第6話 私の仕事です
一月半ば。収録当日の朝、私は鏡の前で三度目の深呼吸をしていた。ホテルの制服ではない。番組側から「派手でなければ普段着で」と言われ、紺色のブラウスと黒いパンツを選んだ。料理研究家としてテレビに出ていた頃は、スタイリストが服を持ってきて、髪もメイクも人に整えてもらっていた。今日は全部、自分で決めた。それだけのことなのに、鏡に映る自分が少し知らない人に見えた。
机の上には、番組から事前に送られてきた質問項目と、私が持参できる資料が並んでいる。汐風館の朝食改善については、ホテル側の許可を取った記録を使える。予約人数を厨房へ共有する時刻を変えたこと。終盤の補充方法を変えたこと。客前へ出した料理の残りを記録し始めたこと。
一方、十月の盗作騒動について持ち込めるものは少ない。私用メールに残っていた担当開始の通知。公開済みの会社発表。私自身が保存していた、社外へ出して問題のない仕事の予定表。共有クラウドの版履歴はない。社内メールもない。最初の企画会議の議事録もない。
知っていることと、今ここで証明できることは違う。それが、今日いちばん怖かった。スマートフォンが震えた。
『ロビーにいます』
黒瀬さんからだった。
短い。
私はコートを羽織り、資料をバッグへ入れた。部屋を出る前に鏡をもう一度見たが、今度は深呼吸をしなかった。逃げないと決めたのは、十二月だ。今日は、その続きをするだけだった。
ロビーへ降りると、黒瀬さんはフロント横で井上さんと話していた。
「おはようございます」
「おはようございます」
私を見るなり、黒瀬さんの視線がバッグへ移る。
「資料、持ちすぎてませんか」
「必要なものだけです」
「その言葉、信用していいですか」
「仕事なら、かなり信用あるんでしょう」
十二月のやり取りを返すと、黒瀬さんは一瞬黙った。
「覚えてたんですね」
「そっちこそ、砂糖の本数を覚えてるじゃないですか」
井上さんが私たちを交互に見てから、何も聞かなかったことにして書類へ目を落とした。
「番組側とは最終確認済みです。水瀬さんが出せない資料を求めないこと、過去の件だけで終わらせずホテルの改善を扱うこと。それから、橘さん側も出演を受けたそうです」
分かっていたはずなのに、圭吾の名前を聞くと身体が少し固くなる。
「同じスタジオですか」
「はい」
「そうですか」
黒瀬さんが何か言いかけた。私は先に首を振った。
「大丈夫です、とは言いません」
「言わないんですか」
「言うと、たぶん本当に大丈夫なふりをするので」
自分で口にしてから、少しおかしくなった。
「怖いです。でも行きます」
黒瀬さんは頷いた。
「分かりました」
それだけだった。
励まさない。
代わりに答えない。今は、その方がありがたかった。
◇
地域局のスタジオは、私が以前出ていた全国放送の収録現場よりずっと小さかった。派手なセットもない。中央に丸いテーブルが置かれ、その向こうにモニターが一枚ある。番組名は『地域のこれから』。観光、商店街、農業、宿泊業などを取り上げる週一回の経済番組だという。控室で簡単なメイク直しをしてもらい、スタッフから流れを説明される。
「前半は汐風館さんの朝食改善です。現場VTRを見てから、水瀬さんと黒瀬さんにお話を伺います。そのあと橘さんにも入っていただいて、十月の件について確認できる範囲をお聞きします」
「確認できる範囲、ですよね」
「はい。断定できないことを無理に答えていただくつもりはありません」
ディレクターの女性はそう言ってから、少し間を置いた。
「ただ、会社側からは従来の発表を変える回答は来ていません」
「『私が個人で持ち込んだ企画』という?」
「現時点では、その説明です」
胸の奥が重くなる。
「分かりました」
「橘さんは、料理監修と自身の担当範囲について答えると聞いています」
「はい」
スタッフが出ていく。数分後、廊下の向こうでドアが開く音がした。聞き覚えのある声がする。身体の方が先に反応した。
圭吾。
