第10話 朝食を二人分
四月の朝、黒瀬征一郎会長は、朝食会場の隅で焼き魚を半分残した。それだけなら、私はわざわざ気にしなかったと思う。宿泊客でも従業員でも、食べられる量は人によって違う。けれど、六十六歳になる会長は、箸を置いたあとで皿をじっと見つめ、何かを確かめるように私へ視線を向けた。
「水瀬さん。これ、前ならどうしてた」
「お客様に出したものですから、下げたら廃棄です。今もそこは変わりません」
「そうじゃない。その前だ」
会長が指したのは、客前へ出す前の仕込みの話らしい。
「人数にかかわらず、もっと多めに用意していたと思います。今は前日18時と当日6時の人数を見て、焼く量を段階で変えています」
「この魚を減らしたのか」
「最初は減らそうとして、赤坂さんに怒られました」
少し離れた料理台で赤坂さんがこちらを見た。
「まだ覚えてたか」
「忘れるわけないでしょう」
「なら結構」
会長はそのやり取りを聞いて、喉の奥で笑った。
「冬馬から資料は見せられていたが、数字だけだと分からんな」
「何がですか」
「赤字を減らしたって話より、料理長と普通に喧嘩できるようになったことの方が、残りそうだ」
「喧嘩はしてません」
「してる」
赤坂さんと冬馬さんの声がほぼ同時に重なり、会長は今度こそ声を出して笑った。朝食のピークが過ぎると、美月さんが厨房の端で休憩に入る。片付けと昼の仕込みが重なって、九時半を過ぎても水を飲む暇がなかった頃もある。
今は、全員が毎日きれいに休めるわけではないにしても、誰かが抜けても回る時間帯が増えている。数字で見れば、もっと分かりやすい。食品廃棄は減った。原価も下がった。残業も減った。でも、私が一番見たかったのは、美月さんが椅子に座って温かいお茶を飲んでいることだった。
「水瀬さん」
会場を出ようとしたところで、冬馬さんに呼ばれた。付き合い始めて一週間ほどした夜、ホテルを出たところで「もう、黒瀬さんじゃなくていいです」と言われた。私は一度「黒瀬さん」と呼びかけてから、「じゃあ……冬馬さん?」と言い直した。彼は一拍置いて「はい」と答えた。それからひと月近くたち、その呼び方にもようやく慣れてきた。
「十時から会議です」
「聞いてます。会長も?」
「そのために来てます」
「朝ごはん食べに来たわけじゃないんですね」
「食べに来たのも本当だ」
後ろから会長が言った。
「客として食ってから決めたかった」
「何をですか」
「十時に話す」
冬馬さんの説明不足がどこから来たのか、少し分かった気がした。
◇
十時、事務室の長机には、会長、冬馬さん、植村さん、井上さん、私が座った。植村さんの前には月次の資料がある。けれど、会長は最初から数字を読み上げさせなかった。
「先に結論を言う」
腕を組み、冬馬さんを見る。
「売却の検討は取り下げる。設備更新の借入も更新で進める」
あまりに短くて、意味が入ってくるまで数秒かかった。
「……本当に?」
思わず出た。
会長が私を見る。
「冬馬から、あんたは嬉しいときにまず確認するって聞いたが、本当なんだな」
「何を話してるんですか」
「管理上必要な情報です」
「それ便利に使わないでください」
冬馬さんは表情を変えない。植村さんが咳払いをして、資料の一枚をこちらへ向けた。
「正確には、料飲部門だけならまだ年換算で少し赤が残る見込みです。ただ、去年みたいに底が見えない状態ではありません。ホテル全体では春の決算を黒で着地できる見込みになりました」
「融資先にも、改善計画と実績を出しました。更新可能との回答です」
冬馬さんが続ける。売らなくていい。その言葉を、半年近く誰も簡単には口にしなかった。私は数字を追いかけてきた。けれど、数字の先にあったのは、建物ではなく人だった。美月さんが来月もここで朝食を作ること。赤坂さんが市場の魚を見て文句を言うこと。井上さんが夕方に予約数を厨房へ持ってくること。森下さんが九時を過ぎたら小鉢を何個追加するか迷うこと。それが続けられる。
「水瀬さん」
会長に呼ばれた。
「はい」
「礼を言うつもりはある」
「私一人の仕事じゃありません」
「分かってる」
「なら、みんなに言ってください」
「面倒な女だな」
「よく言われます」
冬馬さんが小さく息を吐いた。
「俺は最初から言ってます」
「誰がですか」
「面倒だと」
