第4話 砂糖は二つ
十二月に入って最初の週、朝食会場から戻ってきた美月さんは、廃棄用の容器を持ち上げたまま首を傾げた。
「軽い」
私は反射的に時計を見た。9:38。朝食営業は終わっている。レストラン側では森下さんたちが最後の食器を下げ、厨房では赤坂さんが昼の仕込みへ切り替えるところだった。
「中身、見てもいいですか」
「見ます?」
「そのために二週間ずっと数えてきたので」
美月さんが容器を作業台へ置く。中に残っていたのは、客前へ出したあと戻せなくなった小鉢が二つと、少量の卵料理、果物の切れ端だった。二週間前なら、同じくらいの宿泊人数の日に小鉢だけで五つ、六つと残っていた。
今日は朝六時の最終見込みが六十二人、実際に朝食を取ったのは六十四人。厨房側は最初から全部を並べず、終盤の補充量だけを少なくした。八個まとめて出していた煮物を、九時を過ぎたら四個ずつ。会場側から追加の声が来たら、残り時間と客数を見てもう一度出す。大げさな改革ではない。
紙一枚に数字を書き、出す数を少し変えただけだ。
「足りなかった料理は?」
私が聞くと、美月さんは引き継ぎノートをめくった。
「焼き魚は問題なし。卵も最後までありました。煮物は九時十五分に二個追加。果物は残り三皿で終了」
「お客様から『ない』って言われたものは?」
「今日はゼロです」
その言葉を聞いて、ようやく息を吐いた。
「嬉しそうだな」
背後から赤坂さんの声がした。
「嬉しいですよ」
「一日うまくいっただけだぞ」
「分かってます」
「先週は団体の朝食時間が急に変わって、卵を追加で十二出しただろ」
「それも記録してあります」
「その前は家族連れが増えて牛乳が足りなくなりかけた」
「それも」
「じゃあ、まだ喜ぶな」
厳しい言い方なのに、赤坂さんは廃棄容器を一度覗き込んでから昼の仕込みへ戻っていった。美月さんが小声で言う。
「あれ、たぶん料理長も嬉しいですよ」
「そう見えます?」
「見えないです」
「ですよね」
二人で笑った。
二週間の記録を始めてから、数字だけでなく会話も少し変わった。十八時になると、井上さんかフロントのスタッフが翌朝の人数を書いた紙を厨房へ持ってくる。六時には変更分だけが更新される。美月さんたちは、何食用意し、何食を客前へ出し、何食が残ったかを必要な料理だけ書く。
最初の数日は、「こんなの毎日書くんですか」と何度も言われた。私も何度も「二週間だけです」と答えた。結果として、続けることになった項目もあれば、意味が薄くてやめた項目もある。全部を管理すればいいわけではない。必要な数字だけが残る方が、仕事は回る。
それを理解するまで、私はずいぶん遠回りした気がした。
「水瀬さん」
厨房の入口から黒瀬さんが呼んだ。
「少し時間ありますか」
「昼までなら」
「十分です。上着を持ってきてください」
「どこへ行くんですか」
「港」
「港?」
「市場も見ます」
私が聞き返すより先に、赤坂さんが包丁を動かしたまま言った。
「行ってこい。数字だけ見て魚の値段が高いって言われちゃ困る」
「もう言いません」
「口ではな」
「信用ないですね」
「一個しか信用してねえって言っただろ」
「あれから増えてないんですか」
「二個くらいにはなった」
増えていた。
それだけで少し嬉しい自分が、単純だと思う。着替えてロビーへ出ると、黒瀬さんはコートのポケットへ車の鍵を入れたところだった。
「車ですか」
「歩くと二十分以上かかります」
「それくらいなら歩けます」
「帰りに仕入先を二か所回るので無理です」
「先に言ってください」
「今、言いました」
「そういう意味じゃないです」
相変わらず説明が一拍足りない。けれど、私も最近はそれに少し慣れてきた。ホテルの裏手に停めてあった車は、黒い高級車ではなく、荷物も積める古いワゴンだった。助手席に乗ると、後部座席には宿泊プランのパンフレットと、業者から受け取ったらしい段ボールが一つ置かれている。
