↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
炎上した料理研究家は、海辺のホテルで朝食を焼く  作者: 芦名 雅


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/10

第5話 逃げるのは私だけでいい

 十二月十八日の朝、私は朝食会場の入口で足を止めた。止まる理由なんて、ほんの数秒前まではなかった。森下さんから『煮物の出方だけ一度見てほしい』と言われて、厨房からレストラン『潮路』へ出ただけだった。窓の向こうには冬の海が見え、食事を終えた宿泊客がコーヒーを飲んでいる。焼き魚の皿を取る人、小さな子どもへ卵料理を分ける母親、新聞を畳む男性。ここ一か月で見慣れた、汐風館の朝だった。


「……水瀬千晴さん、ですよね?」


 声をかけてきたのは、二十代くらいの女性だった。スマートフォンを片手に持ち、驚いた顔で私を見ている。隣にいた男性も、女性の視線を追って私の顔を確かめた。身体が先に固まった。一瞬だけ、十月の発表会場が戻ってくる。向けられたスマートフォン。『盗作なんですか』という声。何を盗んだことになっているのか分からないまま、何十もの目に見られていたあの時間。


「……はい」


 否定しても仕方がない。顔まで知られているのだから。女性は悪意のある顔をしていなかった。むしろ、どう声を続けるか迷っているようだった。


「ここで働いてるんですか?」


「はい。今は、こちらで働いています」


「料理を?」


「料理というより、朝食の仕入れや、仕込みの数を考える仕事です」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 「料理研究家」でも「ホテルの者」でもなく、今の自分が何をしているのかを、短い言葉でそのまま答えられた。


「そうなんですね」


 女性はそれ以上、盗作のことを聞かなかった。


「朝ごはん、おいしかったです。魚も」


「ありがとうございます。料理長に伝えます」


「あ、写真って……」


 女性がスマートフォンを少し持ち上げた。胸がひやりとした。


「すみません。仕事中なので、一緒に撮るのは」


「あ、違います。もう撮っちゃって……会場の写真に、たぶん水瀬さんが入ってて」


 女性が画面を見せる。窓際から朝食台を撮った写真だった。手前には料理が並び、奥で私は森下さんと話している。顔は小さいが、知っている人なら分かる程度には写っていた。


「これ、SNSに上げても大丈夫ですか?」


 聞いてくれただけ、ありがたいと思った。ホテルの朝食会場で、宿泊客が自分の食事を撮る。それを止める理由はない。私だけを大きく撮った写真でもなかった。


「ホテルのお食事の写真としてなら、私からは何も言えません。ただ、ほかのお客様のお顔が写っていたら、そこだけ気をつけてもらえると」


「分かりました」


 女性は素直に頷いた。それで終わると思った。森下さんに呼ばれ、私は煮物の残りを確認して厨房へ戻った。九時以降の追加は四つずつ。今日も不足はなく、最後の追加をしなくても終えられそうだった。数字を見れば、いつもの朝だった。だから私は、さっきのことを考えないようにした。考えなくても、昼前には向こうから戻ってきた。


