第9話 帰る場所
三月一日の夜、凪浦駅のホームへ降りた瞬間、潮の匂いがした。東京を出たときには晴れていたのに、こちらは少しだけ雨が降ったらしい。ホームの端が濡れ、街灯の光を薄く返している。私はキャリーケースを引きながら、改札の向こうを見た。見慣れた小さな駅だった。
十月に初めて降りたときは、ここがどこなのかもよく知らなかった。ホテル汐風館という名前すら、名刺で見ただけだった。今は、明日の朝食予約が何人か気になる。
「水瀬さん」
前を歩いていた黒瀬さんが振り返った。
「置いていきますよ」
「考え事してました」
「東京に忘れ物ですか」
「逆です」
キャリーケースの車輪が、改札前の継ぎ目で小さく跳ねた。
「ちゃんと帰ってきたんだなって」
黒瀬さんは一度だけ私を見て、それ以上は聞かなかった。駐車場へ出ると、ホテルのワゴンが停まっている。
「井上さんが持ってきてくれたんですか?」
「昼に駅へ置いてもらいました」
「それ、先に言ってください」
「今、言いました」
「そのやり取り、久しぶりな感じしますね」
「二日しか空いてません」
「東京が長かったんです」
そう言って助手席へ乗った。ホテルまでの道は暗い。海沿いの店もほとんど閉まり、観光地らしい明るさはない。けれど、角を曲がって汐風館の看板が見えたとき、胸の奥が少し緩んだ。自動ドアの前に、夜勤のフロントスタッフがいた。
「お疲れさまです。お帰りなさい」
ただの業務上の挨拶だ。それでも、私は一拍遅れて答えた。
「……ただいま戻りました」
声に出すと、思っていたより自然だった。
◇
翌朝、私は六時すぎに厨房へ入った。
「早い」
美月さんが、卵料理の準備をしながら呆れた顔をする。
「昨日帰ってきたの、何時ですか」
「十一時前くらい」
「今日は休めばよかったのに」
「午前中だけです。午後は休みます」
「本当に?」
「その確認、ホテル全体で禁止にしません?」
「必要な人がいるので無理です」
誰のことを言っているのかは考えないことにした。壁の仕込み表を見る。朝食見込みは五十四人。六時の最終確認では五十六人。焼き物は六十食分を準備し、最初に五十八入れる予定になっている。
「この二日、何かありました?」
「大きいのはないです。昨日、九時すぎに家族四人が来たので小鉢を追加しました」
「残りは?」
「一個」
「いいですね」
「水瀬さんいなくても回りましたよ」
美月さんは笑って言った。胸の奥が、少しだけちくりとする。それを見透かしたように、美月さんが続けた。
「褒めてますからね」
「何を?」
「水瀬さんがいなくても回るようにしたこと」
私は仕込み表から顔を上げた。
「ああ」
「前だったら、厨房とフロントでまた確認して、数字違ってたと思います」
「それならよかった」
今度は素直に言えた。私がいないと成立しない仕組みは、仕組みではない。誰か一人が休んだら止まる仕事を作りたいわけではなかった。赤坂さんが魚の状態を見ながら、こちらへ声を飛ばす。
「東京で偉い人に謝られて、少しは偉くなったか」
「なってません」
「じゃあ今日も邪魔するな」
「邪魔かどうかは仕事を見てから決めてください」
「口だけは偉くなったな」
いつもの調子だった。訂正が出ても、厨房の朝は変わらない。魚は勝手に同じ大きさにはならないし、予約人数も朝になれば増える。それが、ひどく安心した。朝食営業が始まり、八時を回った頃、黒瀬さんが厨房へ顔を出した。
「水瀬さん、あとで時間ありますか」
「九時半以降なら」
「分かりました」
「何ですか?」
「橘さんから連絡が来ています」
手元のペンが止まった。
「圭吾から?」
「ホテルの代表メールへ。水瀬さんに直接連絡していいか確認したい、と」
「どうしてホテルに」
「個人の連絡先へ突然送るのを避けたんでしょう」
圭吾らしくないようで、今の圭吾ならそうする気もした。
「内容は?」
