第5話 逃げるのは私だけでいい
十二月十八日の朝、私は朝食会場の入口で足を止めた。止まる理由なんて、ほんの数秒前まではなかった。森下さんから『煮物の出方だけ一度見てほしい』と言われて、厨房からレストラン『潮路』へ出ただけだった。窓の向こうには冬の海が見え、食事を終えた宿泊客がコーヒーを飲んでいる。焼き魚の皿を取る人、小さな子どもへ卵料理を分ける母親、新聞を畳む男性。ここ一か月で見慣れた、汐風館の朝だった。
「……水瀬千晴さん、ですよね?」
声をかけてきたのは、二十代くらいの女性だった。スマートフォンを片手に持ち、驚いた顔で私を見ている。隣にいた男性も、女性の視線を追って私の顔を確かめた。身体が先に固まった。一瞬だけ、十月の発表会場が戻ってくる。向けられたスマートフォン。『盗作なんですか』という声。何を盗んだことになっているのか分からないまま、何十もの目に見られていたあの時間。
「……はい」
否定しても仕方がない。顔まで知られているのだから。女性は悪意のある顔をしていなかった。むしろ、どう声を続けるか迷っているようだった。
「ここで働いてるんですか?」
「はい。今は、こちらで働いています」
「料理を?」
「料理というより、朝食の仕入れや、仕込みの数を考える仕事です」
言ってから、自分でも少し驚いた。
「料理研究家」でも「ホテルの者」でもなく、今の自分が何をしているのかを、短い言葉でそのまま答えられた。
「そうなんですね」
女性はそれ以上、盗作のことを聞かなかった。
「朝ごはん、おいしかったです。魚も」
「ありがとうございます。料理長に伝えます」
「あ、写真って……」
女性がスマートフォンを少し持ち上げた。胸がひやりとした。
「すみません。仕事中なので、一緒に撮るのは」
「あ、違います。もう撮っちゃって……会場の写真に、たぶん水瀬さんが入ってて」
女性が画面を見せる。窓際から朝食台を撮った写真だった。手前には料理が並び、奥で私は森下さんと話している。顔は小さいが、知っている人なら分かる程度には写っていた。
「これ、SNSに上げても大丈夫ですか?」
聞いてくれただけ、ありがたいと思った。ホテルの朝食会場で、宿泊客が自分の食事を撮る。それを止める理由はない。私だけを大きく撮った写真でもなかった。
「ホテルのお食事の写真としてなら、私からは何も言えません。ただ、ほかのお客様のお顔が写っていたら、そこだけ気をつけてもらえると」
「分かりました」
女性は素直に頷いた。それで終わると思った。森下さんに呼ばれ、私は煮物の残りを確認して厨房へ戻った。九時以降の追加は四つずつ。今日も不足はなく、最後の追加をしなくても終えられそうだった。数字を見れば、いつもの朝だった。だから私は、さっきのことを考えないようにした。考えなくても、昼前には向こうから戻ってきた。
「水瀬さん、ちょっといいですか」
フロントから来た井上さんの表情を見た瞬間、何の話か分かった。
事務室へ入ると、黒瀬さんがパソコンの画面をこちらへ向けた。
朝食の写真。
今朝の女性が投稿したものだった。
『汐風館の朝ごはん最高だった。びっくりしたのは、あの水瀬千晴さんが働いてたこと。普通にスタッフさんみたいに朝食見てた』
文章自体に悪意はない。けれど、その投稿を引用している側は違った。
『盗作で逃げた人、地方ホテルにいたんだ』
『雇う方もどうかしてる』
『支配人と何かあるんじゃない?』
『料理パクった次はホテル再生の手柄でも取るの?』
画面を下へ動かすたび、言葉が増えていく。私は最後まで読まなかった。
「投稿した方は悪くありません」
最初に出たのは、その言葉だった。黒瀬さんが私を見る。
「会場の料理を撮っただけです。私に気づいたから書いただけで、盗作だとも何とも書いてない」
「分かっています」
「削除をお願いするのは違うと思います」
