125話 蒼、思想、あい
――空が、広い広い青空が、ボクを包み込むようだった。
「……何の話だ?」
ワンルームには間接照明なんて気の利いたものは無く、網戸越しの月明かりだけが仄暗い室内を照らしていた。
「知って欲しいからさ。ボクのこと、もっと。……6歳くらいの頃にね、湖畔のテラスから落ちた事があるんだ」
吐息をすぐそこに感じる距離で、アカリが優しく呟く。一人分の広さしかないそこで身じろげば、寝具の軋む音がまだ蒸し暑い夜風に混じる。
――いや、あおいのは湖の方だったかもしれない。
「その日母さんは病気で寝込んでて、だから父親ぶったアイツがボクたちを預かってたらしいんだ。それでアイツがちょっと目を離した隙に、柵の隙間から抜けたんじゃないかな」
幼き日のアカリたちと父親たる日笠正造は、その屋上テラスで僅かながら家族の時間を過ごしていたという。
――その深く透き通ったあお色の世界は、まるで永遠のよう。
「高さ3階の屋上……って言ってもミュージアムだから普通の3階建てよりも多分ずっと高かった。そこから足を滑らせて……」
――ドボン。
「貯水池? みたいなトコに落下したんだ」
アカリは仰向けになると、天井へと手を伸ばした。小麦色の腕には汗が伝い、暗闇の中でその華奢な輪郭を強調している。
「水面越しの太陽に手を伸ばしながら、光のカーテンの中をゆっくりゆっくり沈んでいく感覚は、今でもたまに夢に見る」
「……でも、お前は今ここにいる。無事だったんだろう?」
俺はすぐ隣で肘をついて横たわりなが、月に照らされたアカリの横顔を見つめていた。
「もうっ、つまんない茶々入れないでくれよ。ホント、情緒とかの解らないヤツ」
アカリは視線を掲げていた掌から俺へと移し、悪態をつく。
「ボクに続いて飛び込んで来た人がいて、その人の腕に包まれたところで目が覚めるんだ。でも小さい頃だったから、実際にどうやって助かったかの記憶は無い。っていうかそもそも転落自体が現実じゃないのかもしれないんだけどね。……お兄だって覚えてないって言ってたし」
アカリは腕を下ろす。
「でももし夢の通りで、ボクの後を追って助けてくれた人がいたとしたら、多分それは内藤だろうな。あの日もアイツと一緒に屋上に居て、常にボクたちを気遣ってくれてたから」
当時は物心のあやふやだったアカリに真相が語り継がれていないとしたら、その事件は病床の母親には伝えられなかったのだろう。これから程なくして正造がアカリたち家族を遠ざけるようになった事を加味すると、後ろめたい気持ちだってあったのかもしれない。
でも、アカリが本当に考えていることは――
「その人の腕は、温かかったか?」
「……うん。とても安心できる、力強い温もりだった」
「そうか、なら――」
俺がそう言いかけるや否や、アカリは急に身を寄せて、唇で俺の言葉を塞ぐ。互いの汗で湿った肌に、間に何も挟まない体温が触れる。そのままゆっくりと肢体を絡ませ、隙間から吐息を漏らしながら、俺の身体に覆い被さっていく。
やがて顔を離し、俺に跨って上体を反らしたアカリは、感触を確かめるように舌でその瑞々しい唇を撫でた。
「次にボクを助けるのはキミだぜ、乙郎」
アカリはいつもの笑みに妖美の色を混ぜながら、窓から注ぐ月光に肩のそばかすを晒し、普段は結っている黒髪を垂らして俺を見下ろす。
宵闇の僅かな光を反射して輝くその透き通った瞳。
そこに灯る色を見つめた俺の脳裏をよぎったのは、何故だかアカリとトオルの住まうあの古びたマンションだった。
俺は彼女の出自を知り、行動動機を知り、大切に想うものを知った。それでもなおアカリの事をまだ何も知らない。
数多の国にルーツを持ち、幼少より複雑な境遇に身を置き、今や兄以外のよるべを持たず……あの住まいでどんな日々を過ごしているのだろうか。
俺と近しい思想を抱くアカリは、しかしそこに至るまでの軌跡が空っぽだった俺なんかとは違う。
彼女見つめていると、透き通っている筈のその奥がどうしても見えないと感じる瞬間がある。それはまるで細かい無数の瑕のあるガラスが、透過度をそのままに像を曇らせているかのよう。
けれどアカリは、そんな瑕なんかものともせずに光をこちらによこしてくれる。俺の鬱屈も矜持も漏れなく照らしてくれる。
――次にボクを助けるのはキミだぜ、乙郎。
「……俺がいつもお前の味方でいれるかは分からないぜ。俺はジャーナリストだからな」
俺はそんなアカリに見惚れてしまわぬように、悔し紛れの意地悪を言った。けれど彼女はその言葉に、何故だかこれまで見た中で一番の満足そうな笑みをくれた。
「それさ、そうやって無機質でいる事がフェアだと思ってるみたいだけど、キミは無感情なんかじゃないって気付いてる? むしろ万人をケアしようとし過ぎるから、それでなんかフェアっぽく振る舞えてるだけに見えるぜ」
そんな彼女の指摘は不思議な響きで、だから俺は何度も反芻したけれど、何故だかもう返す言葉を見つけられなかった。
物音で目が覚めたのは、空が仄かに白み始めた頃だった。
アカリと思しき人影が荷物を纏めている。既に着替えたようで、髪も結っていた。
「もう帰るのか?」
その声でアカリは振り返ったが、その顔までは窺えない。外から漏れる日はまだ僅かで、彼女のシルエットしか判らない。
「うん。……そっちも、昼までに発つんでしょ?」
今日はXデー前日。
俺は前乗りして、現地で下調べをする予定だ。ホテルもとっており、そこで当日に備える。
「あぁ、そうだな。俺もそろそろ起きないと」
ベッドでゆっくりと上体を起こす。
アカリのマンションでは今、トオルが明日に向けての準備をしているだろう。だからアカリはトオルの監視役として、早めに帰った方が良い。何かイレギュラーがあった際は、俺に伝えてもらう手筈になっている。
いよいよ、この案件の正念場だ。
あらためて気合いを入れねばならない。
「……じゃあ、私そろそろ帰るね」
違和感――影の中にいるアカリのことなど見える筈がないのに、彼女の表情の機微を感じたような気がした。その正体が掴めずに寝ぼけまなこを擦っている間に、扉の閉まる音が響く。
今は不明瞭な感覚に気を散らしている場合ではない。
俺は思考を、アカリからトオルへと切り替えた。




