106話 旨に沈まぬように
「乾杯~っ!」
仄暗いテーブル席でセピア色に照らされた桐谷先輩の微笑みは、学生時代よりもメイクが洗練されたようで一層魅力的に映る。俺と同じく会社帰りの甲斐斗は、しかし俺よりもだいぶフォーマルな着こなしだ。やや痩せたように見えるのは過酷な現場に身を置いているからであろうことは想像に難くなく、けれどその顔つきが年齢より幼く感じられるのは変わっていなかった。
俺たち3人は、今は廃部となってしまった帝東大報道研究会に所属した仲間だ。久しぶりに桐谷先輩が東京へ帰ってくると聞いて、甲斐斗はすぐさま店を予約してくれた。そうして花の金曜日に何とか都合をつけて、俺たち3人はこの新橋のダイニングバーに集まったのだ。
「随分と色気づいた店を選んだな、甲斐斗。そういうのも小慣れちまいやがって」
「んー? 私は素敵だと思うけど」
テーブルには既に甲斐斗の注文した色とりどりのアラカルトが並んでいる。バーと言ってもしっとりと飲むような店ではなく、会話も食事も楽しめる雰囲気だ。白熱灯やキャンドルの暖かみある光、レコードから微かに流れるジャズのスウィング、木製棚のウッディな香り。もちろん少人数で話に花を咲かせるのも良いのだが、異性を口説くのにも申し分ないだろう。
「ここら辺は僕の会社の近くだから。行きつけって程でもないけど会社の飲み会で何度か来たことがあるんだよ。良い店でしょ?」
カマトトぶっているのか、そんな真面目な返答をよこす。
甲斐斗の就職した大和新聞社は、この新橋の街に社屋を構えていた。大手の全国紙で、会社規模もツワブキ出版の数十倍はある。甲斐斗はサツ回りと呼ばれる警察担当の記者業務を経験した後、現在は政治部に配属され国交相の番記者として奮闘しているそうだ。
今日のこの時間を捻出するのもさぞ大変だっただろう。
「なら、次回は橘クンの会社の近くでイイお店探ししてもらおうかな。そっちも期待してるね」
桐谷先輩は俺をからかうように、キラーパスをくれる。
俺たちより1年早く就職した桐谷先輩は、今年で社会人5年目だ。東海地方のローカル局である名静テレビにアナウンサーとして勤めていた。現在はお昼の情報番組のキャスターや、リポーターとして地域に足を運ぶなどマルチに活躍している。
「それじゃ明日から毎日、目黒を飲み歩かなきゃならなくなります」
そんな他愛のない会話で酒が進む。
大学の小さな部室で夢を語り、憧れの業界に三者三様の就職をして、またこうして集まれる。仕事は楽しいことばかりではないが、それ以上に誇れることもあった。だからこうして顔を突き合わせると、自然と充実感が溢れてくる。
だから俺たち3人が顔を突き合わされば、当然仕事の話にもなる。数日前の戌亥団地の取材など具体的なネタには守秘義務があるので避けねばならないが、それでも話は尽きない。最近目にした刺激的な記事の話、異動や出世あるいは可愛い後輩ができた話、近年の業界の傾向と未来の話
「最近、我が社もネット媒体での発信により一層力を入れていく方針になったよ」
甲斐斗がふとそんなことを口にする。
「あぁ、見たなそれ。動画サイトの大和新聞チャンネル、今年度からドキュメントっぽいムービーも上げ始めてるよな」
「えぇー、それじゃテレビ局もうかうかしれられないね。こっちの仕事が喰われちゃいそう」
桐谷先輩の言う通り、その動画は新聞記者のジャーナリズムをナレーションに乗せて発信するものであり、テレビのニュースと見紛うようなものであった。
「新聞は発行部数が右肩下がりですから、どうしても次の媒体を見つけないと生き残れないんですよ。僕の会社も名の売れてる先輩記者とかはSNSアカウント作って、そこから発信できるジャーナリズムがないかとか模索してます」
