107話 比重差に甘えるように
乾杯こそビールだったが、みんなもう頬を赤らめながら各々が好きな酒を頼んでいた。
「都築クン、前まではワインなんか飲まなかったのに」
桐谷先輩が甲斐斗のグラスにコメントする。
「ここはワインも取り揃え豊富で、料理にも合うものが多いんです。……って、初めてここに連れて来てくれた会社の先輩に教えてもらったんですけどね」
「なんか寂しい、私の知ってた都築クンはもういないのね……」
桐谷先輩は俺たちをからかうのが大好きだ。
「そういう桐谷先輩は、昔からずっとカルーアミルクですね」
「あっ! 橘クンそうやって馬鹿にして! キミだって通ぶってウイスキーロックで飲んでるけど、こんないっぱいの料理を楽しむなら素直にハイボールにしとけば良かったんじゃないのっ!?」
随分と痛いところを突いてくる。俺も少し後悔し始めていたところだった。
「もう、あんまり子供っぽいことで騒がないで下さい。乙郎も、こうなるの分かってるんだから桐谷先輩を挑発するのはやめなよ」
「一人だけ聞き分けの良い大人になんなよー?」
甲斐斗は、茶化すこっちが気持ちいい程の呆れ顔をする。
「む……そういえば最近考えるんだけど、どこからが大人だと思う? 乙郎、君は大人になった自覚がある?」
甲斐斗のそれは責め立てるような言葉選びだったが、真面目な問い掛けであることは理解できた。俺もそれにはふざけずに答える。
「そうだな……確かに社会に出れば大人になるって、学生の頃は漠然と思ってた。自立して経済を回し、政治に対する意見を持って、社会に貢献していくのが――って考えてたが、いざ社会人になってみれば思ってたよりグラデーションだったな。まだまだ大人になりかけだ」
「それ。その大人になる、すなわち社会で生きる者の心構えとか知識を備えるための報道だと思ってたんだ」
甲斐斗の語気が強くなっていく。
「そういう意味なら、現職に強い使命感を持ってるのは俺も同じだ。俺たちだけじゃない、社会に出た人が一人前の考えを持つのに報道の力は不可欠だ」
世界の情勢を紙面で追い、社会問題への理解をドキュメンタリーで深め、収入に余裕ができたら経済誌や四季報で投資先の銘柄を決める。そんな営みの中で自社の社会的立ち位置を知り、会社への貢献をいずれ社会への貢献に繋げていく、なんてのが理想的な大人像だと思い描いていた。
そして、その営みの道しるべとなるのが報道であると。
「ナルホド、都築クンの言いたいことは、それが独りよがりかとしれないって思い始めたってコトね」
桐谷先輩がグラスを口に運びながら物憂げな表情で言った。
「えぇ、僕たちはああいう大学に居たから逆に気付き辛かった事ですが、今の若者……というか中年層以下は政治とか社会情勢にあまりにも関心が薄い。それでも社会は回っているのを見ると、ジャーナリズムってそこまで必要ではないのかも、なんて思っちゃうんです」
そう言う甲斐斗は、それでも不貞腐れたような表情はせず、真摯にこの問題と向き合っているようだ。
「ノンポリが多いのは、それだけ今の日本が平和だってコトでしょ。確かに海外に比べれば日本の情報番組はバラエティ色が強いし、タレント起用も多い。だってそうしないと見て貰えないから。でも、そうやって興味無い人にもジャーナリズムを届ける工夫をする事こそ、報道する私たちの勤めだって思うな」
桐谷先輩は俺や甲斐斗ほど頑固な信念みたいなのは持ってない。でもその代わりに、誰よりも客観的で柔軟な見方ができる人だった。
俺も我慢できずに言葉を重ねる。
「俺だって、もっと多くの人にこの世界のことを議論して欲しい。それが社会を良くする大人たちの使命だと信じている。そしてその為の知識を、匿名掲示板やSNSとかまとめブログなんかじゃなくて、法整備の整ったメディアから受信して欲しい。そうだろ? 甲斐斗」
「そうだね。僕たちがもっと力をつけて、正確で公正なジャーナリズム越しに世界を映したい。その価値を示していきたいと……強く思うよ」
報道が不要になってしまったら、もちろん食い扶持が無くなるので困る。でもそんなこと以前に、俺たち自身のジャーナリズム精神がそれを許さない――なんて、俺たちは今まさに、そんな自分にも酔っていたのかもしれない。
「ふふっ、乙郎クンも都築クンも、大きな理想があって大変だね、応援してる。でも――」
桐谷先輩はもうだいぶ酔っているようで、紅潮し眼も虚ろであったが、いつにも増して優しく儚げな表情をしていた。
「――それが例え叶わなくても、どうか自分やこの世界を責めないでね」
それがどれだけ俺たちのことを想っての言葉だったのか、この時に理解できていただろうか。
しかしそんな反芻の間を桐谷先輩はくれなかった。
「ところで、キミたちさっきからそんな意識高いカッコつけたセリフばっかり吐いて、恥ずかしくならないの~? それとももしかして、誰かにアピールしてるのかな」
恒例のダル絡みが始まったが、それはそれとして確かに臆面もなく自惚れたコトを言ってしまったと顔が熱くなる。
桐谷先輩はもう机に突っ伏していた。その横顔に垂れた前髪から色気を感じてしまったのは、俺も酔ってるからだろうか。
「私だったらー、ん~どっちがタイプかな~……?」
虚な視線が俺と甲斐斗を行き来する。
2人の間にえも言われぬ緊張が走る。そんな答え、知りたいし知りたくない。
俺も甲斐斗も、固唾を呑んで桐谷先輩の二の句を待っていたが、しばらくして聴こえてきたのは寝息だけだった。
顔を見合わせると、甲斐斗の顔は酒の所為以上に紅潮しているようだった。きっと俺の顔もそうだったのだろう。だから俺たちは、互いにそれを見て吹き出してしまった。
「恥ずかしいくらいがむしゃらにやってやるさ。なぁ、甲斐斗」
「意識高くて上等だね。理想のために踏ん張ろう、乙郎」
俺たちは眠っている先輩を尻目に、もう少しの間だけ、酒と理想と、そして自身に酔っ払うことにした。




