第8話 天才ではありません
三月一日の朝、東京行きの特急が凪浦駅を出ると、窓の向こうの海がゆっくり後ろへ流れていった。
十月に東京を離れたとき、私はほとんど景色を見ていなかった。スマートフォンの通知を切り、会社から持ち帰った荷物だけを抱えて、どこでもいいから名前を知られていない場所へ行きたかった。今は膝の上に資料を置き、その隣には黒瀬さんが座っている。
「本当に来るんですね」
出発して十分ほどしてから言うと、黒瀬さんは窓の外からこちらへ視線を戻した。
「昨日も確認しましたよね」
「確認はしました。でも、レビューの当事者は私です。黒瀬さんまで東京に行く必要はありません」
「確認会の中には入りません。あなたが終わるまで仕事してます」
「東京まで来て?」
「午後に取引先と打ち合わせを一件入れました」
「後から入れましたよね、それ」
「空いた時間を有効利用しただけです」
たぶん認めない。私は諦めて資料へ目を戻した。外部レビューから送られてきた事実確認表には、これまでの聞き取りで示された項目が簡潔に並んでいる。五月八日の初期企画書。五月十日の会議記録。五月十六日の私への正式アサイン。共有クラウドの版履歴。権利確認欄が空白のまま進んだ発売前チェック。高梨紗季の進行表。圭吾が受け取っていた、外部コンサルからの曖昧なメール。そして、私自身の過去のメール。
『表では圭吾名義で構いません。仕様側はこちらで引き続き対応します』
そこだけは何度読んでも胸が重くなる。
「またそこ見てます?」
黒瀬さんが言った。
「見えました?」
「同じページを十分くらい開いてるので」
「見ないわけにはいかないでしょう」
「見ないとは言ってません。ただ、今日の確認はそれ一通について反省文を書く場じゃない」
「分かってます」
「本当に?」
「それ、今日はやめてください」
思わず笑ってしまい、少しだけ肩の力が抜けた。列車は海沿いを離れ、山の間へ入っていく。
「黒瀬さん」
「はい」
「終わったら、先にホテルへ戻ってもらってもいいですからね」
「水瀬さんは?」
「そのとき考えます」
「東京に残る可能性がある?」
「……分かりません」
言葉にしてから、自分でも驚いた。戻りたいわけではない。それは分かっている。ただ、今日正式に会社の発表が誤りだったと確認されたら、失ったもののいくつかを取り戻せるかもしれない。以前の会社から話が来るかもしれない。料理研究家としての仕事だって、また始められるかもしれない。そんな考えが、まったくないわけではなかった。黒瀬さんは「戻ってきてください」とは言わなかった。
「終わってから決めればいいと思います」
それだけだった。
また選ばせる。
私は資料を閉じ、今度こそ窓の外を見た。
◇
最終確認会は、旧会社の本社ではなく、外部レビュー側が借りた会議室で行われた。長机の向こうに、これまで画面越しに見ていた三人が座っている。外部弁護士、商品開発実務者、主要取引先の監査担当。旧会社からは法務担当と広報担当が二人。私はその正面に座った。黒瀬さんは建物の外で別れた。
『終わったら連絡してください』
それだけ言って、近くのコワーキングスペースへ向かった。扉が閉まり、外部弁護士が資料を開く。
「本日は、報告書公表前の最終事実確認です。水瀬さんに有利・不利という観点ではなく、記載内容に事実誤認がないかを確認します。異論があれば、その場で言ってください」
「分かりました」
「では、企画流入経路からです」
画面に時系列が表示された。
五月八日。外部コンサルタントから、圭吾側のプロデューサーへ初期企画書が送付。
五月十日。商品企画会議で基本案を採用。私は参加していない。
五月十六日。私が量産仕様、原価、表示、工程担当として正式に入る。その後、共有クラウドの第五版から私の修正履歴が始まる。
「以上から、レビューとしては『水瀬千晴氏が当該企画を独断で持ち込んだ事実は確認できない。むしろ、同氏の正式参加以前に企画の核となる案が存在したことが確認された』と記載します」
喉が乾いた。
十月から何度も欲しかった言葉だった。私は持ち込んでいない。それがようやく、私以外の人間の手で記録になる。
「異論はありますか」
「ありません」
声は震えなかった。次に、最終仕様書が映された。
「一方、水瀬さんが最終仕様の責任者であったことも事実です。量産分量、工程、原価、保存条件、食品表示については、レビュー上も水瀬さんの担当と確認しています」
