第3話 朝食は儲からない
翌朝、目覚ましが鳴るより先に目が覚めた。枕元の時計は4:08を示していた。従業員寮の窓の外はまだ暗く、遠くで波の音だけがかすかに聞こえる。昨日、黒瀬さんから「三日間見てください」と言われたが、午後から入った昨日は顔合わせと下見の扱いになったらしい。
正式に朝食の動きを見るのは今日から三日間。その初日が、あと二十分ほどで始まる。眠れなかったわけではない。むしろ、久しぶりに目を覚ました瞬間から仕事のことを考えていた。それが少し怖くて、少し嬉しかった。4:25に厨房へ入ると、すでに湯気が上がっていた。
炊飯器の蒸気、出汁の匂い、魚を焼く前の乾いた香り。昨日の夕方とは違い、朝の厨房には会話より先に手が動く空気がある。
「早いですね」
佐伯美月さんが、冷蔵庫から小鉢用の容器を出しながらこちらを見た。
「四時半からと聞いたので」
「見学なら六時でもよかったのに」
「仕込みを見るのに、仕込みが終わってから来ても意味ないでしょう」
「それはそうですけど」
美月さんは少しだけ笑って、すぐ作業へ戻った。私は白衣と帽子を着け、昨日と同じ小さなノートを取り出した。厨房の壁に貼られた朝食用の仕込み表には、七十という数字が並んでいる。焼き物七十、小鉢七十、卵料理七十。ご飯と味噌汁は人数ではなく仕込み量で書かれていた。その横に、昨夜十八時時点の朝食予約数が手書きで追記されている。
五十二。
昨日の午後は四十九だった。
「三人増えたんですね」
「夕食のときに朝食を追加した人と、夕方の当日予約です」
美月さんが答えた。
「それでも七十は変えない?」
「このくらいなら変えません。六十超えたら、料理長が八十にするか考えます」
昨日聞いた基準と同じだった。私は「五十二」と「七十」をノートに書き、今度は何も言わなかった。5:55になると、フロントから内線が入った。美月さんが受話器を取る。
「はい、厨房です。……五十五。はい。大人五十一、お子様四。分かりました」
受話器を置くと、赤坂さんが振り向いた。
「五十五か」
「はい」
「焼き物、最初は五十八で入れろ。残りは冷蔵のまま置いとけ」
「分かりました」
私は思わず赤坂さんを見た。
「七十全部、焼くわけじゃないんですね」
「当たり前だ。焼いた魚は戻せねえ」
「昨日、七十仕込むって聞いたので」
「仕込むのと、客前に出すのは別だ」
七十全部を焼かないと知って、一瞬だけ数字への警戒が緩みかけた。けれど、七十を用意するために、誰が何時から何をしているのかは別の話だ。
「未加熱のまま残った分は?」
「状態を見て翌日へ回すか、夕食側で使えるものなら相談する。無理なら廃棄だ。魚による」
「全部捨てるわけじゃない」
「誰がそんな贅沢するか」
赤坂さんの声には、少しだけ苛立ちがあった。自分がまた、数字だけ見て相手を雑に想像しかけていたことに気づく。
「すみません」
「何がだ」
「勝手に、作りすぎてそのまま捨ててるみたいに考えました」
「実際、捨ててるもんはある」
赤坂さんは、出汁の鍋を確認しながら言った。
「だから見に来たんだろ。謝るくらいなら、何を捨ててるか見とけ」
「はい」
その言い方の方が、ありがたかった。7:00になると、レストラン「潮路」に客が入り始めた。朝食は完全な一膳形式ではなく、焼き物や小鉢を取りやすく並べ、ご飯や汁物も自分で選べる形になっている。料理によっては厨房から少量ずつ追加され、遅い時間に来た客にも見栄えが悪くならないようにしていた。私は厨房と朝食会場の境目近くに立ち、森下佳奈さんの動きも見た。
「焼き魚、あと六です」
「二枚追加します」
「卵、十二あります」
「九時まではそのままで大丈夫」