会うのは、婚約指輪を店のテーブルへ置いた夜以来だった。控室のドアを開ける必要はない。収録まで待てばいい。そう思ったのに、水を取りに廊下へ出たところで、ちょうど向こうから歩いてきた。白いコックコートではなく、濃いグレーのジャケットを着ている。少し痩せたように見えた。疲れているのか、と一瞬だけ思う。けれど、その問いは口まで上がってこなかった。
「千晴」
圭吾が足を止めた。
「久しぶり」
「……うん」
それだけで会話が終わりそうになる。
「ホテル、続けてるんだな」
「うん」
「ネットで見た」
「そう」
「大変だったろ」
その言葉に、何を返せばいいのか分からなかった。
「圭吾も」
結局、同じようなことを返した。
「店、キャンセル出てたでしょう」
「まあな。でも今はだいぶ戻ってる」
「そっか」
店が戻っていると聞いて、ちゃんと安心した。けれど、その先に何かをしてやらなければという衝動は続かなかった。圭吾が私のバッグを見た。
「資料、持ってきたの?」
「出していいものだけ」
「千晴、全部説明しようとするなよ」
「え?」
「今ある材料で、全部決着つけるのは無理だろ」
言われた瞬間、反発が先に出かけた。けれど、言っていること自体は正しい。
「分かってる」
「ならいい」
「でも、黙るつもりもない」
圭吾が少しだけ眉を寄せた。
「僕を犯人みたいに言うなら、こっちも言うことはある」
「そんなこと言ってない」
「世間はそう取る」
「世間がどう取るかだけで話すことを決めたくない」
自分の声が思ったより落ち着いていた。圭吾は何か返そうとして、やめた。
「本番で話そう」
「うん」
すれ違う。
振り返らなかった。
胸は痛かった。
でも、以前のように足が止まるほどではなかった。
控室へ戻ると、黒瀬さんが椅子に座っていた。
「会いました?」
「廊下で」
「大丈夫ですか」
「怖いです」
今度は、すぐそう言えた。
「でも、行けます」
黒瀬さんはそれ以上聞かなかった。収録開始の声がかかる。私はバッグから資料を取り出し、スタジオへ向かった。最初に流れたのは、汐風館の朝食風景だった。焼き魚を一枚ずつ確認する赤坂さん。小鉢の数を書き込む美月さん。朝食会場で残りを見ながら追加数を決める森下さん。フロントから六時の人数を受け取る厨房。画面の中で、私は数字を書いた紙を持っていた。ナレーションが入る。
『以前は、前日と当日の宿泊変更が厨房へ届くタイミングが一定せず、経験を頼りに多めの仕込みを行っていました。現在は、前日夕方と当日朝に人数を共有。提供終盤の追加量も調整し、料理の質を落とさず廃棄を減らす取り組みを続けています』
映像が終わり、司会者の女性が私へ向いた。
「水瀬さん。インターネットでは『水瀬さんがホテルの朝食を立て直した』という書き方もされています。実際には、どうなんでしょう」
「私一人では無理です」
この質問には迷わなかった。
「私は、予約の数字と厨房の仕込みをつなぐ方法を考えました。でも魚をどう扱うかは料理長の赤坂さんが知っている。朝の現場時間は佐伯さんが知っている。会場のお客様の動きは森下さんが見ています。フロントの予約を井上さんが管理して、経理の植村さんが数字をホテル全体へつなげる。私は、その間にある数字を並べ直しているだけです」
「『だけ』ですか?」
司会者が聞き返す。私は少し考えた。
「『だけ』って言い方は、違いました」
「では?」
「並べ直すのも仕事だと思っています」
口にすると、胸の奥が少し震えた。
「料理を作る人がいて、運ぶ人がいて、予約を見る人がいて、それぞれが持っている情報をつなぐ人も必要です。私は、そこをやっています」
隣で黒瀬さんは黙っていた。司会者が次の質問へ移る。
「では、十月の件について伺います。水瀬さんは当時、会社から『個人で持ち込んだ企画』と発表されました。この点については?」
来た。
私は持参した資料へ手を伸ばした。
「まず、五月に私がこの案件へ入った時点で――」
言いながら、担当開始通知、当時のスケジュール、公開済みの仕様書をまとめて出そうとした。
「私は量産仕様と原価、工程、表示を担当していて、その前に企画が――」
「水瀬さん」
司会者が穏やかに止めた。
