第7話 消された名前
二月上旬、外部レビューの最初の聞き取りは、汐風館の小会議室から参加することになった。ノートパソコンの画面には三つの窓が並んでいる。外部弁護士、食品の商品開発に長く関わってきた実務者、そして主要取引先の監査担当。誰も私を責める顔も、慰める顔もしていなかった。それが、ありがたかった。
「では、水瀬さん。まず時系列の確認からお願いします。問題の商品へ正式に参加した日は、5月16日で間違いありませんか」
「はい。私用メールに残っていたアサイン通知も、その日付です」
「担当範囲は?」
「量産仕様、原価、食品表示、工程設計です。試作には参加しましたが、私がゼロから商品コンセプトを提案したわけではありません」
外部弁護士が頷き、画面共有を切り替えた。最初に表示されたのは、私が見たことのない企画書だった。日付は5月8日。私が参加する八日前だ。料理の名称は最終商品と違う。使われている素材にも変更がある。それでも、中央に置く主素材、柑橘を合わせる構成、ソースの方向性まで、後の商品の核になる部分がすでに書かれていた。息をするのを忘れた。
「これは……」
「外部コンサルタントから、当時のプロデューサーへ送付された初期企画書です。現時点では、企画の発想自体が適法だったか、誰がどこまで元店舗を認識していたかについては結論を出していません」
先に釘を刺された。
「ただし、この書面が5月8日に存在していたことは、送信記録と受信側のサーバー記録で確認しています」
次に、5月10日の会議記録が出る。参加者欄に、私の名前はない。さらに共有クラウドの履歴。最初の版から第四版まで、私のアカウントによる編集は一度もない。第五版から、分量や保存条件、表示の修正履歴に私の名前が現れる。番組の収録で、私は「記憶では違う以上のことは言えません」と答えた。今、画面の向こうに、記憶ではないものが並んでいる。
「水瀬さん?」
呼ばれて、ようやく返事をした。
「すみません。……見たかった資料だったので」
「お気持ちは分かります。ただ、まだ確認途中です。今お見せした資料だけで、誰に故意があったかまでは判断できません」
「はい」
分かっている。
分かっているのに、胸の奥では別の声がしていた。私は持ち込んでいない。やっぱり、私ではなかった。その言葉を、声に出しそうになった。けれど、出さなかった。ここは勝敗を決める場所ではない。何が起きたかを確かめる場所だ。
「もう一点、制作進行の記録があります」
表示された表を見た瞬間、作成者の名前に気づいた。
高梨紗季。
昔、撮影や試作の日程をまとめてくれていた元同僚だった。
「高梨さんから?」
「正式な資料提出依頼に応じて提出されたものです。水瀬さんへ直接渡したものではありません」
「……はい」
その説明に、少しだけ安心した。紗季が私のために会社の資料を持ち出したわけではない。自分の手元に正当に残っていた進行記録を、正式な窓口へ出しただけだ。表には、最初の企画会議、試食、撮影準備、量産テストの日付が並んでいた。私の名前が初めて入るのは、やはり5月16日以降だった。
「この記録について、記憶と食い違う点はありますか」
「ありません」
「当時、高梨さんとはどのような役割分担でしたか」
「彼女は撮影と制作進行です。私は商品側の仕様をまとめていました。工場テストの日程や撮影用の試作品をいつ出せるかで、よく連絡していました」
答えながら、紗季の声を思い出す。
『千晴、また締切一日早めたでしょ。撮影班は魔法使いじゃないからね』
昔の私は笑って、『圭吾の番組収録が入ったから仕方ないの』と答えた。圭吾の予定を先にして、自分の作業を詰める。それを特別なことだと思っていなかった。聞き取りは一時間半ほど続いた。権利確認の手続きがどこで行われるはずだったか。私はそれを自分の担当だと認識していたか。最終仕様書へ責任者名を入れたとき、企画起点まで自分の責任になると思っていたか。私は、分かることだけ答えた。画面が暗くなったあと、椅子の背へ身体を預けた。嬉しい、と言えばいいのかもしれない。
少なくとも、私が最初に商品を持ち込んだという会社発表と合わない記録が、ちゃんと存在していた。
十月から欲しかったものだ。なのに、両手を上げて喜ぶ気にはなれなかった。まだ誰が何を知っていたかは分からない。元の料理との類似が、どこでどう生まれたのかも調査中だ。そして何より、私は自分が「無実だった」と証明されることだけを待つ人間になりたくなかった。扉を開けると、廊下の向こうから美月さんが歩いてきた。