森下さんと厨房のやり取りは短い。忙しい時間帯に長い説明は必要ないのだろう。8:20を過ぎる頃には、客の波がいったん落ち着いた。フロントから追加で朝食を申し込んだ宿泊客が二人来て、そのあと家族連れが一組増えた。最終的な利用者は五十八人になった。
五十五と聞いてから、さらに三人。七十という数字が、さっきより少し違って見える。それでも十二食分の差はある。9:05。残りの客は三組だった。会場の端に置かれた小鉢の列が、半分ほど空いている。森下さんが厨房へ顔を出した。
「煮物、あとお願いします」
「何個?」
「八は欲しいです」
美月さんが新しい小鉢を八つ載せたトレーを手にした。私は思わず時計を見た。
「あと二十五分ですよね」
美月さんの手が止まる。
「はい」
「今いるお客様、十二人くらいですよね」
「そのくらいです」
「八つ全部出すんですか」
美月さんは返事をする前に森下さんを見た。森下さんが私へ向き直る。
「空いたままだと、最後のお客様から見たときに選べないので」
「でも、残ったら」
「客前に出した小鉢は戻せません」
その言葉は分かっている。だからこそ聞いた。
「二つずつ追加するのでは駄目ですか」
「できます。ただ、そのたびに厨房へ頼むことになります」
「それは負担?」
「朝の終盤は、朝食の片付けと昼の仕込みが重なります。四回呼ぶより、一回で出した方が厨房は楽です」
美月さんが小さく頷いた。
「八つ作るのと二つ作るの、手間はそんなに変わらないです。鍋から盛るだけなので」
「でも、残れば食材は捨てる」
「そうですね」
人件費と食材。
客に見せる選択肢と、廃棄。厨房の手間と、会場の見栄え。どれか一つだけなら簡単なのに、全部がつながっている。
「出してください」
私は言った。
美月さんが少し意外そうに見る。
「今は、です。私はまだ変えていい立場じゃないので」
「昨日より我慢できるようになりましたね」
「それ、褒めてます?」
「半分くらい」
八つの小鉢が会場へ運ばれていった。9:30。朝食が終わる。最後に出した八つのうち、食べられたのは三つだった。五つが下げられてくる。そのほかにも、客前へ出したまま残った卵料理、少量の和え物、盛り付け済みの果物がトレーに集められていった。
赤坂さんが言った通り、魚だけを見ていたら分からなかった。魚は必要数を見ながら焼いていた。でも、少量ずつ盛りつける小鉢や、終盤まで「選べる状態」を維持する料理では、別の種類の無駄が出ている。私は捨てられる量を数えた。美月さんが隣で、回収容器の重さを量る。
「毎日これ、量ってるんですか」
「厨房全体の廃棄は。朝食だけにきれいに分けてない日もありますけど」
「料理別は?」
「そこまでは」
「じゃあ、煮物が五個、卵が何個、って分からない?」
「今までは必要なかったので」
今までは。
私はその言葉をノートに書いた。必要がなかったから、記録していない。記録していないから、どこから減らすべきかは感覚になる。でも、感覚が悪いわけではない。赤坂さんたちは、足りない事故を避けるために経験を積んでいる。その経験が、客を困らせない方向へ最適化されているだけだ。
「水瀬さん」
森下さんに呼ばれて顔を上げた。
「あちらのお客様が、料理長にお礼を言いたいそうです」
会場の入口近くに、六十代くらいの夫婦が立っていた。赤坂さんが手を拭いて出ていく。
「今年も朝の魚、おいしかったよ」
男性客の声が聞こえた。
「去年より少し脂が軽かったかな」
「時期が少し早いですからね。来月ならまた変わります」
「そうか。じゃあ、またその頃に来ないとな」
冗談まじりの会話に、奥さんも笑った。私はノートへ視線を落とした。数字の外にいる人を見ろと言われた気がした。けれど同時に、数字の中にいる人でもある。この夫婦が来年も泊まる理由の一つが朝食なら、その価値も無視できない。ただ高い料理を削ればいいわけではない。昨日より少しだけ、見るものが増えた。
◇