「あー、私もアナウンサー就いてすぐにSNSのアカウント作らされたわ。視聴者との距離を近づけるとか何だとか。私は当たり障りの無いことしか投稿してないけど、政治的な思想を個人で発信してる記者も増えてきてる。……あまり受け入れては貰えてないみたいだけどね」
IT革命によりインターネットは瞬く間に世間に浸透したが、既存のメディアは参入に遅れをとっていた。地上波や新聞といった媒体こそが報道の華である――という古い感覚を捨て切れない人は業界にも少なくない。
しかし第四の権力などという称号に胡座をかいていた報道業界を尻目に、Web2.0による人類総発信者の構造は瞬く間に第五の権力と呼ばれるまでに至っていた。マスメディアはそれに焦りを募らせウェブへの参入を図ってはいるが、未だ後塵を拝する形だ。
「ツワブキも雑誌の電子版を始めたんですが、どうもマネタイズで躓いてるんすよね」
インターネット黎明期には、ブログなどで自身のジャーナリズムを熱く語る者が散見される程度だった。しかしアフィリエイトが普及すると、収入目当てにニュースや情報を発信しようとする者が急増した。
アクセス数はさながら視聴率のようなもので、インプレッションが多いほど広告収入を得られる仕組みだ。これにより、情報とはお金を払って得るものではないという価値観が若者を中心に浸透していく。
そして放送法により秩序の整ったテレビ番組などと違い、ネット上のそれは無法地帯であった。アクセス数稼ぎの為の過激な誹謗中傷や対立煽りなどは当たり前で、しかもその記事は取材に基づいてなどいない。読む者の感情を揺さぶり、目を惹く脚色の手法ばかりが洗練されていく。
でもそんな記事が跋扈するからこそ、おやっさんが目指す中立無機質のジャーナリズムに意義があるのだ。俺はそう信じて戦っていかなければならないと考えている。
「俺たちが汗水垂らして書いた有料記事より無料で読めるアフィブログの方が読まれ易いって、理屈では分かってるんですけど。あんなコタツ記事なんかに人が群がるのを見るとバカらしくなりますよ」
「私の局もニュース番組でSNSトレンドを追うコーナーが始まったの。なーんか釈然としないんだけど……変わらなきゃいけないのは報道側の意識なのかもね」
俺たちはもう、どうしようもなく社会人だ。
学生の頃の理想を語った姿が今の姿と乖離していようと、誰も文句は言わない。……言えない。
でもだからこそ、皆んな現実と向き合って各々の業界で足掻いているのだと実感できた。
ややもすると、思い通りにならない世間の教養や意識の在り方について冷笑の句が漏れそうになる。酒の味はもう学生の頃とは違っていた――なんてシニカルに浸る程には酔い始めていた。
そんな苦々しい空気を察したのか、甲斐斗が口を開く。
「乙郎、それに桐谷先輩も……僕たちはまだ不貞腐れるほどの時間を社会で過ごしてません。出世していくのはこれからで、今はまだ背負ってるものだって大して無い。もうちょっと夢を語っても良い筈です」
俺は虚を突かれた思いがした。
桐谷先輩の方を見ると彼女もきょとんとしていたが、やがて柔和な笑みを浮かべた。
「都築クンにそんな前向きなこと言われるなんて……ちょっと反省しなきゃ。酔っ払らうなら……もっと理想とかそれを求める自分みたいなのに酔いたい、なんてね」
「む……いえ、昔誰かがそんな風に言ってたのを、たまたま思い出したんですよ」
そう言うと甲斐斗は横目で俺を見る。それに気付いた桐谷先輩も、そうなの?と目配せをくれる。
「はっ、どこの青二才がそんなこと言ったんでしょうね」
俺がそう言うと、俺たちは心の底から笑い合った。