「お願いするつもりもありません」
井上さんが手元のメモを見た。
「問題は、この投稿からホテル名まで一気に広がったことです。さっきから電話が増えてます。普通の問い合わせもありますけど……そうじゃないのも」
「予約は?」
「キャンセルが出始めています。ただ、全部がこれのせいとはまだ言えません」
そこを断定しないところが井上さんらしかった。私は自分の手を見た。朝食の残数を書くために持っていたペンの跡が、人差し指に薄く残っている。
ホテルへ来てから、一か月以上。数字を揃えた。厨房と会場の記録をつないだ。魚の仕入れを見た。赤坂さんと何度も言い合い、美月さんに止められ、森下さんと補充のやり方を変えた。その全部が、たった一枚の写真で別の意味にされていく。
「私、今日は客前に出ない方がいいですよね」
「今日はそうしてください」
黒瀬さんは即答した。胸の奥が少し沈んだ。けれど、続いた言葉は違った。
「あなたを隠すためじゃありません。今は、わざと写真を撮りに来る人が出る可能性がある。宿泊客とスタッフを巻き込みたくないので、しばらく表は俺と井上さんで判断します」
「……はい」
「厨房と事務の仕事は普通にしてください」
「普通に?」
「普通に」
できる気がしなかった。それでも私は頷いた。昼を過ぎると、口コミサイトにも低い評価がつき始めた。泊まった形跡のない文章ばかりだった。
『盗作騒動の料理研究家を雇っているホテル』
『経営者の感覚を疑う』
『朝食が売りらしいけど、その朝食も誰かの真似では?』
最後の一文を見たところで、私は画面を閉じた。そこまで言われると、私ではなく赤坂さんたちの仕事を汚されている。胸の奥に熱いものが湧いた。
怒りだった。
自分のことを何と言われても平気なわけではない。けれど、今朝の魚を焼いたのは赤坂さんたちだ。小鉢を何度も出し直したのは美月さんで、客の様子を見ながら追加数を決めたのは森下さんだ。私が全部作ったわけでも、私一人で変えたわけでもない。それなのに、私の名前があるだけで、ホテルの仕事まで盗作の延長にされる。
「水瀬さん」
美月さんに呼ばれ、顔を上げた。いつの間にか厨房の入口に立っていた。
「これ、今日の朝の記録です」
いつも通りの紙を渡される。用意数、客前へ出した数、残数。
「……ありがとう」
「ネット、見ました?」
「少しだけ」
「私、見ない方がいいって料理長に言われました」
「それがいいです」
「でも、ちょっと見ました」
「見たんですね」
「腹立ったので閉じました」
美月さんはそれだけ言って、冷蔵庫へ戻ろうとした。
「美月さん」
「はい」
「迷惑かけて、ごめんなさい」
言うと、美月さんの眉が寄った。
「何がですか?」
「ホテルの口コミまで荒れてるから」
「それ、水瀬さんが書いたんですか」
「違うけど」
「じゃあ、謝られても困ります」
言い方が思ったより強かった。
「でも、私がいなければ」
「その言い方、前に料理長が言ってた『数字だけで分かった顔するな』と同じじゃないですか?」
返す言葉が止まった。
「私たちが迷惑かどうか、水瀬さんが勝手に決めるんですか」
「そういうつもりじゃ」
「私は、朝の記録めんどくさいって今も思ってます」
「そこはまだなんですね」
「でも、前よりゴミが軽い日は嬉しいです。だから、その仕事までなくなる方が私は嫌です」
美月さんはそう言って、今度こそ作業へ戻った。手元の記録用紙が、急に重く感じた。謝れば済むと思っていたわけではない。でも、またやっている。相手の気持ちを聞く前に、自分が消えた方がいいと決めかけている。
◇
翌日、ホテルの代表番号へかかってきた電話を、私は偶然聞いた。フロント横の事務スペースで資料を受け取っていたときだった。井上さんが受話器を取り、いつもの穏やかな声で応対している。
「はい、ホテル汐風館でございます」