「総支配人の車って、もっと立派なのかと思ってました」
「これはホテルの車です」
「私用車は立派なんですか」
「普通です」
「普通って、一番分からない答えですよね」
「必要なら今度見せます」
言われてから、私の方が返事に困った。
「……別に、そこまで興味があるわけじゃないです」
「聞かれたので」
「そうでした」
車がホテルを出る。海沿いの道を走るのは、凪浦へ来た日以来だった。初日は窓の向こうを見る余裕がなかった。今日は冬の手前の海が薄い青に見え、港へ近づくにつれて道路沿いに網や発泡スチロールの箱が増えていく。
「市場は毎日来るんですか」
「俺は毎日じゃないです。赤坂さんか仕入れ担当が来ることの方が多い」
「今日はどうして黒瀬さんが?」
「契約の更新前だからです。朝食だけじゃなく、夕食分も含めて話を聞きます」
「私が一緒なのは?」
「数字を見るなら、その数字がどこから来ているか見た方がいいでしょう」
それだけの理由らしい。でも、その理由で十分だった。港の市場へ着くと、潮の匂いが急に濃くなった。建物の中では、氷を敷いた箱が次々と動かされている。大きな魚だけでなく、同じ種類でも長さや太さがばらばらなものが並び、ホテルの厨房で見た朝食用の切り身とはまるで印象が違った。赤坂さんから聞いていた通り、朝食に使う魚は、必ずしも一番形の整ったものではない。市場の担当者が、箱の中から二尾を持ち上げた。
「こっちは夕食向き。こっちは朝に回しやすいですね。味は変わらんけど、大きさが揃わないから店頭じゃ扱いにくい」
「ホテルでは、朝食側で受けるんですね」
「そう。赤坂さんが昔からそうしてくれてる」
「毎週、同じ量が入るわけではない?」
「海次第です。昨日まで時化てたら、今日の数字なんて簡単に変わる」
私はノートを出しかけて、やめた。
まず聞く。
「価格が上がるときって、どれくらい前に分かります?」
「前の日に分かりゃいい方だね。魚によっては朝来てから」
「ホテル側の発注を細かく固定しすぎると、逆に困る?」
「品を固定されるとね。量で相談してもらえるなら合わせやすい」
黒瀬さんが隣で聞いていた。
「来月から、朝食側の必要量を少し細かく見る予定です。ただ、単純に取る量を減らすつもりではありません」
「赤坂さんから聞いてますよ。東京から数字に強い人が来たって」
突然こちらへ話が向いた。
「東京から、は合ってます」
「数字に強いは?」
「それは……仕事なので」
男性が笑う。
「魚は数字どおり来ないから、嫌いにならないでくださいよ」
「今のところ、嫌いになるより難しいと思ってます」
「それが一番正しい」
市場を回る間、私は同じ質問を何度も飲み込んだ。平均単価はいくらか。
廃棄率は。
規格外の割合は。聞けば答えてもらえる数字もある。けれど、まず目に入るものを見た。箱ごとに魚の大きさが違うこと。氷の減り方。担当者が触って確かめる身の張り。天気の話をしながら、明日の入荷量をざっくり予測していること。私が机で見ていた仕入額は、その全部の後にできる数字だった。
「水瀬さん」
黒瀬さんに呼ばれ、顔を上げる。
「次へ行きます」
「はい」
歩き出したところで、腹の奥が小さく鳴った。聞こえない程度だったと思う。そう思いたかった。
「朝、食べました?」
聞こえていた。
「コーヒーは」
「食べ物の話です」
「時間がなかったので」
「朝食を見てる人が、朝食を抜くんですか」
「見てたから時間がなかったんです」
「言い訳として弱いですね」
「黒瀬さん、最近赤坂さんに似てきました?」
「心外です」
「どっちに失礼なんでしょう、それ」
市場の出口近くに、小さな売店があった。黒瀬さんが立ち止まる。
「何か食べてください」
