↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
炎上した料理研究家は、海辺のホテルで朝食を焼く  作者: 芦名 雅


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/10

第3話 朝食は儲からない

 翌朝、目覚ましが鳴るより先に目が覚めた。枕元の時計は4:08を示していた。従業員寮の窓の外はまだ暗く、遠くで波の音だけがかすかに聞こえる。昨日、黒瀬さんから「三日間見てください」と言われたが、午後から入った昨日は顔合わせと下見の扱いになったらしい。


 正式に朝食の動きを見るのは今日から三日間。その初日が、あと二十分ほどで始まる。眠れなかったわけではない。むしろ、久しぶりに目を覚ました瞬間から仕事のことを考えていた。それが少し怖くて、少し嬉しかった。4:25に厨房へ入ると、すでに湯気が上がっていた。


 炊飯器の蒸気、出汁の匂い、魚を焼く前の乾いた香り。昨日の夕方とは違い、朝の厨房には会話より先に手が動く空気がある。


「早いですね」


 佐伯美月さんが、冷蔵庫から小鉢用の容器を出しながらこちらを見た。


「四時半からと聞いたので」


「見学なら六時でもよかったのに」


「仕込みを見るのに、仕込みが終わってから来ても意味ないでしょう」


「それはそうですけど」


 美月さんは少しだけ笑って、すぐ作業へ戻った。私は白衣と帽子を着け、昨日と同じ小さなノートを取り出した。厨房の壁に貼られた朝食用の仕込み表には、七十という数字が並んでいる。焼き物七十、小鉢七十、卵料理七十。ご飯と味噌汁は人数ではなく仕込み量で書かれていた。その横に、昨夜十八時時点の朝食予約数が手書きで追記されている。


 五十二。


 昨日の午後は四十九だった。


「三人増えたんですね」


「夕食のときに朝食を追加した人と、夕方の当日予約です」


 美月さんが答えた。


「それでも七十は変えない?」


「このくらいなら変えません。六十超えたら、料理長が八十にするか考えます」


 昨日聞いた基準と同じだった。私は「五十二」と「七十」をノートに書き、今度は何も言わなかった。5:55になると、フロントから内線が入った。美月さんが受話器を取る。


「はい、厨房です。……五十五。はい。大人五十一、お子様四。分かりました」


 受話器を置くと、赤坂さんが振り向いた。


「五十五か」


「はい」


「焼き物、最初は五十八で入れろ。残りは冷蔵のまま置いとけ」


「分かりました」


 私は思わず赤坂さんを見た。


「七十全部、焼くわけじゃないんですね」


「当たり前だ。焼いた魚は戻せねえ」


「昨日、七十仕込むって聞いたので」


「仕込むのと、客前に出すのは別だ」


 七十全部を焼かないと知って、一瞬だけ数字への警戒が緩みかけた。けれど、七十を用意するために、誰が何時から何をしているのかは別の話だ。


「未加熱のまま残った分は?」


「状態を見て翌日へ回すか、夕食側で使えるものなら相談する。無理なら廃棄だ。魚による」


「全部捨てるわけじゃない」


「誰がそんな贅沢するか」


 赤坂さんの声には、少しだけ苛立ちがあった。自分がまた、数字だけ見て相手を雑に想像しかけていたことに気づく。


「すみません」


「何がだ」


「勝手に、作りすぎてそのまま捨ててるみたいに考えました」


「実際、捨ててるもんはある」


 赤坂さんは、出汁の鍋を確認しながら言った。


「だから見に来たんだろ。謝るくらいなら、何を捨ててるか見とけ」


「はい」


 その言い方の方が、ありがたかった。7:00になると、レストラン「潮路」に客が入り始めた。朝食は完全な一膳形式ではなく、焼き物や小鉢を取りやすく並べ、ご飯や汁物も自分で選べる形になっている。料理によっては厨房から少量ずつ追加され、遅い時間に来た客にも見栄えが悪くならないようにしていた。私は厨房と朝食会場の境目近くに立ち、森下佳奈さんの動きも見た。


「焼き魚、あと六です」


「二枚追加します」


「卵、十二あります」


「九時まではそのままで大丈夫」


 森下さんと厨房のやり取りは短い。忙しい時間帯に長い説明は必要ないのだろう。8:20を過ぎる頃には、客の波がいったん落ち着いた。フロントから追加で朝食を申し込んだ宿泊客が二人来て、そのあと家族連れが一組増えた。最終的な利用者は五十八人になった。


