104話 後追い取材
海風に乗った潮の香りが鼻を突く。
無機質に建ち並ぶ団地は、戦後の動乱をその身に刻んできたかのように荒廃していた。掠れた案内板に錆の目立つポール。壁に描かれた落書きや鳴り響く蝉の声すらも、どこか活気がない。見上げれば集合住宅のベランダには色褪せた毛布と家庭用のパラボラアンテナが点々としていたが、人の気配は薄い。
三方をそんな団地に囲まれ雑草の生え放題になった公園は快晴でも日当たりが悪かったが、こうも暑い日はありがたかった。
ひと仕事を終えた俺は、ベンチに腰掛け一服する。
「なんとか終わったっスね、このままなら4時前には帰社できそうっス。乙郎サンのおかげっス」
ワイシャツの襟元を仰ぎながら隣のベンチでそう口にしたのは、去年入社した俺の後輩――秋山圭一だった。
ジャーナリストを夢見て帝東大学を卒業し、ツワブキ出版に入社してもう4年目。今日は東京ベイエリア開発に反発する住民の取材のため、部下の秋山と2人でこの東京湾埋立地第七號島を訪れていた。
江東区の南に広がる人工島群。江戸時代から始まった東京湾の埋め立ては、今もなお拡大を続けている。
戦後、湾岸エリアは工業地帯として発展することを期待され、その働き手として多数の人がこの戌亥団地に住み込んだ。しかし工場の集中による公害問題が認知されるようになると、次第に工業地帯は地方へと分散していく。こうして戌亥団地には労働者だけが取り残されたのだった。
一方で人口が増加の一途を辿る首都圏には、圧倒的に土地が足りていない。そんな中、この人工島群は最先端技術の実験都市及び高級住宅地として白羽の矢が立ったのだ。
新たに埋め立てられた土地にはタワーマンションやレジャー施設が建設され、たちまちハイソサエティを形成した。反面、数多の失業者を支えるこの第七號島に聳える戌亥団地は、都市計画の目の上のたんこぶとなっていた。
「さっきの取材……充分だと思うか?」
東京ベイエリア開発と銘打たれた大規模な都市計画は、戌亥団地の住民を立ち退かせようとしていた。俺たちは今朝から、それに反発する人々の取材でこの第七號島を駆け回ったのだ。
「んー……、自分が想定してた、こんなことが聞けるかなーって声は粗方拾えたと思うっスけど」
半世紀前に出稼ぎに来たが、失業後は日雇いで食い繋ぎながら生きてきた者。戦後にゲットー化した付近の地域から流れてきた在日外国人やその二世。低所得高齢者の多いこの島を支えるデイサービスセンターの職員。
国の都合で辛酸を舐めされられた挙句、居場所としていたこの島すらも取り上げられようとしている。いずれに取材せど、その事に対する怒りと不満の声を聞くことができた。
「まぁ、政府に振り回される弱者たちの憤りは嫌というほど聞けたな」
俺たちが休憩していた公園の端で、気付けば母親と思しき女性が年長くらいの幼児を遊ばせていた。こんな退廃的な場所であっても、強かに育まれる命もあるようだ。俺はまだ半分は残っていたであろうタバコの火を消す。
「それは、ワイドショーとかで取り沙汰されてる対立構造……その延長以上の記事にはならないってコトっスか?」
確かにまだ秋山の取材能力はヒヨッコだが、人の顔色を伺う事は俺よりも長けている。今だってきっと、取材で想定の範囲を超えた言葉を得られなかったという俺の不完全燃焼感を読み取ったのだろう。
記事映えしそうな過激な情報はいくらでも得られた。
立ち退き先として国が用意している住宅は各地に散在しておりこの戌亥のコミュニティを解散させようとしている、こんな老体で知人のいない地へ飛ばされたら孤独死は避けられない――とか。立ち退き説明会はあったが招待されたのは一部の人だけで、多くの住民は納得していないのに話が進んでる――とか。
向かいの人工島に建ち並ぶ高級タワーマンションを背に団地の駐輪場でワンカップをあおる老人、そんなメッセージ性の強い写真だって撮れた。
でも、それは全て、東京ベイエリア開発と第七號島の対立構造の話の枠から出るものではなかった。
「俺らはその対立構造の取材に来たんだ。これ以上望むものなんて無い……か」
俺は自分に言い聞かせるようにそう言うと、腰掛けていたベンチから立ち上がった。するとちょうど、足元にボールが転がってくる。
そしてそのボールを追いかけてくる先程の幼児と、さらにそれを追いかけてくる母親であろう女性の姿が見えた。
「スミマセン、スミマセン」
カタコトの日本語を喋るその女性は、やや太い眉に浅黒い肌をしていた。俺はボールを拾うと、そっと男の子の方に転がす。すると、母親と同じく健康的な肌の色をしたその子は、すぐさまボールに跳び付いた。
「いえいえ、大丈夫です。子供も元気でとても可愛い。ここでは子供は珍しいですね」
本当なら初対面の相手にはもう少しかしこまった言葉使いがふさわしいだろうが、俺は相手方に合わせて簡単な日本語を選ぶ。
「ワタシ、ベトナム、の、人。ここ、子供少ない。でもワタシみたいな、外国の人の家族もいる」
その女性は子供の遊ぶ姿を優しそうな眼で追いながら、特に気負いせずに俺の話に乗ってくれる。
俺は彼女の眼に、今日取材した誰にも待ち得なかった色を感じた。それを拾えなきゃ記者をやってる意味が無い。だから徐々に言葉のギアを上げる。
「外国の人たちにも、ここは住みやすいところなんですね」
「ウーン、ちがうかも。ここも最近は、コワイ人多い。ダイナナゴウトウを守るって言ってる、知らない人増えた」
頭の中で、今日の取材と彼女の言葉が繋がっていく。横目で秋山を見ると、空気を察してか既にメモを取りはじめた。しかしその姿を見て、女性は警戒心をあらわにする。
「お兄サンたち、テレビの人?」
「いいえ、私たちは……マガジンの者です。テレビでは聞いてもらえないような声を、集めています」
俺は少しズルい物言いをした。
時期的に見れば、もうこの辺りはテレビの取材をされ尽くした後なのだろう。そして彼女の反応を見るに、そのメディアスクラムが恐怖を植え付けたに違いない。
俺は名刺を彼女に差し出す。
「順番を間違えてごめんなさい。私はツワブキ出版の橘です。お話を聞かせてもらえないでしょうか」
その女性は、構って欲しそうに足元にしがみつく子供を抱き上げると、決心したように話し始めた。




