだって俺からしてみたら立派な人助けだ……今アオで前線張ってるヤツらには、特にバレたくなかった過去じゃないのか?」
けれど喉まで出かかった言葉未満のものは行方を眩まし、俺は話を逸らしてしまった。それは菖の勇気に対して咄嗟には適切な態度が浮かばなかったからであったが、しかしかえって不誠実であったかもしれないと後から不安になり、彼女の顔色を窺う。
「おつろーくんが話したからね、アカリさんのこと。私だっていつまでも逃げ回ってられないなーって。ここにいる色んな考えの人と手を取り合うには、どう自分を晒せば良いかって考えたの。おつろーくんと一緒だよ」
菖は一瞬だけ憂うように目を伏せたが、そう言って全部飲み込んで、何も映していない瞳でワザとらしくウインクをくれた。