最初は普通だった。ところが数秒後、井上さんの表情が変わった。
「申し訳ございませんが、従業員個人に関するお問い合わせにはお答えしておりません」
私のことだ、とすぐ分かった。
「当館の朝食および食品管理につきましては、料理長を含む各責任者の管理下で運営しております。……はい。ご意見として承ります」
受話器の向こうから、こちらまで声が漏れてくる。内容までは聞き取れない。
けれど、長い。
井上さんは一度も声を荒らげず、最後まで応対して電話を切った。
「すみません」
また、口から出た。井上さんが私を見る。
「水瀬さん」
「はい」
「昨日も美月さんに謝ったでしょう」
「何で知ってるんですか」
「厨房は狭いですから」
情報が早すぎる。
「電話は仕事です。嫌がらせならこちらで記録して対応します。あなたが受話器の前に立つ必要はありません」
「でも」
「でも、は黒瀬さんに言ってください」
そう言われた直後、当の本人が事務室から出てきた。
「呼びました?」
「ちょうどいいところに」
井上さんが私を見る。
「お願いします」
「何をですか」
「この人の『私が辞めれば』を止める係です」
「井上さん」
黒瀬さんの目が私に移った。
「言ったんですか」
「まだ言ってません」
「言う顔をしてます」
「顔で決めないでください」
「じゃあ、違います?」
違うと言えなかった。黒瀬さんは少しだけ息を吐いた。
「事務室へ」
言い方は静かだったが、逃げられる雰囲気ではなかった。
ドアが閉まる。
机を挟んで座ると、私は先に言った。
「辞めた方がいいと思います」
「理由は」
「見てるでしょう」
「見ています。でも、あなたの言葉で聞きます」
私は膝の上で手を組んだ。
「私がいる限り、ホテル名と盗作の話が一緒に出ます。口コミも荒らされる。電話も来る。予約をやめる人だっているかもしれない」
「はい」
「私一人辞めれば、少なくともここへの理由は減ります」
「それで全部収まると思いますか」
「全部じゃなくても」
「あなたがここにいた事実は残ります。辞めたあとも『問題があって辞めさせた』と書く人はいるでしょう」
分かっている。
それでも、何もしないよりはましだと思った。
「だったら、せめてこれ以上は」
「水瀬さん」
黒瀬さんが遮った。
「ここで一つ確認します」
「何をですか」
「汐風館で、仕入れの数字を偽りましたか」
「してません」
「廃棄記録を都合よく変えた?」
「してません」
「衛生上使えない食材を、原価が惜しいから使えと言った?」
「言うわけないでしょう」
「厨房の仕事を、自分一人の手柄だと外へ話した?」
「してません」
「じゃあ、うちであなたを辞めさせる理由はない」
言葉に詰まった。
「昔のことは」
「俺にはまだ分からない」
即答だった。
第1話のサービス通路と同じ答え。
この人は、今でも私の無実を無条件には信じていない。それなのに、前よりそのことが怖くなかった。
「じゃあ、どうして私を残すんですか」
「ここでの仕事を見たからです」
「それだけ?」
「十分でしょう」
黒瀬さんは私から目を逸らさなかった。
「世間が十月の一枚の仕様書を見て何を言うかは、俺には変えられません。でも、ここであなたが何をしてきたかは、俺が見ています」
胸の奥が、ゆっくり熱くなった。信じています、とは言わない。大丈夫だ、とも言わない。ただ、見たと言う。最初からこの人は、それしか言っていない。
「ホテルへ迷惑をかけたくないんです」
「それは分かります」
「なら」
「だから、ホテルに残るか辞めるかまで、ホテルのためだと言って勝手に決めないでください」
声は強くないのに、逃げ道がなかった。
「赤坂さんも、美月さんも、井上さんも、森下さんも、それぞれ判断できます。俺もできます。あなた一人で全員の迷惑を決めないでほしい」