「俺は読んでません。井上さんが件名だけ確認して、本人へ回す前にあなたに聞いてます」
「分かりました。あとで見ます」
黒瀬さんはそれだけ言って戻っていった。私はしばらく、紙の上の『五十六』という数字を見ていた。数字は何も変わっていない。でも、胸の中だけが少し騒がしくなった。
◇
圭吾からのメールは短かった。
『一度、直接話したい。東京へ来てもらうつもりはない。俺が凪浦へ行く。嫌なら断ってくれていい』
その下に、候補日が二つ書かれている。私は一度閉じ、昼休みにもう一度開いた。会わなくてもいい。外部レビューは終わった。会社も訂正した。圭吾が何を思っているかを聞かなくても、私の仕事は続く。それでも、これを曖昧なまま残したくないと思った。
『三月三日なら大丈夫です。駅前でお願いします』
返信した。
三月三日の午後、圭吾は本当に凪浦へ来た。駅前の小さな喫茶店で待っていると、入口のベルが鳴る。濃紺のコートを着た圭吾が店へ入り、私を見つけて少しだけ足を止めた。
「待った?」
「五分くらい」
「ごめん」
「電車なら仕方ないよ」
向かいへ座る。
店員が水を置いていく。婚約していた頃なら、圭吾が何を頼むか知っていた。今日もたぶん分かる。でも、聞かなかった。
「訂正、出たな」
「うん」
「ちゃんと謝れてなかったと思って」
「テレビのあとに聞いたよ」
「あれだけじゃなくて」
圭吾は手元の水に触れた。
「会社の発表を止めなかったこと。千晴が途中から入ったって知ってたのに、自分まで巻き込まれるのが怖くて黙った」
「うん」
「悪かった」
今度は、何に対してか分かった。
「受け取る」
私は言った。
「許すとか、全部なかったことにするとかじゃないけど。謝ってくれたことは受け取る」
「それでいい」
圭吾が小さく息を吐いた。しばらく、店内の音だけが続いた。コーヒーミルの音。食器が重なる音。窓の向こうを走る車。
「もう一つ、話がある」
「うん」
「共同ブランドは終わる」
予想していた言葉だった。
「会社もスポンサーも、今の形で再開するつもりはない。俺も戻すつもりはない」
「店は?」
「続ける。しばらく店だけやる」
「そっか」
「それで」
圭吾が私を見る。
「別のところから、話が来てる」
「仕事?」
「小さい食品会社。騒動が落ち着いたら、俺の料理を商品にしたいって。最初は俺一人に来た話だった」
胸の中で、昔の感覚が少しだけ戻る。圭吾が料理を作り、私が商品にする。
「断ったの?」
「保留にした」
圭吾はそこで一度言葉を切った。
「千晴がやるなら、受けたいと思ってる」
予想していなかったわけではない。でも、実際に聞くと心臓が少し強く打った。
「今度は最初から契約を分ける。名前も二人分出す。千晴の担当も、俺の料理の『補助』みたいにはしない」
「……うん」
「俺が料理を考える。千晴が量産と工程を作る。昔、本当はそうだったみたいに」
もし十月、あの店のテーブルで言われていたら。私はたぶん、泣いてでも頷いた。会社が間違っていると一緒に言ってほしかった。圭吾が作る料理を、また商品にしたかった。二人でやり直せるなら、それが一番だと思ったかもしれない。
「圭吾」
「うん」
「ありがとう」
圭吾の顔が少しだけ動いた。
「でも、やらない」
驚いた顔ではなかった。どこかで分かっていたのかもしれない。
「黒瀬さんがいるから?」
聞かれて、一瞬だけ言葉に詰まった。
「それだけじゃない」
「それだけじゃないってことは、いるんだな」
「今はそっちの話をしてない」
「そうだな」
圭吾は苦く笑った。私はテーブルの上で指を組んだ。
「昔の仕事が嫌いだったわけじゃないよ」
「うん」
「圭吾の料理も好きだった。商品にするのも楽しかった」
「じゃあ、何で」
「戻りたいと思わないから」
言葉にすると、驚くほど簡単だった。