「終わりました?」
「うん」
「顔、白いですよ」
「画面見すぎたかも」
「そういう白さじゃない気がしますけど」
美月さんは少し迷ってから、手に持っていた紙を差し出した。
「今日の朝食記録です。急ぎじゃないです」
「ありがとう。午後に見る」
「本当に午後でいいですよ」
「分かってる」
「本当に?」
このホテルでは、どうして皆同じ言い方を覚えるのだろう。
「今日は信用してください」
「じゃあ一個だけ」
「料理長まで混ざってない?」
思わず笑うと、美月さんも笑った。その笑いで、ようやく肩から少し力が抜けた。
◇
その夜、紗季から電話が来た。レビュー側へ連絡先を出していいかという確認は事前に来ていたが、本人と話すのは久しぶりだった。
『テレビ見た』
「そっちから?」
『だって、調査の話から始めたら堅いじゃん』
昔と変わらない声だった。
『ちゃんと喋ってたね』
「昔も喋ってたよ」
『テレビで圭吾の横にいるときは、半分くらい圭吾に喋らせてたでしょ』
「……そうだった?」
『そうだったよ』
即答された。
私は寮のベッドへ腰を下ろした。
「資料、出してくれたんだね」
『正式な依頼が来たからね。私の進行表なら提出して問題ないって確認も取った。千晴に直接送るのは駄目だから、そっちはしてない』
「うん。それでいい。ありがとう」
『役に立った?』
「私が入った日付は、はっきりした」
『ならよかった』
そこで会話が途切れた。紗季は昔から、沈黙を無理に埋めない。
「ねえ、紗季」
『何?』
「私、昔から自分の名前って、あんまり出したがってなかった?」
電話の向こうが静かになった。
『急にそこ聞く?』
「今日、昔の資料をいくつか見て。それで、ちょっと気になった」
『……出したがってなかった、というより、圭吾が前に出た方が売れるって千晴が言ってた』
「私が?」
『言ってたよ。最初の頃は二人の名前が同じくらい載ってたのに、雑誌の特集で圭吾を大きく出したいって話になったときも、千晴が「それでいいです」って』
胸の奥がざわついた。記憶がないわけではない。ただ、その場面を重要なものとして覚えていなかった。
『一回だけ聞いたことあるよ。千晴の名前も残した方がよくないって』
「私、何て言った?」
『「商品が売れるなら、表は圭吾でいい」って』
言いそうだった。あまりにも、言いそうだった。
『別に、それが悪かったって言いたいんじゃないよ』
「分かってる」
『そのときは二人でやってたし、結婚するつもりだったでしょ。千晴からしたら、どっちが褒められても同じだったんじゃない?』
「うん」
その説明が、一番痛かった。その通りだったからだ。
『でも、今回の会社発表とは別の話だからね』
「うん」
『そこ混ぜないでよ』
「分かってる」
また同じ返事をした。電話を切ったあとも、しばらくベッドから動けなかった。外では風が強く、窓が小さく鳴っている。圭吾が評価されれば、私も嬉しかった。二人で作ったものだから、名前はどちらでもいいと思っていた。それは、誰かに強制された記憶ではない。自分で選んでいた。少なくとも、最初は。
◇
二週間後の聞き取りで、その選択はもっとはっきりした形になって戻ってきた。
「こちらのメールについて確認させてください」
画面に表示されたのは、過去の別案件のメールだった。送信者は、水瀬千晴。宛先は当時の広報担当者とプロデューサー。本文の一部が黄色く示されている。
『表では圭吾名義で構いません。仕様側はこちらで引き続き対応します』
文字を見た瞬間、身体の内側が冷えた。
覚えている。
圭吾が初めて大きな料理特集を組まれる少し前だった。ブランドの見せ方を一本にした方がいい、と言われた。料理を考える圭吾を前へ出し、私は開発スタッフとして裏に回る。その方がメディアに説明しやすいという話だった。
私は了承した。
むしろ、自分から早く返事をした。
「これは、ご自身が送信したものという認識で間違いありませんか」
「……はい」
声が遠く聞こえた。
「送信時、圧力や強制があった記憶はありますか」
「ありません」
「なぜ了承されたのでしょう」
質問は責める調子ではなかった。だから逃げられなかった。
「圭吾が前に出た方が、ブランドが売れると思ったからです」
「ご自身の業務上のクレジットが減ることは認識していましたか」
「たぶん……認識していました。でも、そのときは問題だと思っていませんでした」
「理由は?」
答えようとして、喉が詰まった。
「婚約していました」
三人の表情は変わらない。