「はい」
「その点を、会社発表の誤りと一緒に消す意図はありません」
「消さないでください」
思ったより早く言葉が出た。法務担当がこちらを見る。
「そこは、私がやった仕事です」
「承知しました」
外部弁護士が短く頷いた。権利確認手続きの話へ移る。発売前の確認欄には、必要な部署の確認印がないまま進行していた。誰か一人が故意に飛ばしたとまでは認定できない。ただ、会社としての確認手続きが機能していなかったことは残る。圭吾についても、外部コンサルから「参考店の要素をもっと寄せる」という曖昧なメールを受け取っていたことは確認された。しかし、それだけで盗用を指示した、あるいは違法性を認識していたとまでは言えない。
「橘氏については、『水瀬氏が企画起点ではないことを知り得る立場にありながら、炎上後の会社発表を訂正しなかった』という事実関係を記載します。ただし、盗用の指示者とは認定しません」
「それでいいです」
私は答えた。
圭吾を悪者にすれば、たぶん話は分かりやすい。でも、分かりやすくするために事実を変えたくなかった。最後に、外向けクレジットの比較表が出た。私の名前が、共同監修から開発協力へ変わり、やがて消えていく。そして、その途中に私自身の同意メールがある。
「この部分について、報告書では『水瀬氏自身が一部案件でクレジット省略に同意していたことを確認した。ただし、その事実は今回の商品企画を水瀬氏個人の持ち込みとした会社発表を正当化しない』と整理します」
「はい」
「また、過去案件のすべてについて同意があったとは確認できていません。今後、訂正可能な社内記録については作成者情報を整理する方針だと会社側から回答が出ています」
広報担当が頭を下げた。
「外向けの過去記事や雑誌まで、すべて訂正できるわけではありません。ただ、現在自社で管理している商品アーカイブと共同開発記録については、確認できる範囲で実担当を追記します」
反射的に礼を言いかけて、口を閉じた。ここで欲しいのは、私だけの名前を大きくすることではない。
「お願いします。ただ、私の名前を大きくしてください、という意味ではありません」
広報担当が顔を上げる。
「実際に誰が何をやったのか、そのまま残してください。圭吾が作った料理なら圭吾。私が工程を作ったなら私。ほかの担当者がやった仕事なら、その人の名前を」
「承知しました」
その返事を聞いたとき、ようやく胸の奥で何かがほどけた。私の名前だけを取り戻したいわけではない。仕事をした人のところへ、仕事の名前を戻したい。
「最後に、会社の対外発表についてです」
外部弁護士が一枚の文書を表示した。
十月、私を切り離すために出された文章。
『水瀬千晴氏個人から持ち込まれた企画をもとに制作された』
「この記載は、確認された時系列と一致しません。レビューとして不正確な発表だったと結論づけます。会社側は本日午後、訂正文と謝罪文を公表する予定です」
旧会社の法務担当が、こちらへ向き直った。
「水瀬さん。このたびは、十分な確認を行わないまま、当社が責任の所在を誤って公表したことで、多大な不利益を与えました。申し訳ありませんでした」
深く頭を下げられる。私は、その光景をずっと想像していたのかもしれない。
会社が謝る。
自分が間違っていなかったと認められる。その瞬間が来れば、全部が晴れると思っていた。実際には、少し違った。
嬉しい。
悔しい。
遅いと思う。
でも、今日まで調べなければ分からなかったこともある。いくつもの感情が同時にあって、一つにまとめられない。
「謝罪は受け取ります」
私は言った。
「ただ、私も過去に、自分の仕事の名前を出さなくていいと言ってきました。それを、全部会社に奪われたことにするつもりはありません」
法務担当は黙って聞いている。
「でも、今回の企画を私が持ち込んだという発表は違います。そこは、訂正してください」
「はい」
「それで十分です」
言い終えたとき、本当に十分かどうかは分からなかった。でも、少なくとも今日ここで求めるものは、それだった。
◇
午後二時、会社の訂正文と外部レビューの要約が同時に公開された。会議室を出た私は、ビル一階のラウンジでスマートフォンを開いた。通知が増えている。
『水瀬千晴氏が当該企画を個人で持ち込んだとした当社過去発表は、確認不十分かつ不正確でした』
『元企画は同氏の参加以前に外部ルートから持ち込まれていたことを確認しました』