「水瀬さん、ちょっといいですか」


 フロントから来た井上さんの表情を見た瞬間、何の話か分かった。


 事務室へ入ると、黒瀬さんがパソコンの画面をこちらへ向けた。


 朝食の写真。


 今朝の女性が投稿したものだった。


『汐風館の朝ごはん最高だった。びっくりしたのは、あの水瀬千晴さんが働いてたこと。普通にスタッフさんみたいに朝食見てた』


 文章自体に悪意はない。けれど、その投稿を引用している側は違った。


『盗作で逃げた人、地方ホテルにいたんだ』


『雇う方もどうかしてる』


『支配人と何かあるんじゃない?』


『料理パクった次はホテル再生の手柄でも取るの?』


 画面を下へ動かすたび、言葉が増えていく。私は最後まで読まなかった。


「投稿した方は悪くありません」


 最初に出たのは、その言葉だった。黒瀬さんが私を見る。


「会場の料理を撮っただけです。私に気づいたから書いただけで、盗作だとも何とも書いてない」


「分かっています」


「削除をお願いするのは違うと思います」


「お願いするつもりもありません」


 井上さんが手元のメモを見た。


「問題は、この投稿からホテル名まで一気に広がったことです。さっきから電話が増えてます。普通の問い合わせもありますけど……そうじゃないのも」


「予約は?」


「キャンセルが出始めています。ただ、全部がこれのせいとはまだ言えません」


 そこを断定しないところが井上さんらしかった。私は自分の手を見た。朝食の残数を書くために持っていたペンの跡が、人差し指に薄く残っている。


 ホテルへ来てから、一か月以上。数字を揃えた。厨房と会場の記録をつないだ。魚の仕入れを見た。赤坂さんと何度も言い合い、美月さんに止められ、森下さんと補充のやり方を変えた。その全部が、たった一枚の写真で別の意味にされていく。


「私、今日は客前に出ない方がいいですよね」


「今日はそうしてください」


 黒瀬さんは即答した。胸の奥が少し沈んだ。けれど、続いた言葉は違った。


「あなたを隠すためじゃありません。今は、わざと写真を撮りに来る人が出る可能性がある。宿泊客とスタッフを巻き込みたくないので、しばらく表は俺と井上さんで判断します」


「……はい」


「厨房と事務の仕事は普通にしてください」


「普通に?」


「普通に」


 できる気がしなかった。それでも私は頷いた。昼を過ぎると、口コミサイトにも低い評価がつき始めた。泊まった形跡のない文章ばかりだった。


『盗作騒動の料理研究家を雇っているホテル』


『経営者の感覚を疑う』


『朝食が売りらしいけど、その朝食も誰かの真似では?』


 最後の一文を見たところで、私は画面を閉じた。そこまで言われると、私ではなく赤坂さんたちの仕事を汚されている。胸の奥に熱いものが湧いた。


 怒りだった。


 自分のことを何と言われても平気なわけではない。けれど、今朝の魚を焼いたのは赤坂さんたちだ。小鉢を何度も出し直したのは美月さんで、客の様子を見ながら追加数を決めたのは森下さんだ。私が全部作ったわけでも、私一人で変えたわけでもない。それなのに、私の名前があるだけで、ホテルの仕事まで盗作の延長にされる。


「水瀬さん」


 美月さんに呼ばれ、顔を上げた。いつの間にか厨房の入口に立っていた。


「これ、今日の朝の記録です」


 いつも通りの紙を渡される。用意数、客前へ出した数、残数。


「……ありがとう」


「ネット、見ました?」


「少しだけ」


「私、見ない方がいいって料理長に言われました」


「それがいいです」


「でも、ちょっと見ました」


「見たんですね」


「腹立ったので閉じました」


 美月さんはそれだけ言って、冷蔵庫へ戻ろうとした。


「美月さん」


「はい」


「迷惑かけて、ごめんなさい」


 言うと、美月さんの眉が寄った。


「何がですか?」


「ホテルの口コミまで荒れてるから」


「それ、水瀬さんが書いたんですか」


「違うけど」


「じゃあ、謝られても困ります」


 言い方が思ったより強かった。


「でも、私がいなければ」


「その言い方、前に料理長が言ってた『数字だけで分かった顔するな』と同じじゃないですか?」


 返す言葉が止まった。


「私たちが迷惑かどうか、水瀬さんが勝手に決めるんですか」


「そういうつもりじゃ」


「私は、朝の記録めんどくさいって今も思ってます」


「そこはまだなんですね」


「でも、前よりゴミが軽い日は嬉しいです。だから、その仕事までなくなる方が私は嫌です」


 美月さんはそう言って、今度こそ作業へ戻った。手元の記録用紙が、急に重く感じた。謝れば済むと思っていたわけではない。でも、またやっている。相手の気持ちを聞く前に、自分が消えた方がいいと決めかけている。


◇


 翌日、ホテルの代表番号へかかってきた電話を、私は偶然聞いた。フロント横の事務スペースで資料を受け取っていたときだった。井上さんが受話器を取り、いつもの穏やかな声で応対している。