「二人で仕事をしているつもりだったので。圭吾が評価されれば、私たちが評価されたのと同じだと思っていました」
口にした途端、十月の店が頭に浮かんだ。圭吾が自分の店を守るために黙った夜。私は、いつから「二人なら同じ」を一人で信じていたのだろう。
「分かりました」
外部弁護士は淡々と記録を取った。
「もう一つ、関連する資料があります」
今度は、複数の過去案件が並んだ一覧だった。内部データには、工程表作成、水分量調整、保存試験、表示確認など、私の名前が作成者として残っている。外向けのプレス資料では、その名前がない。最初の頃は『橘圭吾・水瀬千晴 共同監修』だったものが、『橘圭吾監修』になり、さらに別の商品では私の名前自体がどこにもない。一つだけなら、見落としたと思えた。二つ、三つと並べられると、流れが見える。私の仕事は残っている。名前だけが、少しずつ薄くなっていた。
「この変更すべてについて、水瀬さんが同意した記録があるわけではありません」
商品開発の実務者が言った。
「逆に、すべてが無断だったと確認できたわけでもありません。個別に確認を続けています」
「はい」
「先ほどのメールのように、明示的に了承している案件もあります」
「はい」
同じ返事しか出てこない。私は被害者だった。そう思ってここまで来た。会社が間違った発表をしたことも、圭吾が訂正しなかったことも、今さら消えない。でも、それだけではなかった。私の名前を最初に小さくした人間の中に、私自身もいる。
「今日はここまでにしましょうか」
監査担当が言った。
「大丈夫です」
反射で答えた。
三人のうち、外部弁護士が少しだけ視線を上げる。
「続けることはできます。ただ、急いで結論を出す必要はありません」
その言葉で、自分がまた『大丈夫です』を使ったことに気づいた。
「……すみません。今日は、ここまでにしてください」
「分かりました。次回日程はこちらから連絡します」
通話を切る。
部屋が静かになる。私はしばらく椅子から立てなかった。涙は出なかった。その代わり、頭の中で同じ言葉だけが回った。
私が言った。
表では圭吾名義で構いません。私が、自分で言った。会議室を出たあと、厨房へ向かった。仕事が残っていたわけではない。午後の朝食集計はもう終わっている。明日の予約数も十八時にならなければ確定しない。それでも、気づけば冷蔵庫の前に立っていた。野菜用のケースを開け、ラベルの向きを揃える。柑橘の箱を手前へ寄せ、賞味期限の近い乳製品を前へ移す。
「水瀬さん」
呼ばれても、すぐには振り向けなかった。黒瀬さんが厨房の入口に立っていた。
「それ、今日の仕事ですか」
「違います」
自分でも分かっていた。
「じゃあ、やめましょう」
「あと少しだけ」
「その言葉、信用ないです」
十二月なら、少し笑えたと思う。今日は笑えなかった。黒瀬さんが中へ入ってきたが、私の手から何かを取り上げることはしなかった。
「聞き取り、終わったんですね」
「はい」
「何かありました?」
「ありました」
私は乳製品を一本、元の場所へ戻した。
「私、自分で消してました」
言葉にした途端、喉の奥が痛くなった。黒瀬さんは何も言わない。
「前の仕事で、表に出す名前は圭吾だけでいいって、私がメールしてたんです。私の名前を出さなくていいって」
「そうですか」
「もっと何か言わないんですか」
「何を言えばいいですか」
「……分かりません」
だから困っているのだ。
「盗られたって思ってた方が、楽でした」
黒瀬さんの表情は変わらない。
「会社が悪くて、圭吾が黙ってて、私はずっと裏でちゃんと働いてた。それなら、私が怒ればいいだけだった」
冷蔵庫の冷気が腕に当たる。
「でも、私も『名前はいりません』って言ってた。圭吾が売れれば同じだって、本気で思ってたんです」
「はい」
「それなら、私が今さら『私の仕事だった』って言うの、都合よくないですか」
初めて、黒瀬さんが少し眉を寄せた。
「それは俺が決めることじゃないです」
「……そうですよね」
「水瀬さんが、今どう思うかでしょう」
簡単な答えをくれない。
まただ。
この人はいつも、私に選ばせる。
「分からないです」
口にすると、少しだけ呼吸が楽になった。
「今は、分からない」
「なら、今日は分からないままでいいんじゃないですか」
「でも調査は進みます」
「調査は進めてもらえばいい。水瀬さんが今日中に自分を裁く必要はないでしょう」
自分を裁く。
その言葉が胸へ引っかかった。
「今回の会社発表が正しかったことになると思います?」
「思いません」
「どうして?」