 五十五と聞いてから、さらに三人。七十という数字が、さっきより少し違って見える。それでも十二食分の差はある。9:05。残りの客は三組だった。会場の端に置かれた小鉢の列が、半分ほど空いている。森下さんが厨房へ顔を出した。


「煮物、あとお願いします」


「何個?」


「八は欲しいです」


 美月さんが新しい小鉢を八つ載せたトレーを手にした。私は思わず時計を見た。


「あと二十五分ですよね」


 美月さんの手が止まる。


「はい」


「今いるお客様、十二人くらいですよね」


「そのくらいです」


「八つ全部出すんですか」


 美月さんは返事をする前に森下さんを見た。森下さんが私へ向き直る。


「空いたままだと、最後のお客様から見たときに選べないので」


「でも、残ったら」


「客前に出した小鉢は戻せません」


 その言葉は分かっている。だからこそ聞いた。


「二つずつ追加するのでは駄目ですか」


「できます。ただ、そのたびに厨房へ頼むことになります」


「それは負担?」


「朝の終盤は、朝食の片付けと昼の仕込みが重なります。四回呼ぶより、一回で出した方が厨房は楽です」


 美月さんが小さく頷いた。


「八つ作るのと二つ作るの、手間はそんなに変わらないです。鍋から盛るだけなので」


「でも、残れば食材は捨てる」


「そうですね」


 人件費と食材。


 客に見せる選択肢と、廃棄。厨房の手間と、会場の見栄え。どれか一つだけなら簡単なのに、全部がつながっている。


「出してください」


 私は言った。


 美月さんが少し意外そうに見る。


「今は、です。私はまだ変えていい立場じゃないので」


「昨日より我慢できるようになりましたね」


「それ、褒めてます?」


「半分くらい」


 八つの小鉢が会場へ運ばれていった。9:30。朝食が終わる。最後に出した八つのうち、食べられたのは三つだった。五つが下げられてくる。そのほかにも、客前へ出したまま残った卵料理、少量の和え物、盛り付け済みの果物がトレーに集められていった。


 赤坂さんが言った通り、魚だけを見ていたら分からなかった。魚は必要数を見ながら焼いていた。でも、少量ずつ盛りつける小鉢や、終盤まで「選べる状態」を維持する料理では、別の種類の無駄が出ている。私は捨てられる量を数えた。美月さんが隣で、回収容器の重さを量る。


「毎日これ、量ってるんですか」


「厨房全体の廃棄は。朝食だけにきれいに分けてない日もありますけど」


「料理別は?」


「そこまでは」


「じゃあ、煮物が五個、卵が何個、って分からない?」


「今までは必要なかったので」


 今までは。


 私はその言葉をノートに書いた。必要がなかったから、記録していない。記録していないから、どこから減らすべきかは感覚になる。でも、感覚が悪いわけではない。赤坂さんたちは、足りない事故を避けるために経験を積んでいる。その経験が、客を困らせない方向へ最適化されているだけだ。


「水瀬さん」


 森下さんに呼ばれて顔を上げた。


「あちらのお客様が、料理長にお礼を言いたいそうです」


 会場の入口近くに、六十代くらいの夫婦が立っていた。赤坂さんが手を拭いて出ていく。


「今年も朝の魚、おいしかったよ」


 男性客の声が聞こえた。


「去年より少し脂が軽かったかな」


「時期が少し早いですからね。来月ならまた変わります」


「そうか。じゃあ、またその頃に来ないとな」


 冗談まじりの会話に、奥さんも笑った。私はノートへ視線を落とした。数字の外にいる人を見ろと言われた気がした。けれど同時に、数字の中にいる人でもある。この夫婦が来年も泊まる理由の一つが朝食なら、その価値も無視できない。ただ高い料理を削ればいいわけではない。昨日より少しだけ、見るものが増えた。


◇


 二日目の午後、私は事務室の隅に机を借り、三か月分の紙を並べていた。昨日の宿泊集計、朝食予約、実利用、仕込み量、廃棄記録。形式が違うものを日付で合わせていく。パソコンを借りることもできたが、最初は紙の方が分かりやすかった。数字の出所が違う以上、いきなり一つの表へ入れると、どこで意味が変わったのか見失う。