「次の仕入先、時間あるんですか」
「十分遅れても問題ないように組んでます」
「最初から私が朝食抜く前提で?」
「そこまでは予想してません」
売店には、おにぎりや惣菜パンのほか、地元の柑橘を使った甘いパンが並んでいた。私は最初、塩むすびを取ろうとした。手を伸ばしたまま、隣の柑橘ジャム入りのパンを見る。仕事なら、迷わない。値段、量、食べやすさ、次の予定。でも今は、仕事ではない。
「……こっちにします」
甘いパンを取ると、黒瀬さんが何も言わずレジへ向かった。
「自分で払います」
「出張扱いなので、ホテル経費です」
「パンまで?」
「朝食を抜いた従業員を放置して、移動中に倒れられる方が困ります」
「私、そんな簡単に倒れません」
「倒れる人はだいたいそう言います」
妙に言い切る声だった。少し気になったが、それ以上は聞かなかった。売店の外にあるベンチへ座り、紙カップのコーヒーを受け取る。横のケースから砂糖を二本取って入れると、黒瀬さんが自分のコーヒーをそのまま飲んだ。
「ブラックなんですね」
「甘いのはあまり」
「私は甘くないと飲めません」
「二本入れてましたね」
「見てたんですか」
「目に入っただけです」
私はパンを一口かじった。柑橘の苦味が少し残っていて、思っていたより甘すぎない。
「おいしいです」
「よかったですね」
「黒瀬さん、こういう店知ってたんですか」
「従業員がよく寄るので」
「誰が何を買うかまで覚えてそう」
「そこまでは覚えてません」
「本当に?」
「その言い方、誰かに似てきましたね」
言われて、今度は私が笑った。海から風が吹いてくる。パンの袋が飛びそうになり、片手で押さえた。
「水瀬さん」
「はい」
「今の、好きなんですか」
「これですか?」
「甘いパン」
すぐ答えようとして、少し止まった。
「たぶん、好きです」
「たぶん?」
「食べ物を仕事にしてると、好きかどうかより先に、使えるかとか売れるかとか考える癖がつくんです」
「今は仕事じゃないでしょう」
「そうなんですけど」
もう一口食べる。柑橘の香りが強くなった。
「じゃあ、好きです」
「それならよかった」
黒瀬さんはそれ以上何も言わず、ブラックコーヒーを飲んだ。ただ、それだけの会話が妙に残った。好きなものを聞かれて、ちゃんと好きだと答えたのは、いつ以来だろう。
◇
ホテルへ戻ったあと、午後は二週間分の記録と市場で聞いた内容を照合した。仕入れ価格の上下を見ても、朝食だけを切り離して判断するのはやはり危険だった。魚の種類、天候、夕食側の仕入れ、取引先との相談。数字へ理由を書き足していくと、単なる高い・安いではなくなる。気づけば、事務室の窓の外は真っ暗になっていた。壁時計は20:47。
「あと十五分だけ」
誰に言ったわけでもない。ただ、口に出すと本当に十五分で終われる気がした。表の最後の列へ、天候と入荷状況のメモを付ける。次に、朝食記録の一週間分を並べる。終盤補充を変えてから、小鉢の残りは減っている。足りなくなった日はない。ただ、客数の少ない平日と週末を一緒に見るのはまだ早い。
もう少し。
あと一つだけ。
「十五分、長いですね」
声に驚いて振り向いた。事務室の入口に黒瀬さんが立っている。
「いつからいたんですか」
「『あと十五分だけ』の少し前」
「聞いてたなら、十五分経ってから言ってください」
「二十八分経ってます」
時計を見る。
21:15。
「……おかしいですね」
「時計が?」
「私がです」
「それは知ってます」
「最近、扱い雑じゃないですか」
黒瀬さんは答えず、一度廊下へ戻った。すぐに紙カップを二つ持って戻ってくる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
受け取ると、蓋の脇に砂糖の空袋が二本置いてあった。私はカップと空袋を交互に見る。