『水瀬氏は量産仕様、工程、原価、食品表示等を担当していました』
何度読んでも、文面は同じだった。SNSを開くと、すぐに反応が流れてくる。
『やっぱり会社の責任押しつけだったじゃん』
『テレビで途中参加って言ってたの本当だったんだ』
『でも最終仕様の責任者なのは変わらないんでしょ』
『本人も名前いらないって言ってた時期あるらしいし、被害者扱いしすぎでは』
『企画起点と最終仕様は別って報告書に書いてある』
全員が一斉に謝ってくれるわけではない。昔の記事が消えるわけでもない。盗作料理研究家と書かれた画像は、たぶんこれからもどこかに残る。それでも、公式の記録は変わった。私はスマートフォンを伏せた。
「終わりました?」
声に顔を上げる。黒瀬さんがラウンジの入口に立っていた。
「打ち合わせは?」
「終わりました」
「早かったですね」
「そっちが長かったんでしょう」
「……そうかもしれません」
黒瀬さんが向かいの椅子へ座る。私の前には、飲みかけのコーヒーがある。
「砂糖、二つですか」
「今日は自分で入れました」
「そうですか」
少しだけ、いつもの会話に戻れた。
「訂正、出ました」
「見ました」
「早い」
「ホテルにも問い合わせが来てるので」
「また迷惑を」
言いかけて止めた。黒瀬さんの眉がわずかに動く。
「今のは言わないです」
「そうですか」
「上からですね」
「雇用主なので」
その返しに笑った。笑えたことが、少し嬉しかった。
「会社から、過去の記録も直せる範囲で直すって言われました」
「よかったですね」
「はい。でも、変な感じです」
「何が?」
「前の肩書きまで戻ったような気がして」
料理研究家。
天才シェフの婚約者。共同ブランドの相方。失ったと思っていた名前が、訂正と一緒にこちらへ戻ってくるような感覚がある。
「また、料理研究家としてやりたいですか」
黒瀬さんが聞いた。
「分かりません」
「天才料理研究家に戻りたい?」
その言葉に、私は反射的に首を振りかけた。けれど、すぐには答えなかった。テレビに出るのが嫌だったわけではない。商品が売れるのも嬉しかった。自分の仕事が大勢に届く感覚も好きだった。ただ、その中でいつの間にか、私は自分を説明する言葉を他人に任せていた。
「私、天才料理研究家じゃないです」
ようやく言った。
「知ってます」
「そこ、もう少し間を置けません?」
「失礼しました」
「全然反省してないですよね」
少し笑ってから、私は続けた。
「人が見たことのない料理を次々作れるわけじゃない。圭吾みたいに、一皿で人を驚かせるのも得意じゃない」
圭吾の名前を出しても、胸は痛まなかった。
「でも、明日の朝も同じ料理を出せるようにすることならできます。百人分を、百人にちゃんと届くように考えることもできる」
黒瀬さんは黙っている。
「それでいいんだと思います」
「誰に言ってます?」
「自分に」
「なら、俺は聞いてるだけにします」
「はい」
私は窓の外を見た。東京の街は、十月と変わらず人が多い。ここで仕事をしていた。ここで名前を失った。でも、名前が戻ったからといって、ここへ戻らなければならないわけではない。
「黒瀬さん」
「はい」
「帰りましょうか」
「どこへ?」
わざと聞いたのか、本当に確認したのか分からない。私は少し考えてから答えた。
「凪浦へ」
黒瀬さんが立ち上がる。
「じゃあ、帰りましょう」
ホテルへ帰ろう、とはまだ言わなかった。でも、自分の中ではほとんど同じ意味になっていた。東京駅へ向かう途中、スマートフォンに知らない番号から着信があった。出ると、以前取引のあった食品メーカーの担当者だった。
『訂正、見ました。もし落ち着いたら、また商品開発の相談を――』
一瞬だけ、昔へ戻れる扉が開いた気がした。
「ありがとうございます」
私は足を止めずに答えた。
「ただ、今は汐風館の仕事があります。すぐにはお受けできません」
『そうですか。では、また機会があれば』
「はい」
電話を切る。
黒瀬さんは何も聞かなかった。
「断ったんですか」
「今は、です」
「そうですか」
「止めないんですね」
「何を?」
「東京の仕事を受けること」
「水瀬さんが決めることでしょう」
やっぱり、この人はそう言う。私は少しだけ笑った。
「じゃあ、今は帰ります」
「はい」
改札の向こうに、凪浦へ戻る列車の案内が出ていた。私は自分の切符を、自分で持って歩いた。