「今、恋人として言いました?」
井上さんの視線が急に資料へ落ち、植村さんは眼鏡を直した。会長だけが愉快そうに眉を上げる。
「そういうことになったのか」
「仕事中です」
冬馬さんが言った。
「今は関係ありません」
「なら、その顔をどうにかしろ」
「普通です」
会長が笑い、私は顔が熱くなるのを感じた。付き合い始めて一か月ほど経ったが、ホテルでは今まで通りだった。今まで通りでいよう、と決めたからではない。仕事中に恋人らしくする理由が、本当にあまりなかった。私は冬馬さんの案に反対するし、冬馬さんは私の残業を止める。赤坂さんは二人まとめて怒る。それで十分だった。
「もう一つ」
会長が声を戻した。
「冬馬。売らずに済むなら、次は残すだけじゃ駄目だぞ」
「分かっています」
「建物も設備も古い。人も足りない。春を越えたからって、来年も同じじゃ意味がない」
「はい」
「水瀬さんもな」
「私?」
「一回立て直したからって、ずっとここに縛られる必要はない」
思わぬ言葉だった。
「他で仕事したくなったら、冬馬に遠慮するな」
「親父」
「経営の話だ。優秀な人間を、恋人だから囲うような経営者なら失格だ」
冬馬さんが黙る。私は少し考えてから頷いた。
「分かりました。でも、今はここでやりたいです」
「なら、それでいい」
会議はそこで終わらなかった。設備更新の優先順位や、夏の繁忙期へ向けた採用の話が続いた。ホテルは救われたのではなく、続ける許可を得ただけだった。その違いが、私は好きだった。
◇
それから七か月後。
十月二十四日の朝、私は厨房で赤坂さんと口論していた。
「だから、秋の限定小鉢を毎日出す必要はないって言ってるんです」
「数量限定にしたら、早い客しか食えねえだろ」
「限定なんだから、それでいいでしょう。基本の小鉢は別に残すんですから」
「常連が遅い時間に来たらどうする」
「限定を目当てに来る常連が何人いるか、まず記録しましょうって言ってるの」
「また記録か」
「記録嫌いなの、まだ治ってないんですか」
「お前の数字好きも治ってねえだろ」
「治す必要ないので」
作業台の向こうで美月さんが笑いをこらえていた。
「佐伯、何笑ってる」
「別に」
「顔が笑ってる」
「料理長たち、去年より仲いいなと思って」
「どこがだ」
「どこがですか」
赤坂さんと私の声が重なる。そのとき、厨房の入口から冬馬さんが顔を出した。
「水瀬さん、九時半から来客です」
「知ってます」
「忘れてそうな声がしたので」
「赤坂さんが話を長くするからです」
「お前だろ」
「二人とも九時二十五分までに終わらせてください」
冬馬さんが言う。恋人になって七か月。仕事中の彼は、相変わらず私を特別扱いしない。むしろ、私が時間を忘れることを以前より容赦なく止めるようになった。九時半に事務室へ入ると、井上さんと見知らぬ男女が二人待っていた。
「水瀬さん。こちら、隣県のホテルの方です」
井上さんが紹介する。二人は、朝食部門の改善について相談したいと来ていた。
「うちも朝食の評判自体は悪くないんです。ただ、人が足りなくて、仕込みがどんどん早くなってしまって」
女性の料理部門責任者が言った。
「汐風館さんの記事を見て、水瀬さんに一度現場を見てもらえないかと」
私は冬馬さんを見なかった。そのまま三田村さんへ向き直る。
「今の厨房を、私だけで見ても意味がないと思います。予約を持っている方と、朝食会場の方にも話を聞けますか」
「もちろんです」
「それと、すぐ何かを減らす前提では見ません。今のやり方になった理由から聞きたいです」
「お願いします」
女性が頭を下げる。冬馬さんは隣で黙っている。打ち合わせが終わったあと、二人が帰ると、私は彼に聞いた。
「受けてもいいですか」
「勤務扱いをどうするかは決めましょう。汐風館の仕事に支障が出ない範囲なら、俺は賛成です」
「恋人が外で評価されるの、嫌じゃないですか」
「なぜ嫌なんです?」
「ちょっとくらい寂しいとか」
「出張一日ですよね」
「そこは現実的なんだ」
「でも」
冬馬さんが書類を閉じる。
「水瀬さんが、ここでしか仕事できない状態にはしたくないです」
その言葉を、突き放されたとは感じなかった。私の仕事を汐風館の外へ広げてもいい、と言われているのだと分かった。
「分かりました」
「それと、役職の件です」