「私が過去に名前を出さなくていいと言ったことと、私が今回の企画を持ち込んだかどうかは別だからです」
答えながら、ようやく自分の中で二つが分かれた。私が自分を小さくしてきたこと。会社が、していないことを私の責任として発表したこと。
同じではない。
どちらかが本当なら、もう片方が消えるわけでもない。
「じゃあ、何が苦しいんですか」
黒瀬さんが聞いた。責めるのではなく、確認するような声だった。私は少し考えた。
「私、自分ではちゃんと働いてたと思ってたんです」
「働いてたんでしょう」
「でも、働いたことを自分で無かったことみたいにしてた」
そこまで言って、やっと涙が出た。大げさに泣いたわけではない。目の奥が熱くなり、視界が少しにじんだだけだった。
「私がいらないって言った名前を、今になって欲しいって言ってる」
「欲しいんですか」
聞かれて、すぐには答えられなかった。
欲しい。
昔の肩書きが欲しいわけではない。天才料理研究家と呼ばれたいわけでもない。ただ、自分がやった仕事を、自分がやったと言いたい。
「……欲しいです」
私は言った。
「私がやった仕事の名前は、欲しい」
黒瀬さんが頷いた。
「なら、それを調査で話せばいいと思います」
「こんな話、格好悪いですよね」
「誰に対してですか」
「世間とか」
「世間は、冷蔵庫の並べ方まで見ません」
意味が分からず、私は彼を見た。
「水瀬さんが限界になると冷蔵庫を整理することも、甘いコーヒーに砂糖を二本入れることも、朝飯を抜くことも、世間は知らない」
「最後のは忘れてください」
「忘れません」
「そこだけ記憶力よすぎません?」
泣きそうだったのに、少し笑った。黒瀬さんも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「だから、世間向けに格好よく答えを作る必要はないでしょう。調べる人には、あったことを話す。自分のことは、自分で決める。それでいいんじゃないですか」
私は冷蔵庫の扉を閉めた。
「今日は、もう整理しません」
「助かります」
「仕事じゃないので」
「それを自分で言えるなら大丈夫そうですね」
「大丈夫とは言ってません」
「そうでした」
弱っているところを見られるのは、今も恥ずかしい。今も恥ずかしい。でも、この人の前なら、分からないと言っても、少しくらい泣いても、仕事ができない人間になるわけではないらしい。それを知れたことだけは、今日の中で一つだけ救いだった。
◇
二月も終わりに近づいた頃、外部レビュー側から最後の連絡が来た。ホテルの事務室でメールを開く。必要な資料の収集と主要関係者への聞き取りが一通り終わり、報告書案の作成へ入ること。公表前に、関係者へ事実関係の最終確認を行うこと。そして私には、東京で行う確認会への出席案内が届いていた。オンライン参加も可能、と書かれている。しばらく画面を見た。
東京へ行く必要は、制度上はない。ここからでも話せる。
資料も送れる。
それでも、私は返信欄へカーソルを合わせた。
「東京、行くんですか」
隣の机で資料を見ていた黒瀬さんが聞いた。
「まだ何も言ってませんけど」
「その顔は行く顔です」
「顔で決めないでくださいって、前にも言いましたよね」
「違います?」
私はメールへ視線を戻した。
「オンラインでもいいそうです」
「はい」
「でも、行きます」
「理由は?」
無実を証明してもらうため――そう答えかけて、違うと思った。それだけでは、もう足りない。
「私、自分が被害者だったことだけを話したくないです」
黒瀬さんは黙って聞いている。
「会社が間違えたことも、圭吾が黙ったことも話します。でも、私が自分の名前を消してきたことも、自分で話したい」
「はい」
「その上で、今回の発表は違うって言います」
自分の言葉が、少しずつ形になる。
「今度は、誰かに私の名前を戻してもらうだけじゃなくて、自分で言いたいんです。これは私がやった。これは私がやってないって」
黒瀬さんが頷いた。
「分かりました」
「止めないんですね」
「止める理由がないので」
「一人で行けますよ」
「まだ何も言ってません」
今度は私が黙った。
「それ、私の台詞でしたよね」
「覚えてます」
「本当に記憶力いいですね」
「仕事なので」
また、その言い方だ。私は笑って、返信欄へ文字を打った。
『東京会場での確認を希望します』
送信する前に、一度だけ読み返す。
十月、私は東京から逃げるように凪浦へ来た。今度は、自分で東京へ戻る。理由は、戻りたいからではない。自分の名前で、終わらせるためだ。