「今回の訂正で、昔の仕事まで返ってきたみたいな感じがした。前みたいにやり直せるかもしれないって」
「できると思う」
「うん。たぶん、できる」
できないから断るのではない。それが大事だった。
「でも、できることと、やりたいことは同じじゃない」
圭吾が黙る。
「私、二人で一つだと思ってた。それで自分の名前がなくなっても、圭吾が評価されれば同じだって」
「……うん」
「もう、そういう働き方には戻りたくない」
「今度は分けるって言ってる」
「分かってる。だから圭吾が悪いから断るんじゃない」
窓の外に、凪浦の駅前が見える。観光客が二人、大きな鞄を持ってバス停を探していた。
「私、今の仕事が好きなの」
「ホテルの?」
「うん。朝食の人数見たり、余った小鉢数えたり、魚の契約で赤坂さんに怒られたり」
「地味だな」
「私もそう思う」
笑ってしまった。
「でも、そこがいい。誰かの名前の後ろじゃなくて、自分で『これが私の仕事です』って言えるから」
圭吾はしばらく私を見ていた。
「千晴、変わったな」
「そうかな」
「前は、俺が新しい仕事を取ってきたら、まず『いつまで? 何食? 予算は?』って聞いてた」
「今でも聞くよ」
「そういうとこじゃなくて」
圭吾が少し笑う。
「前は、自分がやりたいかどうかを後で考えてた」
言われて、返す言葉がなかった。たぶん、その通りだ。
「料理、続けるんだよね」
私が聞く。
「続ける。それしか、まともにできないから」
「そんなことないでしょ」
「千晴に言われると説得力ないな」
「失礼」
「でも、料理は続ける」
「そっか」
私は頷いた。
「圭吾の料理、好きだったよ」
「過去形?」
「今も好きだと思う。食べてないから分からないけど」
「今度食べに来いよ」
「仕事じゃなくて?」
「客として」
少し考える。
「いつかね」
「それでいい」
圭吾は立ち上がった。圭吾が立ち上がるのを見ても、胸の中に「失う」という言葉は浮かばなかった。終わらせたのに、なくなった感じがしない。圭吾は料理を続ける。私も仕事を続ける。ただ、もう同じ場所でなくていい。
「じゃあ」
「うん」
「元気で」
「圭吾も」
店の入口で別れた。振り返ると、圭吾も一度だけ振り返った。今度は、どちらも戻らなかった。
◇
ホテルへ歩いて戻る頃には、日が落ちていた。海沿いの風はまだ冷たい。自動ドアの前まで来ると、中に黒瀬さんが立っているのが見えた。フロントスタッフと何か話していたが、私に気づいてこちらへ来る。
「遅かったですね」
「圭吾と会ってました」
隠す理由はなかった。
「そうですか」
「聞かないんですか」
「何を?」
「何話したか」
「水瀬さんが話したいなら聞きます」
それが少し腹立たしくて、少し安心する。
「仕事に誘われました」
黒瀬さんの表情はほとんど変わらなかった。
「東京の?」
「圭吾と、もう一回商品開発をやらないかって」
「受けたんですか」
「断りました」
「そうですか」
それだけ。
私は思わず眉を寄せた。
「もうちょっと何かないんですか」
「何を言えばいいです?」
「例えば……安心した、とか」
口にしてから、しまったと思った。黒瀬さんが黙る。
私も黙る。
フロントの向こうで電話が鳴った。スタッフが受話器を取る声だけが妙に大きく聞こえる。
「安心しました」
黒瀬さんが言った。今度は、私が黙る番だった。
「何に?」
「戻らなかったことに」
「仕事として?」
聞いた瞬間、逃げたくなった。
十二月なら止めていた質問だ。でも、今日は止めたくなかった。黒瀬さんはすぐに答えなかった。
「そこ、考えるんですね」
「考えます」
「仕事なら即答するのに」
「仕事じゃないので」
胸の奥が強く鳴った。黒瀬さんが周囲を見て、フロント脇のラウンジを指した。
「ここで話します?」
「外がいいです」
「寒いですよ」
「知ってます」
ホテルの前を抜け、海が見える遊歩道まで歩いた。
夜の海は暗い。