机の上へ、小さな箱が置かれた。一瞬、何かと思った。
「何ですか、これ」
「名刺です」
「……紛らわしい箱に入れないでください」
「業者が入れてきただけです」
開けると、新しい名刺が並んでいる。
水瀬千晴。
その下に、『料飲企画責任者』。しばらく文字を見た。
「正式に、この役職でお願いします」
「料理研究家じゃないんですね」
最初に汐風館へ来た日のことを思い出して、わざと聞いた。
「そう名乗りたいなら止めません」
「今は、こっちがいいです」
名刺を一枚取った。一年前、名前が書かれた書類を見るのが怖かった。今は、自分の名前の下に、自分で選んだ仕事の名前がある。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「でも、秋の限定小鉢の件は反対しますからね」
「俺に言われても困ります。赤坂さんと詰めてください」
「責任者になったのに?」
「一皿の最終判断は料理長です」
「分かってます」
肩書きが変わっても、何でも決められるわけではない。それも、ちょうどよかった。昼前、植村さんが事務室へ入ってきた。
「二人とも、ちょっといい?」
手には封筒ではなく、一枚の集計表しか持っていない。
「この一年の料飲、通算で黒です」
それだけ言った。
「本当に?」
反射で聞くと、植村さんが笑った。
「そこはまだ変わらないね」
「確認です」
「ホテル全体も、この一年で黒。予算よりは少し上」
冬馬さんが立ち上がる。
「植村さん、ありがとうございます」
「僕に言わないで。稼いだのは現場」
「じゃあ全員に共有します」
「数字だけ送ると料理長が見ないから、口でも言って」
「分かりました」
植村さんが出ていく。私は新しい名刺を手にしたまま、しばらく動けなかった。赤字だった朝食が、黒字になった。でも頭に浮かんだのは金額ではない。廃棄容器を持ち上げて「軽い」と言った美月さん。魚を切るなと怒った赤坂さん。毎日十八時に数字を持ってきた井上さん。九時を過ぎて小鉢を何個出すか悩んだ森下さん。
「水瀬さん」
「はい」
「また考え込んでます?」
「一年って早いなと思って」
「今日でちょうど一年です」
「覚えてたんですか」
「十月二十四日。雇用関係の記録なので」
「そういう言い方しないと死ぬんですか」
「たぶん」
笑った。
その日の仕事は、結局いつも通り夕方まで続いた。黒字だから早く帰れるわけでも、責任者になったから資料が減るわけでもない。十八時の朝食見込みを厨房へ回し、翌日の仕入れを確認し、外部ホテルへ訪問する日程を仮押さえする。最後のメールを送ったところで、時計は十九時を少し回っていた。
「今日は帰ります」
自分から言うと、向かいの机で仕事をしていた冬馬さんが顔を上げた。
「珍しいですね」
「成長しました」
「それはよかった」
「一緒に帰ります?」
付き合って七か月になるが、まだ別々に暮らしている。私は従業員寮。冬馬さんはホテルから少し離れた家。
「今日は、少し寄りたいところがあります」
「どこ?」
「海」
「また寒いところで話すんですか」
「今日はまだ十月です」
「海風は寒いですよ」
「コート持ってきてください」
どこかで聞いた言い方だった。私は笑って、パソコンを閉じた。
◇
海沿いの遊歩道は、三月の夜より少しだけ暖かかった。観光客の姿はもう少なく、遠くの街灯とホテルの明かりが波に揺れている。
「一年前の今日でしたね」
冬馬さんが言った。
「汐風館に来た日?」
「はい」
「三日だけ見るつもりだったのに」
「荷物は三日分より多かったですけど」
「そこ覚えてるんですね」
「覚えてます」
歩きながら、肩が触れる。離れる理由も、何か話して沈黙を埋める理由もなかった。黙って歩いていても気まずくない。
「水瀬さん」
「はい」
「話があります」
「改まりますね」
「改まる話なので」
冬馬さんが立ち止まった。海側の柵の前だった。ポケットへ手を入れ、小さな箱を出す。今度こそ、名刺ではなかった。
「……今日二回目なんですけど、そのサイズの箱」
「昼は俺も紛らわしいと思いました」
「知ってたの?」
「名刺の納品日までは知りませんでした」
「本当に?」
「今はそれやめてください」
三月の私と同じことを言われ、笑いそうになる。でも、冬馬さんの指が少しだけ硬いのが見えて、笑うのをやめた。