「……二本?」
「市場で入れてたので」
「覚えてたんですか」
「一度見たので」
「一度見たもの、全部覚えてるんですか」
「全部は無理です」
「じゃあ、どうして」
聞いてから、自分で少し恥ずかしくなった。どうして覚えていたのかなんて、問い詰めるようなことではない。黒瀬さんも一瞬だけ答えに詰まったように見えた。
「……仕事中、ずっと苦い顔でブラック飲まれるよりいいので」
「それ、理由になってます?」
「なってるつもりです」
コーヒーを飲む。ちゃんと甘かった。
「おいしいです」
「それはよかった」
朝の売店と同じ言葉だった。黒瀬さんは向かいの机へ腰を預け、私の広げた紙を見た。
「進んでますか」
「少し。市場に行ってよかったです。原価だけ見てたら、また魚を減らす方向に行ってたと思います」
「赤坂さんが聞いたら喜びそうですね」
「絶対に喜んだ顔しないですよ」
「しませんね」
「黒瀬さんも人のこと言えないですけど」
「俺は普通です」
「その普通、便利ですね」
少し笑ったあと、私はまた紙へ目を落とした。
「この一週間だけ入力したら帰ります」
「帰ってください」
「今の話聞いてました?」
「聞いた上で言ってます」
「あと三十分くらいです」
「さっき十五分が二十八分になりました」
「今度は本当に」
「帰ってください」
声が強くなったわけではない。けれど、冗談でもなかった。
「私は別に疲れてません」
「朝、何時からいました?」
「五時前です」
「市場にも行った」
「行きました」
「昼からずっと数字を見てる」
「仕事なので」
「人が倒れて成立する仕事は、成立してるとは言いません」
言い方が妙に固かった。市場でも似たことを言われた。倒れる人は、だいたいそう言う。ただの一般論にしては、黒瀬さんはその言葉を迷わず口にする。
「前の職場で、誰か倒れたんですか」
聞くと、黒瀬さんは少し黙った。
「昔、俺が無理をさせました」
それだけだった。詳しい説明はない。私も続きを聞かなかった。代わりに、ノートパソコンを閉じた。
「分かりました」
「素直ですね」
「今の話を聞いたあとに居座るほど性格悪くないです」
「助かります」
机の紙を重ねる。コーヒーはまだ半分残っていた。
「寮まで持って帰っていいですか」
「もちろん」
「じゃあ帰ります」
立ち上がると、黒瀬さんも机から離れた。
「今日は帰れ、です」
「明日は?」
「明日は明日で、勤務時間になったら来てください」
「当たり前じゃないですか」
「水瀬さんの場合、その当たり前が怪しいので」
「信用、何個くらいあります?」
赤坂さんとのやり取りを真似して聞く。黒瀬さんは少し考えた。
「仕事なら、かなり」
「仕事なら?」
「生活は、まだ」
むっとするべきなのに、なぜか笑ってしまった。
「じゃあ、増やしてください」
「俺が?」
「私が、です」
「それならお願いします」
事務室の灯りを消し、二人で廊下へ出る。フロントには夜勤のスタッフがいて、黒瀬さんが短く声をかける。誰が何時まで働いているか、明日の早番は誰か、何か困っていることはないか。数分の会話なのに、彼は名前を間違えなかった。
従業員寮へ向かう外廊下に出ると、空気は朝よりずっと冷たかった。
「黒瀬さん」
「はい」
「コーヒー、ありがとうございました」
「経費にはしません」
「そこ気にしてないです」
紙カップを持ち上げる。
「砂糖二つの方です」
「それも、別に」
「そうですか」
「はい」
たぶん、これ以上聞いても同じ答えしか返ってこない。寮の入口で別れ、部屋へ戻った。机の上へカップを置く。甘いコーヒーが好きだということは、仕事の能力とは何の関係もない。覚えていても、ホテルの利益は増えないし、朝食の廃棄も減らない。それなのに、覚えていた。その事実だけが、二本分の砂糖より少しだけ甘く残った。