 十一月の正式採用が決まっているわけでもないのに、私は午後いっぱい、その作業を続けた。


「まだやってるんですか」


 夕方、井上さんが覗き込んだ。


「まだ終わってないので」


「三日で全部見る気ですか」


「見ません。見る範囲を決めてるところです」


「それ、同じ意味じゃないですか」


「違います」


 私は宿泊予約の紙を一枚持ち上げた。


「たとえば、この日。前日の昼は朝食予約四十六人。でも十八時には五十一。当日六時は五十四。実利用は五十六」


「ありますね、そういう日」


「厨房の仕込み表は六十五。結果だけ見れば九食多い。でも昼の四十六から見たら十九食多い」


「どの数字を基準にするかで、見え方が変わる」


「そうです」


 井上さんが腕を組む。


「でも、前日の昼に厨房へ五十一は渡せないですよ。まだ五十一じゃないから」


「分かってます。だから、十八時に一度更新したい」


「十八時」


「夕食開始までに入った変更をまとめて、厨房へ正式な数字として渡す。朝六時にもう一度だけ最終更新」


「今も聞かれれば答えてます」


「聞かれれば、ですよね」


 井上さんが黙った。


「厨房が忙しくて聞かなかった日と、フロントが伝え忘れた日で、数字が変わる。誰が悪いという話じゃなくて、聞く側と答える側が両方動かないと成立しないのが怖いんです」


「自動で出す仕組みを入れる?」


「今すぐ新しいシステムを買う必要はないです。まず紙一枚でもいい。十八時と六時に、フロントが更新した数字を同じ場所へ置く。それで実際に変わるか見たい」


 井上さんは少し考えてから、私が並べた紙を見た。


「それなら、フロント側の手間はそんなに増えないですね」


「でも、厨房側がその数字を使うかは別です」


「赤坂さんですね」


「はい」


「あの人、数字嫌いですよ」


「知ってます」


「でも、嘘は嫌いです」


「それも、なんとなく」


「じゃあ、都合のいい数字だけ持っていかなければ話は聞くと思います」


 井上さんはそう言って事務室を出ていった。都合のいい数字だけ。私は、別にしておいた一枚の集計へ目を落とした。朝食食材の中で、金額が大きい項目。


 地元の魚。


 一食あたりの原価だけ見れば、他の料理より明らかに重い。しかも予約数に対して一定の余裕を持って確保している。客の評判がいいことは、今朝見た。それでも、数字だけなら見直し候補に入る。私は「削減」と書きかけて、ペンを止めた。昨日の美月さんの顔が浮かんだ。先に理由を聞く。今度は、そうする。


 その日の夕方、魚の納品が来たときに赤坂さんへ声をかけた。


「朝の魚の仕入れ、契約書って見せてもらえますか」


「何でだ」


「単価が高いからです」


 赤坂さんの顔が険しくなる。


「高いから切るのか」


「まだ切りません」


「まだ?」


「言い方悪かったです。切るかどうかを考える前に、どういう契約なのか知りたいです」


 赤坂さんはすぐには答えなかった。搬入口では、業者の男性が魚箱の蓋を開け、品質を確認している。


「朝の魚だけの契約じゃねえ」


「え?」


「あそこの漁師からは、夕食の魚も入れてる。朝用の魚は、大きさが揃わなくて市場で値がつきにくいものもホテルで受ける。その代わり、夕食で使う魚も長く優先して回してもらってる」