波の音だけが近く、ホテルの明かりが背中側にある。
「圭吾に言われたんです」
私から口を開いた。
「前は、自分がやりたいかどうかを後で考えてたって」
「そうだったんですか」
「たぶん」
手をコートのポケットへ入れる。
「だから、今日はちゃんと考えました。昔の仕事に戻れるとして、戻りたいのか」
「はい」
「戻りたくなかった」
「はい」
「今の仕事が好きだから」
「それは知ってます」
また即答された。
「でも、それだけじゃなかったです」
黒瀬さんがこちらを見る。言わなければ、たぶんこの人は聞かない。私が決めるまで待つ。それがありがたかった。だから今度は、私から言う。
「東京で訂正が出たとき、私、少し迷いました。昔の仕事に戻れるかもしれないって」
「はい」
「そのとき黒瀬さんは、戻ってきてって言わなかった」
「言ったら、仕事の選択に影響するでしょう」
「そうですよね」
「雇用主が言うべきじゃないと思いました」
「分かってます」
私は息を吐いた。白くなった息がすぐに消える。
「でも、言ってほしかったです」
黒瀬さんの目が少し見開く。
「仕事じゃなくて」
声が震えた。
「仕事がなくても、帰ってきてほしいって言ってほしかった」
言ってしまった。
もう戻せない。
黒瀬さんは、しばらく何も言わなかった。
「困ります」
ようやく出た言葉がそれだった。
「……何がですか」
「俺も同じことを言いたかったので」
頭が一瞬止まった。
「でも、水瀬さんが一番弱ってる時に、それを言うのは違うと思った」
黒瀬さんは海の方を見た。
「仕事を失って、婚約もなくなって、うちへ来た。俺は雇用主です。その状態で『ここにいてほしい』と言えば、仕事と混ざる」
「はい」
「だから、仕事で必要だということだけは言えた。でも、それ以外は言わない方がいいと思ってました」
あまりにも黒瀬さんらしい。
「説明不足なのに、そこだけ考えすぎじゃないですか」
「自覚はあります」
少しだけ笑いそうになった。
「では?」
私が聞く。
「今は、あなたが戻る場所を自分で選んだあとです」
「はい」
「だから言います」
黒瀬さんがこちらを向いた。
「仕事がなくても、帰ってきてほしいと思いました」
胸が痛いくらいに鳴った。
「それ、告白ですか」
「そのつもりです」
「分かりにくい」
「すみません」
「今さらです」
笑ったら、なぜか目の奥が熱くなった。泣くような場面ではないと思う。でも、第七話の聞き取りで泣いたときとは違う涙だった。
「私も」
声が少し詰まる。
「黒瀬さんが好きです」
黒瀬さんが息を止めたように見えた。
「本当に?」
今度は私が笑う。
「それ、私の台詞じゃないですか」
「確認です」
「好きです」
もう一度言った。
「仕事があるから会いたいんじゃなくて、仕事がなくても会いたいです」
黒瀬さんの表情が、ほんの少しだけ崩れた。笑ったのだと思う。
「俺もです」
風が強く吹いた。寒くて、私は肩をすくめる。
「戻りますか」
黒瀬さんが聞く。
「どこへ?」
わざと聞き返した。今度は、彼も意図を分かったらしい。
「ホテルへ」
「はい」
二人で歩き出す。手をつなぐかどうか、一瞬だけ迷った。私が迷っている間に、黒瀬さんの手がこちらへ少し伸びて、途中で止まった。
「……何ですか」
「いや」
「途中でやめないでください」
「仕事以外は慣れてないので」
「知ってます」
私から手を取った。
冷たかった。
「明日から、仕事中は今まで通りですからね」
「当然です」
「私の案に反対してもいいです」
「もうしてます」
「それもそうでした」
ホテルの自動ドアが近づいてくる。フロントの灯りが見える。仕事場で、逃げ場所で、いつの間にか帰りたい場所になったところ。
ドアが開く。
私は黒瀬さんの手を離して、フロントへ向かって言った。
「ただいま戻りました」
今度は、一拍も遅れなかった。