「結婚してください」
短かった。
この人らしい。
胸が熱くなるのに、頭の中には同時にいくつものことが浮かんだ。
仕事。
ホテル。
名字。
暮らす場所。
また誰かの役割の中へ入って、自分の仕事が消えないか。七か月付き合って、そんな人ではないと知っている。それでも、条件を言わずに頷くのは、昔の自分へ戻るようで嫌だった。
「仕事は辞めません」
「ああ」
「ホテルの女将になるつもりもありません」
「頼んでない」
「冬馬さんの案にも、仕事では反対します」
「もうしてる」
「恋人とか妻だからって、仕事の評価を甘くしないでください」
「当然です」
即答だった。
私は少しだけ息を吐いた。
「あと、外のホテルの仕事も、やりたいものはやります」
「勤務と契約を整理できるなら」
「そこは経営者なんだ」
「大事なので」
「分かってます」
冬馬さんが箱を持ったまま、少し困った顔をした。
「まだあります?」
「今、考えてます」
「長いですね」
「大事なので」
「それ、俺の台詞です」
笑ってしまった。笑ったら、怖さが少し薄くなった。
「もう一個だけ」
「はい」
「結婚しても、帰る場所を一つに決めつけないでください」
冬馬さんが少し首を傾ける。
「東京に仕事で行く日もあるし、私が一人でいたい日もあると思う。でも」
一度、言葉を選んだ。
「帰りたいときに、同じところへ帰れる人でいてください」
冬馬さんの表情がゆっくり緩んだ。
「それなら、俺からも一つ」
「何ですか」
「これからは、同じ家に帰ってほしい」
胸の奥が、静かに鳴った。
三月、仕事がなくても帰ってきてほしいと言われた。今度は、同じ家へ。
「はい」
私は答えた。
「お願いします」
指輪を受け取る。左手の薬指に通すと、十月に外したものとは違う重さがあった。誰かの隣にいるために、自分を小さくする約束ではない。自分の仕事を持ったまま、同じ場所へ帰る約束だ。
「寒くないですか」
冬馬さんが聞いた。
「今それ言う?」
「風が強くなってきたので」
「じゃあ帰りましょう」
「ホテルへ?」
「今日は寮です」
「そうでした」
「同じ家は、これから決めます」
「はい」
プロポーズの直後なのに、住宅の話は何一つ決まっていない。それでいいと思った。二人で決めればいい。
◇
翌朝、私は六時前に厨房へ入った。まだ朝食営業前で、美月さんたちは仕込みの最終確認をしている。
「水瀬さん、おはようございます」
「おはよう」
左手を見られないようにしたつもりはなかった。でも、美月さんは一秒で気づいた。
「え」
「仕事中」
「いや、でも」
「仕事中」
「あとで聞きますからね」
「勤務後にして」
赤坂さんが横から言う。
「佐伯、手止めるな。水瀬も浮かれて人数間違えるなよ」
「間違えません」
「本当に?」
「料理長までそれ言うのやめてください」
いつもの朝だった。六時の人数は六十八人。昨日の十八時から二人増えている。魚の初回投入を七十にするか、六十八のままにするかで赤坂さんと短く話す。森下さんから、幼児が多いので果物は少し早めに出したいと連絡が来る。指輪が増えても、数字は勝手に合わない。
婚約しても、仕事が簡単になるわけではない。それが、安心した。九時半を過ぎ、最後の客が会場を出る。私は厨房の端で、遅い朝食を自分用に取った。焼き魚を少し。卵料理。小鉢。ご飯。それから、昨日試作した柑橘の小さなパンを一つ。もう一枚、同じように皿を作る。
「何で二人分なんですか」
後ろから声がした。
冬馬さんだ。
「一つは私の分」
「それは見れば分かります」
「もう一つは、甘いものは好きじゃないのに、私の分を毎回ちょっと取る人の分です」
冬馬さんが皿の上の柑橘パンを見る。
「いりません」
「じゃあ片づけます」
皿を持ち上げる。
「……待ってください」
「何ですか」
「一つください」
「いらないんじゃなかったんですか」
「気が変わりました」
「本当に?」
「確認多いですね」
「大事なので」
私は皿を戻した。窓の向こうで、朝の海が光り始めている。明日の朝も、たぶん忙しい。予約人数は変わるし、魚は予定どおりには来ない。冬馬さんとは仕事で意見がぶつかるだろうし、私はまた時間を忘れて怒られると思う。私は柑橘のパンを半分に切り、二つの皿へ分けた。海の向こうが明るくなる頃、私は今日も、二人分の朝食を焼く。