 私は箱の中を見た。確かに、同じ種類でも大きさは少しずつ違う。


「朝食側だけ減らしたら?」


「契約を組み直す。向こうにも都合があるからな」


「夕食の仕入れ条件にも影響する?」


「する可能性はある」


 朝食一食の原価表だけでは、見えない数字だった。私はノートの「魚」の横へ、大きく丸をつけた。


「何だ、それ」


「分からないものの印です」


「高いから削るんじゃなかったのか」


「今、削ったら駄目だと分かりました」


「まだ分かってねえよ」


 赤坂さんが言った。


「客が喜ぶから残すのか、漁師との付き合いがあるから残すのか、それとも本当に儲けに必要なのか。全部調べてから言え」


 私は少しだけ笑った。


「数字嫌いなんじゃなかったんですか」


「嫌いだよ。数字だけで分かった顔する奴がもっと嫌いなんだ」


 耳が痛かった。


「明日、分かった顔しないようにします」


「明日何だ」


「三日目の報告です」


「もうか」


「もうです」


 赤坂さんは魚箱の蓋を閉めながら言った。


「じゃあ、せめて俺が怒るくらいの案は持ってこい」


「怒らせる前提なんですか」


「何も変えない案なら、三日見た意味ねえだろ」


 その言葉に、私は返事をせず頷いた。机へ戻ってから、さっき書きかけた「削減」の文字を消した。代わりに書いた。


『朝食だけで判断しない』


◇


 三日目の午後、事務室の長机に五人が座った。黒瀬さん、赤坂さん、井上さん、森下さん、植村さん。美月さんにも来てもらおうとしたが、仕込みがあるからと赤坂さんが断った。


「現場の意見は俺が聞く。必要なら途中で呼ぶ」


 その代わり、私が話す前に、赤坂さんから一つだけ条件を出された。


「難しい言葉使うな。俺が分からなきゃ、現場でも使えねえ」


「分かりました」


 手元には、三日で作った表が三枚だけある。三か月分すべてを整理したわけではない。むしろ、整理しきれなかったからこそ、最初に直す場所を絞った。


「最初に結論から言います」


 私は一枚目を机の中央へ置いた。


「朝食が赤字になる理由は、一つではありません。少なくとも三日で見えた範囲では、仕入れの単価、余裕を持った仕込み、朝食会場の見栄えを最後まで維持する追加、記録の分散が重なっています」


「三日で随分言うな」


 赤坂さんが言う。


「なので、メニューを大きく削る提案はしません」


 赤坂さんの眉が動いた。


「地元の魚は?」


「朝食の原価だけを見れば、見直し候補に入ります」


「ほら来た」


「でも、朝食だけの数字では判断できません」


 私は二枚目を出した。


「夕食の仕入れと同じ取引先で、朝食用の魚を受けること自体が取引全体の条件に関わっている。そこを切ったとき、朝食の原価が下がっても夕食側が上がるなら意味がないです」


 植村さんが紙を覗き込む。


「そこまでの金額は出せました?」


「出せてません。契約全体の条件と過去の仕入れを見ないと無理です」


「じゃあ、提案じゃないじゃないか」


 赤坂さんの声は厳しかった。


「はい。ここは保留です」


「保留?」


「三日で分からなかったことを、分かったふりして削る方がまずいので」


 赤坂さんは何も言わなかった。私は一枚目へ戻った。


「今すぐ変えたいのは、料理じゃなくて数字の渡し方です」


 井上さんが顔を上げる。


「前日十八時に、翌朝の朝食予定数をフロントから厨房へ一度確定値として渡す。翌朝六時に、変更分だけ更新する。厨房側は、その二つの数字を仕込み表に残す」


「昨日話したやつですね」


「はい。さらに、二週間だけでいいので、朝食の主要料理について『何食用意したか』『何食客前へ出したか』『何食残ったか』を簡単に記録したいです」


 赤坂さんが腕を組んだ。


「仕事増やすのか」


「増やします」


「はっきり言うな」


「増やすので、項目を減らします。全料理を細かく量るのはやめます。焼き物、小鉢、卵料理みたいに、仕込み量を変えられそうなものだけ。重量じゃなく数でいいものは数だけ」


「誰が書く」


「用意した数は厨房。客前へ出した数と戻った数は森下さん側。最後に私が合わせます」


「毎日?」


「二週間。その結果を見て続けるか決めます」


 森下さんが手元の紙を見ながら言った。


「会場側は、今の引き継ぎノートに欄を足すくらいならできます」


 井上さんも頷く。


「十八時と六時の人数連絡も、今ある予約表でできます。専用システムはいらない」


 赤坂さんだけが黙っている。黒瀬さんは、最初からほとんど口を挟んでいなかった。


「料理長」


 私から呼んだ。


「何だ」


「一番嫌なのは、どこですか」


「全部めんどくせえ」


「その中で」


 赤坂さんは少し考えた。


「数字に合わせて仕込みを減らして、足りなくなることだ」


「すぐには減らしません」


「じゃあ何のために数える」


「減らしても大丈夫なところを探すためです」


「同じだろ」


「違います」


 私は昨日の朝食記録を指した。


「昨日は五十五人見込みで、実際は五十八人でした。七十の仕込みが完全に無駄だったとは言えません。三人増えたからです。でも、九時過ぎに追加した煮物八つのうち五つは残った。これは仕込み人数の問題じゃなくて、終盤の出し方の問題かもしれない」


