130話 サリーの景色、アンの景色
「我々が予め、御国から発注があるであろう条件を郷田から聞かされており、独占できるよう先んじて準備を整えている、と?」
日笠ファクトリーミュージアム、その屋上で俺と日笠正造の視線が交差する。
正造氏は俺の返事を待たずに言葉を続けた。
「ビッグデータコントロールやらオートパイロットやらは、世界中の自動車メーカーがこぞって研究を推し進めている分野。誰に助言されるまでもなく競うべき技術。それにおいて我々が優れた成果を納め、御国からの受注が叶ったとして、それを談合などと吐き捨てるのは些か技術者への敬意が足りんようだのう」
空気が張り詰める。
数十万という社員を動かす者がその矜持を背負って、俺という個に対して憤っている。俺は蛇に睨まれた蛙のように、ただただその場で硬直していた。この者から真の怒りを向けられた時、自分はどうなってしまうのかという恐怖が身体を支配していく。
俺の告発は、この男にまるで効いていない。
既に手札は一蹴された。もう反論で相手を怯ませる術も無い。最初から、俺のような駆け出しが弱みを引き出せる相手ではなかったのだろうか。
俺が二の句を継げずにいると、正造氏は今度は諭すように言葉をかける。
「お前の言った事は少なからず現実になるだろう。読みはまぁ悪く無い。だが、それを今騒がれたとして我々は何も変わらぬ。書きたいなら好きにせい。……その録音を手土産にしてもう去れ」
密会や後の受注を認めた上で、更に俺の行動を咎めない度量までも見せている。それはこちらの想定を遥かに凌駕する姿勢で、自身の取材の限界を思い知らされる。
潮時だ。
これ以上食い下がってももう何も得られないだろう。速水トオルの計画も、配信を妨害された時点で破綻している。ここまでしても日笠を追い詰めるには材料が足りず、俺たちはチャンスをモノにできなかったのだ。
俺は、こんな半人前の話に付き合ってもらった敬意を込め、全員に見えるようにボイスレコーダーをオフにした。
「……私はこれから娘と話があるのでな」
「僕はお前と話すことなんて無い!」
アカリが脊髄反射的に叫ぶ。
荒れるアカリの心情と呼応するかのように、強い湖風が屋上を吹き抜ける。
「旦那様はお嬢様を決して悪いようには致しません。どうかお話だけでも」
内藤はやはりアカリにも思い入れがあるようで、何とか間を取り持とうとしている。
「母さんの死に目にも現れなかった癖に! 今更どのツラ下げてそんな事が言える!? それにそいつにはもう別の女がいるだろ! そんなとこに戻れるか!!」
「私が今までお前たちを遠ざけていた事は悪かったと思っておる。宗家にも準備が必要で、お前の母の件に間に合わなかった事は私も悔いておるのだ。しかし今なら、お前を受け入れても誰にも文句は言わせん。だから償う機会をくれはしないだろうか」
先刻までのそれとは違い、正造は愛娘を相手に下手に出て想いを伝えようとしている。そしてそれは俺の目に、とても人間味の溢れる真摯な対応のようにすら映る。
「それだって、後継を自分の嫡子にしたいってエゴだろ!? 僕はそんなの興味無い! お前の願望に巻き込むな!!」
一方でアカリは取り付く島もない。初老の15年間と二十歳そこそこの15年間では重さが違うのだ。ここで問答を続けてもその溝は埋まりそうにはなかった。
「お前がその男を使って日笠を陥れようとした事も、私を憎んでの結果だということは解っておる。だから此度のお前の行いもその男の事も不問にしようというのだ。せめて落ち着いて話をさせてくれぬか」
「お前は何も解ってない! 人を陥れようとしてたのはお前たちの方だろ!? この人は母さんみたいな強者に食い物にされている人々を守るために、お前たちみたいな巨悪と戦ってるんだ! 僕たちを馬鹿にするな!!」
もう、売り言葉に買い言葉だった。俺が口を挟む隙も無い。
しかしヒートアップしたこの場に水を差したのは、外界からの来訪者だった。
「――会長!! こちらにおられたのですか! 会長とも秘書とも連絡がつかず、報告が遅れた事をお詫び致します!」
関係者用の塔屋から飛び出してきたのは、ガラケーを片手に持つOL然とした服装の女性だった。彼女は息を切らしながらも話を続ける。
「SNSで、大変な事になってます! 社長のお姿と不正を仄めかす映像が途中で切断されたとかで、炎上騒ぎに……!」
電波妨害を受けたのは、何もアカリだけでは無かったのだ。仕組みは不明だが、恐らく屋上全域が遮断されており、正造氏たちのケータイも不通になっていたのかもしれない。
「なっ……どういう事です? 配信中に旦那様は決定的な発言はされていない筈……何よりまだ15分程度しか経っていないでしょう?」
内藤氏が焦りを隠さず女性社員に問いかける。
正造氏たちは致命的な認識ミスを冒していたのだ。
俺は今更になってその事に気付く。
世界へリアルタイムで配信されている――なんて言ったって所詮は学生の戯れ。精々友人の数名とかネットで知り合った数十名が見ている程度だと思っていたのだろう。何せ、ネット配信それ自体が最近流行り出した若者文化であったし、俺ですらトオルを知るまではその影響力を理解できていなかった。
日笠の者たちは、若者の間でインフルエンサーとして求心力を発揮していた速水トオルを知らない。今日の配信で数万という人々があの光景を見守っていた事を知らない。今この国で多くの若者がルサンチマンを抱えていた事を知らない。
日笠正造は、自分の娘が多くの人々の心を動かしていたことを、知らない。
「落ち着け。直ぐに情報対応チームを編成しろ」
「しかし既にこの場所まで特定されているらしく、近所の視聴者数名が顛末を確かめにこちらへ向かっているという情報も……!」
どうやら速水トオルとして熾した火種は、想定を超えて燃え上がっているようだ。隣に目をやると、アカリはこの状況を誇るでもなく緊張した面持ちで硬直している。
「とりあえずこの場を離れる。娘も危険だ、連れてこい」
正造氏がそう告げると、付き人たちの視線が一斉に俺の横のアカリへと移る。
ガシャン、と、その視線の先でノートパソコンとカメラの落ちる音がした。