「はい、ホテル汐風館でございます」


 最初は普通だった。ところが数秒後、井上さんの表情が変わった。


「申し訳ございませんが、従業員個人に関するお問い合わせにはお答えしておりません」


 私のことだ、とすぐ分かった。


「当館の朝食および食品管理につきましては、料理長を含む各責任者の管理下で運営しております。……はい。ご意見として承ります」


 受話器の向こうから、こちらまで声が漏れてくる。内容までは聞き取れない。


 けれど、長い。


 井上さんは一度も声を荒らげず、最後まで応対して電話を切った。


「すみません」


 また、口から出た。井上さんが私を見る。


「水瀬さん」


「はい」


「昨日も美月さんに謝ったでしょう」


「何で知ってるんですか」


「厨房は狭いですから」


 情報が早すぎる。


「電話は仕事です。嫌がらせならこちらで記録して対応します。あなたが受話器の前に立つ必要はありません」


「でも」


「でも、は黒瀬さんに言ってください」


 そう言われた直後、当の本人が事務室から出てきた。


「呼びました?」


「ちょうどいいところに」


 井上さんが私を見る。


「お願いします」


「何をですか」


「この人の『私が辞めれば』を止める係です」


「井上さん」


 黒瀬さんの目が私に移った。


「言ったんですか」


「まだ言ってません」


「言う顔をしてます」


「顔で決めないでください」


「じゃあ、違います?」


 違うと言えなかった。黒瀬さんは少しだけ息を吐いた。


「事務室へ」


 言い方は静かだったが、逃げられる雰囲気ではなかった。


 ドアが閉まる。


 机を挟んで座ると、私は先に言った。


「辞めた方がいいと思います」


「理由は」


「見てるでしょう」


「見ています。でも、あなたの言葉で聞きます」


 私は膝の上で手を組んだ。


「私がいる限り、ホテル名と盗作の話が一緒に出ます。口コミも荒らされる。電話も来る。予約をやめる人だっているかもしれない」


「はい」


「私一人辞めれば、少なくともここへの理由は減ります」


「それで全部収まると思いますか」


「全部じゃなくても」


「あなたがここにいた事実は残ります。辞めたあとも『問題があって辞めさせた』と書く人はいるでしょう」


 分かっている。


 それでも、何もしないよりはましだと思った。


「だったら、せめてこれ以上は」


「水瀬さん」


 黒瀬さんが遮った。


「ここで一つ確認します」


「何をですか」


「汐風館で、仕入れの数字を偽りましたか」


「してません」


「廃棄記録を都合よく変えた?」


「してません」


「衛生上使えない食材を、原価が惜しいから使えと言った?」


「言うわけないでしょう」


「厨房の仕事を、自分一人の手柄だと外へ話した?」


「してません」


「じゃあ、うちであなたを辞めさせる理由はない」


 言葉に詰まった。


「昔のことは」


「俺にはまだ分からない」


 即答だった。


 第1話のサービス通路と同じ答え。


 この人は、今でも私の無実を無条件には信じていない。それなのに、前よりそのことが怖くなかった。


「じゃあ、どうして私を残すんですか」


「ここでの仕事を見たからです」


「それだけ?」


「十分でしょう」


 黒瀬さんは私から目を逸らさなかった。


「世間が十月の一枚の仕様書を見て何を言うかは、俺には変えられません。でも、ここであなたが何をしてきたかは、俺が見ています」


 胸の奥が、ゆっくり熱くなった。信じています、とは言わない。大丈夫だ、とも言わない。ただ、見たと言う。最初からこの人は、それしか言っていない。


「ホテルへ迷惑をかけたくないんです」


「それは分かります」


「なら」


「だから、ホテルに残るか辞めるかまで、ホテルのためだと言って勝手に決めないでください」


 声は強くないのに、逃げ道がなかった。


「赤坂さんも、美月さんも、井上さんも、森下さんも、それぞれ判断できます。俺もできます。あなた一人で全員の迷惑を決めないでほしい」


 昨日、美月さんに言われた言葉と同じだった。相手の気持ちを聞く前に、自分が消える結論を出す。それは、周りを思いやっているようで、実際には周りの選択まで取っているのかもしれない。