 赤坂さんの視線が紙へ落ちる。


「魚と小鉢を同じ理由で減らすのは違うと思います。何が、いつ、なぜ余ったのかを分けたいです」


「二週間で分かるのか」


「全部は分かりません」


 昨日と同じ答えだった。


「でも、今よりは分かります」


 部屋が静かになる。赤坂さんが黒瀬さんを見る。


「お前はどう思ってる」


「俺が先に言うと、皆がそっちを見るので黙ってました」


「ずるい奴だな」


「経営者なので」


 黒瀬さんは私へ向き直った。


「水瀬さん」


「はい」


「一つ聞きます」


「何でしょう」


「三日前、あなたは四十九人に対して七十食は多いと言った」


「言いました」


「今も多いと思いますか」


 私はすぐに答えなかった。最初の日なら、割合を出していたと思う。四十九に対して七十。四割以上。でも、実際に五十八人が来た。焼き魚は全部を焼いていなかった。終盤の小鉢には別の理由があった。地元の魚は朝食だけで完結していなかった。


「多い日もあると思います」


 私は言った。


「でも、七十という数字そのものが悪いとは、もう言えません」


「じゃあ、何が悪い」


「七十にした理由が記録に残らないことと、結果が次の日の判断に使われていないことです」


 言い終えると、赤坂さんが小さく息を吐いた。


「それなら、やってみろ」


「……いいんですか」


「二週間だろ。足りなくなりそうなら俺が止める」


「はい」


「あと、魚を勝手に切るな」


「切りません」


「契約見るなら植村と俺を通せ」


「分かりました」


 そのやり取りを聞いていた黒瀬さんが、机の引き出しから封筒を一つ出した。


「では、もう一つ」


 私の前へ置かれる。中には雇用条件の書類が入っていた。


「十一月一日付で、うちに来ませんか」


 私は紙を見た。


 雇用形態、勤務時間、給与、試用期間。そして職種の欄。


『料飲企画・管理担当』


「料理研究家じゃないんですね」


「それで採るつもりは最初からありません」


「……そうでした」


 展示会のサービス通路で言われた言葉を思い出す。料理を作れる人は足りている。厨房を立て直せる人なら欲しい。


「赤坂さんの上司になるわけではありません」


 黒瀬さんが続ける。


「レシピ、味、衛生、厨房教育の最終責任は料理長。あなたには需要予測、発注分析、原価、廃棄、工程、メニュー構成の提案を見てもらう。意見がぶつかったら話し合う。必要なら俺が決裁します」


「面倒そうですね」


「今さらですか」


「三日で十分分かりました」


 赤坂さんが鼻を鳴らした。


「こっちの台詞だ」


 私は書類の最後にある署名欄を見た。一週間前まで、名前を書くことが嫌だった。自分の名前があるだけで、責任を押しつけられる気がした。今も、怖くないわけではない。


「返事、今日じゃなくてもいいです」


 黒瀬さんが言う。


「東京へ戻って考えてもいい」


 私は顔を上げた。


「戻って、何を考えるんですか」


「ここで働くかどうか」


「それなら、もう考えました」


 ペンを取る。


 水瀬千晴。


 久しぶりに、誰かに言われた責任者欄ではなく、自分で選んだ場所へ自分の名前を書いた。


「お願いします」


 黒瀬さんが書類を受け取り、内容を確認する。


「こちらこそ」


 赤坂さんは席を立ちながら言った。


「採用されたからって、明日から魚減らすなよ」


「十一月一日からです」


「その前に口出すなって意味だ」


「分かってます」


「本当に?」


 黒瀬さんと同じ言い方をされて、私は二人を見比べた。


「このホテル、それ流行ってるんですか」


 井上さんがとうとう吹き出した。部屋の空気が初めて少し緩んだ。机の上には、まだ三か月分の数字が残っている。二週間の記録も、これから始まる。何も解決していない。それでも、仕事は始められる。その違いを、私はようやく少しだけ分かった気がした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。