昨日、美月さんに言われた言葉と同じだった。相手の気持ちを聞く前に、自分が消える結論を出す。それは、周りを思いやっているようで、実際には周りの選択まで取っているのかもしれない。
「もし、私が残りたいって言ったら?」
「残ってください」
「即答ですね」
「雇用継続の判断は、もうしてますから」
「そうじゃなくて」
言いかけて、止めた。何を聞こうとしたのか、自分でも分かったからだ。仕事以外でも、いてほしいのか。そんなことを聞く段階ではない。黒瀬さんも追及しなかった。
「辞めるかどうかは、水瀬さんが決めてください。ただし『みんなのために消えます』は、理由にしないでください」
私はしばらく黙った。辞めれば、楽になる部分はある。宿泊客に見られることを気にしなくていい。ホテルへの悪意を見るたび、自分のせいだと思わなくていい。
東京へ戻る場所があるわけではない。それでも、逃げることはできる。逃げることを『迷惑をかけない選択』と呼べば、また自分だけで周囲の答えを決めることになる。
「……残りたいです」
声にすると、思ったより怖かった。
「ここで、まだやりたい仕事があります」
黒瀬さんが頷く。
「分かりました」
「本当に、いいんですか」
「今、俺が何を話してたと思ってるんですか」
「確認です」
「いいです」
その一言で、肩の力が少し抜けた。守ってもらった、という感じとは少し違った。逃げ道を塞がれたわけでもない。辞める自由は残したまま、残る理由を私自身に返された。それが、ありがたかった。
◇
三日後の午後、黒瀬さんに呼ばれて事務室へ入ると、井上さんもいた。机の上には、一枚の企画書が置かれている。
「地域経済番組から取材の依頼が来ました」
黒瀬さんが言った。
「今回の炎上について?」
「もともとは、汐風館の朝食改善を取り上げたいという話でした。数字がどう変わったか、地域の仕入れを残しながら何を変えたか。先月から打診は来ていました」
「初めて聞きました」
「まだ受けるか決めてなかったので」
「また説明が遅い」
「そこは認めます」
珍しく素直だった。井上さんが企画書を私の方へ向ける。
「今回の再炎上を受けて、番組側が内容を変更したいそうです。ホテルの改善を取材する以上、あなたの過去の件を完全に無視するのも不自然だと」
「……私に、盗作の説明をしろってことですか」
「説明の機会を設けたい、という言い方です」
「会社は?」
「旧会社と橘さん側にも取材を申し込むそうです」
圭吾の名前を聞いた瞬間、指先が冷たくなった。あの店で指輪を外して以来、直接話していない。黒瀬さんは、私の返事を待っている。
「断ってもいいんですよね」
「もちろん」
「ホテルだけ取材を受けることは?」
「できます。ただ、その場合でも番組は今回の件に触れるでしょう」
逃げても、名前は残る。さっき自分で選んだばかりだった。
ここに残ると。
なら、ホテルが何をしてきたかまで、私の過去に飲み込ませたくない。私は企画書の表紙へ目を落とした。
「私が出たら、ホテルの朝食の話もちゃんとできますか」
「番組側の条件では、そのための取材です」
「赤坂さんたちの名前も出せます?」
「希望すれば」
「私一人が立て直したみたいにはしたくないです」
「そこは俺も同じです」
私は一度、息を吐いた。
「受けます」
井上さんが少し驚いた顔をした。黒瀬さんは表情を変えない。
「本当に?」
「確認ですか?」
「はい」
「受けます」
もう一度言う。
「ただし、私はまだ昔の件を証明できません。社内資料も勝手には出せない。それでも話せる範囲なら」
「その条件は先方にも伝えます」
黒瀬さんが企画書を閉じた。怖くないわけではない。圭吾と同じ場所に立つことになるかもしれない。また、知らない人たちに顔を見られる。それでも、今回は一つだけ前と違う。消えるためではなく、残るために話す。私はその違いを忘れないように、企画書の打ち合わせ日を自分の手帳へ書き込んだ。




