131話 分水嶺
「アカリ!!」
俺がそう叫んだ時にはもう、アカリはノートパソコンとカメラを捨て走り出していた。
アカリは先ず俺が登ってきた一般用のエスカレーターの方へ向かったが、直ぐに切り返す。そちらにも既に数人、警備員が通路を抑えていたのだ。
屋上にはこの一般用の通路がひとつと、正造氏たちが立ち塞いでいる塔屋以外には、出口が無い。
だから日笠の人間から逃れようとアカリが向かった先には、もう屋上を囲む鉄柵しかなかった。
「来るな! お前たちとは行かない!」
距離を詰めようとする正造氏の付き人たち相手にアカリが叫ぶ。そして屋上の人々から一瞬たりとも目を離さぬように、しかし身に纏うスーツがスラックスだったからこその軽い身のこなしで、アカリは柵を越え外側へと回った。
「待て! アカリ、危ない!!」
俺も駆け寄ろうとするが、アカリはそれを掌で静止する。
アカリの足は屋上のへりにかかり、体重のもう半分は鉄柵を掴む一本の腕だけで支えられている状態だ。
「来ちゃダメだ! ……ここから先は、フェアじゃない。僕個人の意地の問題なんだ……!」
アカリはここで日笠の者たちに捕まっても、多分悪いようにはされない。正造氏の必死の弁明を聞いていた俺はそう感じ始めていた。そしてその声は、アカリだって届いていない筈はない。
それでも、そちらには行きたくないのだろう。
母と、自分の15年間。それはこの場で多少言葉を交わした程度では決して癒えないと、許せるものであってはならないと心に刻んでしまっている。それがアカリの言う、意地。
「ボクは、自分で選ぶ……!」
アカリは冷や汗を垂らし息が上がっており、精神的にもかなり追い詰められている様子だ。しかしそれでも自暴自棄になっているようには見えない。その静止した華奢な掌を見つめながら俺は必死に打開策に考えを巡らせていたが、ふと、いつだったかのアカリの昔話が脳裏を過ぎる。
――ドボン。
アカリの口から聞いた水音が思い起こされる。
そうか……!
アカリは貯水池に飛び込む気なのだ!
15年前のあの時のように!
それは余りにも危険だが、アカリが意地を賭けるに値する退路。
なら、俺は?
先ず俺の脳裏をよぎったのは、衝動的な願望だった。
アカリと正造氏の関係性を肌で感じた今、俺なら2人のすれ違いを解消する手助けが出来るかもしれない。これは現場に足を運ばなければ気付けなかった事であり、両端に居るこの不幸な親子の認識の差を埋めてやるにはまだ間に合う。そして今の俺はそうしたいと強く願っている。
それこそがアカリの言う、当事者に寄り添うという事ではないのか?
それを望むのならこの場の2人を決別で終えてはならない。
無理にでもアカリを引き止めて落ち着かせたいが、もう柵の向こう側に居る彼女に俺の中庸な言葉は届かないだろう。ならば共に身投げする程の覚悟を示した末に、アカリと正造双方の信頼を勝ち取ってから仲裁に全力を注ぐのが筋――
「キミはそのボイスレコーダーを持って帰って、キミの仕事をしてくれ……!」
俺は、アカリのその言葉で我に返る。
ジャーナリストとしての俺に、今この場のアカリが求めていることは。ここは情に流されず、あくまで非当事者として、このレコーダーを活用できる術を探るべきなのだ。
正造氏はこの録音に価値は無いと判断しているようだが、おやっさんに聴いて貰えばあるいは新たな活路が見出せるかもしれない。そしてそれは、俺が一時のヒロイックに酔いしれてアカリと貯水池に飛び込む道を選んだら――すなわちレコーダーを浸水させてしまえば叶わない未来。
毅然とした態度で事実だけを持ち帰り更なる真相究明に努めるのが、俺の目指したフェアなジャーナリストの姿だろう?
俺の、アカリの方へ歩み寄ろうとする足が止まる。
「まっ……待て、待ってくれあすは……!」
声の主を見ると、そこには俺の刹那の思考を他所に、かつてない程に動揺を隠せずにいる正造氏の姿があった。杖に頼る老齢の足腰でなければ今にも走り出したいと言わんばかりに、何メートルも先のアカリの方へと弱々しく手を伸ばす。
「もうそこには水を張っておらぬ!」
正造氏は今にも走り出そうとするかのように杖を落とし、しわがれた声を振り絞って叫んだ。
「――えっ?」
常に視線でこちらを牽制していたアカリが、初めて足元を確認しようと視線を落とすと、顔色が一瞬で青ざめる。
ここからは見えなくとも、落下したら助からないであろう景色を彼女が見たであろうことは察せてしまう。
刹那。今日一番強いと思われる湖風が屋上を吹き抜ける。
「アカリ!!」
俺はそう叫びながらアカリの方へ駆け出す。
そこから先は、やけにスローモーションに見えた。
アカリの瞳が、先ず正造氏の方へ向く。
何を見たのかは分からなかったが、それでもアカリは恐怖の中で一瞬だけ満足げな表情をした。こんな土壇場であり得ないことだが、それでも確かにそう見えたのだ。
「乙郎――」
そしてアカリは、必死で駆け寄ろうとする俺の方を見た。
圧縮された時間感覚の中で、もどかしいほどに遅い自分の肢体を懸命に動かしながら、俺はアカリの最期の言葉を聞いた気がした。
――あ り が と う
鉄柵越しのアカリの姿が消える。
風切音の直後、擬音にするのも憚られるような残酷な衝撃音が響いた。
俺の伸ばした手は、鉄柵より5歩ほども手前で宙を切る。
足が震えてもうそれ以上前に進むことができない。
耳にあの落下音が張り付いて下を覗き込む勇気も出ない。
地上で誰かの叫び声が響いている。
内藤氏は真っ先に鉄柵まで駆け寄って下を見下ろし、すぐさま他の付き人に何か叫ぶように指示を飛ばしている。
俺はその場で膝から崩れ落ちた。
恐怖に支配されながらも強がろうと必死に最期の言葉を振り絞ったアカリの表情が、空が映り込んだその瞳の色が、脳裏からいつまでも離れなかった。
気付けば俺は警備員によって取り押さえられ、湖畔のテラスから引き摺り出された。
途中、救急車やパトカーのサイレンが響く中、ただちにミュージアムを閉館する命令や従業員への箝口令などの言葉が飛び交っていた。俺は荷物検査をされ、日笠側の事情も変わったのかボイスレコーダーなど取材道具数点が取り上げられてしまったが、抵抗する気力も起きなかった。
「もう日笠の敷居は跨ぐな――とだけ旦那様は仰りました。ツワブキ出版が今回の事を記事にする気ならそれは旦那様の本意では無いでしょうが……もはや貴方にそんな胆力は無さそうですね」
内藤氏の最後のその声色は、憤りと蔑みに満ちていた。
俺がある程度正気を取り戻し、一縷の望みにかけてアカリの姿を確認せねばという判断がてきるようになったのは、もう塀の外へ閉め出された後の事だった。
ミュージアムの塀の前で、俺はただただ立ち尽くす。
あんなにも晴れやかだった青空にもいつしか雲がかかり、ポツポツと雨が降り始めるくらいの時間が経過していた。
コンクリートの塀にぶつけた俺の拳から滲む血も、その後力無く引っ掻いた跡も、雨が無慈悲に洗い流していく。
この日を境に世界が一変することなど、その時の俺にはどうでもいいことだった。