「確認ですが、その『前に企画が存在した』ことを示す社内資料は、今日ここで公開できますか?」
手が止まる。
「できません」
「会社側からは、現時点で企画経路に関する追加資料は提供されていません。ですので、ここで企画の起点を確定するのは難しいと思います」
分かっていた。
それでも悔しかった。頭の中には、あの日見た共有クラウドの構成も、私が途中参加だった記憶もある。でも、記憶は証拠ではない。ここで全部説明しようとすれば、証明できない部分まで言い切ることになる。
「……はい」
私は資料を一度閉じた。
司会者が言う。
「一方で、今日確認できる範囲で、ご自身の担当については説明できますか?」
その質問で、視界が少し開けた。
「できます」
私は仕様書の公開部分だけを机に置いた。
「この商品の最終仕様書に、責任者として私の名前があるのは事実です。私は量産時の分量、工程、原価、保存条件、食品表示をまとめました。だから、最終仕様について責任がないとは言いません」
「企画そのものは?」
「私が作ったとは言っていません。ただ、今日はそれを証明する資料を出せません。だから、そこは『私の記憶では違う』以上のことは言いません」
自分で言って、悔しさと同時に少しだけ楽になった。証明できないことまで背負わなくていい。でも、証明できる自分の仕事まで捨てる必要もない。司会者がモニターへ目を向けた。
「ここで橘圭吾さんにも加わっていただきます」
スタジオの横から圭吾が入ってくる。向かいの席へ座る。
近い。
十月の店のテーブルより、距離だけなら近かった。
「橘さん。水瀬さんは、最終仕様の責任を認めつつ、企画を自分で持ち込んだ認識はないと話しています。橘さんの認識はどうでしょう」
圭吾は少し間を置いた。
「千晴が途中から商品開発へ入ったことは知っています」
スタジオの空気が変わった。司会者が確認する。
「途中から、というのは、料理の基本案ができたあとですか?」
「少なくとも、僕が最初に料理の方向性を見せられた時には、千晴はその場にいませんでした」
心臓が強く打った。会社の発表と、初めて公の場で食い違った。
「では、会社が『水瀬さん個人から持ち込まれた』と発表した時、違和感は?」
圭吾の口元が硬くなる。
「ありました」
「訂正を求めましたか?」
「……しませんでした」
「なぜですか」
「僕の店にもキャンセルが出ていました。スタッフもいた。あの時は、自分の店を守ることで精一杯でした」
聞いたことのある説明だった。あの夜と同じだ。ただ、今日は私と圭吾だけのテーブルではない。
「水瀬さんは、今の話をどう受け止めますか」
司会者に聞かれる。言いたいことは山ほどあった。どうしてあの時言ってくれなかったのか。知っていたなら、なぜ私だけに任せたのか。けれど、それを全部ここでぶつけても、私が今日伝えたいこととは違う。
「圭吾が店を守りたかったことは分かります」
私は言った。
「分かるから、傷つかなかったわけではありません」
圭吾が私を見る。
「でも、私は圭吾が盗作を指示したと言いたいわけじゃないです。そこは、私には分かりません」
「千晴」
「ただ、私が途中から入ったことを知っていたのに、会社の発表を訂正しなかった。それは今日、圭吾自身が話したことです」
圭吾は否定しなかった。司会者が続ける。
「橘さんから見て、水瀬さんはどんな役割の方だったんでしょう」
「現場を回すのは得意でした」
圭吾の声は、少し慎重になっていた。
「僕が料理を作って、千晴が商品にする。原価を合わせたり、工場や店舗で再現できるようにしたり、表示をまとめたり。僕は、そういう細かいところを任せていました」
「その仕事は、橘さんの仕事の一部ですか?」
圭吾が一瞬止まった。
「共同ブランドの仕事ではあります」
曖昧な答えだった。
「共同ブランドの仕事」。その言葉に、二人で一つの名前にまとめてきた時間が重なった。今日は、そこで自分の担当まで曖昧にしたくなかった。
「共同ブランドの仕事です」
私は口を開いた。
「でも、圭吾が料理を考えた仕事を、私の仕事だとは言いません」
圭吾がこちらを見る。
