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絵空事イデオロギー  作者: 千枝幹音
第07章 回顧録メタノイア
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108話 この世界には偶然なんて

 花金の飲み会から一転、翌日の昼に目を覚ます。


 今日は夕方頃から軽く出社する予定だった。

 スクープに休日は無いので土日の出社自体は珍しいことでは無い。だが今日に限っては俺個人のやり残し作業であり、今週中に片付けてしまいたいという都合だった。入社4年目からはそういったフレキシブルな休日出勤も許されている。


 時計を見るともう15時。俺は重い腰を上げ、六畳一間から這い出して顔を洗う。二日酔いで頭がズキズキと痛むし、薄っすらとした吐き気にも苛まれる。


 俺は億劫になる気持ちを抑えながら、世田谷の南端に位置するこのアパートのワンルームを出た。

 本来なら電車を使って会社まで30分程だが、今日は徒歩で向かうことにする。もう9月も半ばで、秋口の心地良い気候は散歩にぴったりだ。二日酔い状態で電車に揺られたくはないし、会社に着くまでに少しでも運動してリフレッシュした気分になりたかった。1時間半くらいなら、歩いてやろう。


 汗ばむ陽気にそよ風が心地良い。

 蝉の声はまだ鳴りやまないが、鬱陶しいほどでもない。

 コンビニで買った二日酔いに効きそうなドリンクを胃に流し込む。

 なるべく緑の多い道を通って会社へ向かいながら、俺は来週からの仕事に思いを馳せていた。



 5日前、俺は第七號島の取材により、東京ベイエリア開発反対運動の裏に派遣市民の可能性を示唆した。以降、ツワブキは20名ほどの人員を導入し、関連現場へと足しげく通っている。


 あの日、おやっさんは「お前の手柄だ」と珍しく屈託のない誉め言葉をくれた。そして俺はその言葉の意味を重々理解している。第七號島の取材班にはベテランが何人もアサインされ、俺は主力メンバーから遠ざかるのを感じていた。鬼が出るか蛇が出るかも判らぬような案件だ、たかが4年目のぺーぺーには荷が勝ちすぎている。

 この仕事の美味しい部分を俺から取り上げなければならない事が解っていたから、おやっさんはあの時点で俺の成果と強調してくれたのだろう。だからこの先、ツワブキの先輩がこの案件で手柄を立てても腐るなよ、と。


「――遠いな」

 昨晩は大きなことをいっぱい語ったが、俺はまだまだ小さな存在で、先は長い。

 ため息の出るような晴れ渡る空を見上げながら、はやる気持ちを抑えられずに、意味もなく少し大股で歩を進める。

 もう会社はすぐそこだ。


 その時だった。

 正面に何か大きな衝突を感じた。俺は上を向いて歩いていた軽率さを悔やむ。目の前にはへたり込んだ女の人が、微かに唸りながら頭を押さえていた。


 腕まくりした白い薄手のパーカーにジーンズ。斜めに被ったキャップから垂れる黒のサイドテールは、胸元まで柔らかく落ちている。スニーカーを含め、全体的に中性的な服装の女性だった。


「痛ったー」

「す、すみません、前方不注意で……!」


 その女性は起き上がり、お尻をはたく。170はあるだろうかというスレンダーな長身に、小麦色の肌が目につく。


「気をつけなよ、まったく」

 そう言う彼女はしかし大きな瞳を爛々と輝かせ、そばかすの残る顔に満面の笑みを浮かべている。

 俺はそんな彼女にやや得体の知れなさを感じながら、怪我が無いことを確認すると再度会釈をして、眼前の会社へと歩を進めた。



 オフィスビルのエントランスに入れば、エアコンの冷気が衣服と肌の隙間に心地良く流れる。ちょうど待機していた空のエレベーターに乗り込むと、続いて侵入してくるもう一つの影があった。


 先程衝突してしまった女性だった。


「……何階ですか?」

 俺は若干の気まずさを感じながら、エレベーターの扉を閉めながら聞いた。


 しかし彼女は答えない。

 ただ、先刻と同じく満面の笑みで、俺の方を見ていた。


 俺はそんな視線を逸らして待つこと約15秒、ツワブキのフロアのある8階で扉が開く――が、案の定、同乗した彼女が先陣を切った。

 さっきの衝突に確実にいちゃもんをつけるために、勤務先まで着けてきたのかもしれない……なんて嫌な憶測が頭をよぎる。


「さーてとっ、ここが出版社かー!」

 しかしその軽快な物言いは、どうやら俺が目的では無かったらしい。なら、たまたまツワブキ出版に用があった人とぶつかってしまったのだろうか。


「あれっ? キミもここに用事なのかい?」

 彼女は振り向いて、後ろからこそこそと降りる俺に声をかける。8階のボタンを押したのは俺なのだから、聞かずとも分かりきっているだろうに。


「弊社に何か御用でしょうか?」

 まぁ、だから聞かざるをえない。何故ならツワブキの門戸を叩く人がいるとしたらそれは……


「あっ! ここの人なんだね? ちょうどいいや。ボクは取材のお願いに来たんだぜっ!」


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