「もし、私が残りたいって言ったら?」


「残ってください」


「即答ですね」


「雇用継続の判断は、もうしてますから」


「そうじゃなくて」


 言いかけて、止めた。何を聞こうとしたのか、自分でも分かったからだ。仕事以外でも、いてほしいのか。そんなことを聞く段階ではない。黒瀬さんも追及しなかった。


「辞めるかどうかは、水瀬さんが決めてください。ただし『みんなのために消えます』は、理由にしないでください」


 私はしばらく黙った。辞めれば、楽になる部分はある。宿泊客に見られることを気にしなくていい。ホテルへの悪意を見るたび、自分のせいだと思わなくていい。


 東京へ戻る場所があるわけではない。それでも、逃げることはできる。逃げることを『迷惑をかけない選択』と呼べば、また自分だけで周囲の答えを決めることになる。


「……残りたいです」


 声にすると、思ったより怖かった。


「ここで、まだやりたい仕事があります」


 黒瀬さんが頷く。


「分かりました」


「本当に、いいんですか」


「今、俺が何を話してたと思ってるんですか」


「確認です」


「いいです」


 その一言で、肩の力が少し抜けた。守ってもらった、という感じとは少し違った。逃げ道を塞がれたわけでもない。辞める自由は残したまま、残る理由を私自身に返された。それが、ありがたかった。


◇


 三日後の午後、黒瀬さんに呼ばれて事務室へ入ると、井上さんもいた。机の上には、一枚の企画書が置かれている。


「地域経済番組から取材の依頼が来ました」


 黒瀬さんが言った。


「今回の炎上について?」


「もともとは、汐風館の朝食改善を取り上げたいという話でした。数字がどう変わったか、地域の仕入れを残しながら何を変えたか。先月から打診は来ていました」


「初めて聞きました」


「まだ受けるか決めてなかったので」


「また説明が遅い」


「そこは認めます」


 珍しく素直だった。井上さんが企画書を私の方へ向ける。


「今回の再炎上を受けて、番組側が内容を変更したいそうです。ホテルの改善を取材する以上、あなたの過去の件を完全に無視するのも不自然だと」


「……私に、盗作の説明をしろってことですか」


「説明の機会を設けたい、という言い方です」


「会社は?」


「旧会社と橘さん側にも取材を申し込むそうです」


 圭吾の名前を聞いた瞬間、指先が冷たくなった。あの店で指輪を外して以来、直接話していない。黒瀬さんは、私の返事を待っている。


「断ってもいいんですよね」


「もちろん」


「ホテルだけ取材を受けることは?」


「できます。ただ、その場合でも番組は今回の件に触れるでしょう」


 逃げても、名前は残る。さっき自分で選んだばかりだった。


 ここに残ると。


 なら、ホテルが何をしてきたかまで、私の過去に飲み込ませたくない。私は企画書の表紙へ目を落とした。


「私が出たら、ホテルの朝食の話もちゃんとできますか」


「番組側の条件では、そのための取材です」


「赤坂さんたちの名前も出せます?」


「希望すれば」


「私一人が立て直したみたいにはしたくないです」


「そこは俺も同じです」


 私は一度、息を吐いた。


「受けます」


 井上さんが少し驚いた顔をした。黒瀬さんは表情を変えない。


「本当に?」


「確認ですか?」


「はい」


「受けます」


 もう一度言う。


「ただし、私はまだ昔の件を証明できません。社内資料も勝手には出せない。それでも話せる範囲なら」


「その条件は先方にも伝えます」


 黒瀬さんが企画書を閉じた。怖くないわけではない。圭吾と同じ場所に立つことになるかもしれない。また、知らない人たちに顔を見られる。それでも、今回は一つだけ前と違う。消えるためではなく、残るために話す。私はその違いを忘れないように、企画書の打ち合わせ日を自分の手帳へ書き込んだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。