「味を作るのは圭吾の仕事でした。盛り付けを決めるのも、料理の核を考えるのも。そこは圭吾の仕事です」
私は一度息を吸った。
「だから、私がやった仕事も、誰かの仕事の中に消したくありません」
スタジオが静かになる。
「百食、千食になっても同じ品質で出せるように工程を作ること。原価を合わせること。表示を確認すること。人が無理なく作れる順番にすること。それは、私の仕事でした」
声は震えていたと思う。でも、止まらなかった。
「今、汐風館でやっていることも同じです。料理を作るのは料理長です。私は、その料理が明日の朝も、その次の朝も、必要な人にきちんと届くように考える」
自分の言葉が、自分の中へ戻ってくる。
「それが、私の仕事です」
誰かを言い負かした感じはなかった。圭吾が負けたとも思わなかった。誰かの仕事を奪わず、自分がやった範囲だけを自分の名前で置けた気がした。司会者が少し間を取り、黒瀬さんへ向いた。
「黒瀬さん。最後に一つだけ。現在も盗作疑惑が完全には解消されていない水瀬さんを、なぜ汐風館は雇い続けるのでしょう」
黒瀬さんは、私を見なかった。カメラの正面を向いたまま答えた。
「十月の件の真偽は、うちが判断できることではありません」
「それでも採用した」
「展示会が中止になったあと、未提供の食材を安全に分けているのを見ました。その後、うちで三日間、厨房と数字を見てもらった。今は、ここでやった仕事を見て評価しています」
「世間の評判より、目の前の仕事を?」
「仕事の評価なので」
短い答えだった。それ以上、私の無実を代わりに主張しない。でも、今の私の仕事については迷わない。そのことが、何より心強かった。収録が終わると、照明が少し落ちた。スタッフがマイクを外しに来る。圭吾は席を立ったあと、私の前で止まった。
「言うようになったな」
「そうかな」
「ちゃんと、自分の仕事だって言ったな」
胸の奥に、小さな痛みが走る。
「たぶん、そうだった」
「……悪かった」
「何に?」
「それを、俺も当たり前にしてたこと」
謝罪は短かった。全部を許せるほどではない。でも、聞こえなかったことにする必要もない。
「今日は、それだけ受け取る」
「うん」
圭吾はそれ以上言わなかった。出口の方へ歩いていく。私は呼び止めなかった。
「水瀬さん」
今度は黒瀬さんだった。
「帰れそうですか」
「その聞き方だと、私が一人で帰れない人みたいです」
「そういう意味じゃありません」
「分かってます」
私は少し笑った。
「言えました」
「はい」
「でも、勝った感じはしません」
「勝ち負けの収録じゃないでしょう」
「そうですね」
「帰りますか」
帰る。
その言葉が、以前より自然に聞こえた。
「はい。ホテルへ」
◇
三日後、私用メールに旧会社から連絡が届いた。件名は、『商品企画経路および対外発表に関する外部レビューへのご協力依頼』。文面を一度読んだだけでは、意味が頭へ入ってこなかった。取引先から説明を求められたこと。
取締役会の判断で、外部弁護士と商品開発実務者、主要取引先の監査担当を含む検証を始めること。企画の流入経路、社内の確認手続き、炎上後の会社発表が適切だったかを調べること。そして、私にも資料提出と聞き取りへ協力してほしいこと。画面を下まで読み、もう一度最初へ戻る。ようやく手が震えた。今度は、怖さだけではなかった。机の向こうで仕事をしていた黒瀬さんが、私の顔を見る。
「どうしました」
私はノートパソコンを彼の方へ少し回した。
「調べるそうです」
「何を?」
「あの商品の企画が、どこから来たのか」
黒瀬さんは画面を読んだ。すぐに何かを祝うようなことは言わなかった。
「協力するんですか」
「します」
返事は、今度は迷わなかった。
十月からずっと、私が知っていることと、世間に証明できることの間には大きな穴があった。その穴を、ようやく誰かが正式に調べようとしている。
「怖いですけど」
「はい」
「でも、逃げません」
黒瀬さんは頷いた。私は返信画面を開く。最初の一行に、自分の名前を書いた。
『水瀬千晴です。調査に協力いたします』