二日目の午後、私は事務室の隅に机を借り、三か月分の紙を並べていた。昨日の宿泊集計、朝食予約、実利用、仕込み量、廃棄記録。形式が違うものを日付で合わせていく。パソコンを借りることもできたが、最初は紙の方が分かりやすかった。数字の出所が違う以上、いきなり一つの表へ入れると、どこで意味が変わったのか見失う。
十一月の正式採用が決まっているわけでもないのに、私は午後いっぱい、その作業を続けた。
「まだやってるんですか」
夕方、井上さんが覗き込んだ。
「まだ終わってないので」
「三日で全部見る気ですか」
「見ません。見る範囲を決めてるところです」
「それ、同じ意味じゃないですか」
「違います」
私は宿泊予約の紙を一枚持ち上げた。
「たとえば、この日。前日の昼は朝食予約四十六人。でも十八時には五十一。当日六時は五十四。実利用は五十六」
「ありますね、そういう日」
「厨房の仕込み表は六十五。結果だけ見れば九食多い。でも昼の四十六から見たら十九食多い」
「どの数字を基準にするかで、見え方が変わる」
「そうです」
井上さんが腕を組む。
「でも、前日の昼に厨房へ五十一は渡せないですよ。まだ五十一じゃないから」
「分かってます。だから、十八時に一度更新したい」
「十八時」
「夕食開始までに入った変更をまとめて、厨房へ正式な数字として渡す。朝六時にもう一度だけ最終更新」
「今も聞かれれば答えてます」
「聞かれれば、ですよね」
井上さんが黙った。
「厨房が忙しくて聞かなかった日と、フロントが伝え忘れた日で、数字が変わる。誰が悪いという話じゃなくて、聞く側と答える側が両方動かないと成立しないのが怖いんです」
「自動で出す仕組みを入れる?」
「今すぐ新しいシステムを買う必要はないです。まず紙一枚でもいい。十八時と六時に、フロントが更新した数字を同じ場所へ置く。それで実際に変わるか見たい」
井上さんは少し考えてから、私が並べた紙を見た。
「それなら、フロント側の手間はそんなに増えないですね」
「でも、厨房側がその数字を使うかは別です」
「赤坂さんですね」
「はい」
「あの人、数字嫌いですよ」
「知ってます」
「でも、嘘は嫌いです」
「それも、なんとなく」
「じゃあ、都合のいい数字だけ持っていかなければ話は聞くと思います」
井上さんはそう言って事務室を出ていった。都合のいい数字だけ。私は、別にしておいた一枚の集計へ目を落とした。朝食食材の中で、金額が大きい項目。
地元の魚。
一食あたりの原価だけ見れば、他の料理より明らかに重い。しかも予約数に対して一定の余裕を持って確保している。客の評判がいいことは、今朝見た。それでも、数字だけなら見直し候補に入る。私は「削減」と書きかけて、ペンを止めた。昨日の美月さんの顔が浮かんだ。先に理由を聞く。今度は、そうする。
その日の夕方、魚の納品が来たときに赤坂さんへ声をかけた。
「朝の魚の仕入れ、契約書って見せてもらえますか」
「何でだ」
「単価が高いからです」
赤坂さんの顔が険しくなる。
「高いから切るのか」
「まだ切りません」
「まだ?」
「言い方悪かったです。切るかどうかを考える前に、どういう契約なのか知りたいです」
赤坂さんはすぐには答えなかった。搬入口では、業者の男性が魚箱の蓋を開け、品質を確認している。
「朝の魚だけの契約じゃねえ」
「え?」
「あそこの漁師からは、夕食の魚も入れてる。朝用の魚は、大きさが揃わなくて市場で値がつきにくいものもホテルで受ける。その代わり、夕食で使う魚も長く優先して回してもらってる」
私は箱の中を見た。確かに、同じ種類でも大きさは少しずつ違う。
「朝食側だけ減らしたら?」
「契約を組み直す。向こうにも都合があるからな」
「夕食の仕入れ条件にも影響する?」
「する可能性はある」
朝食一食の原価表だけでは、見えない数字だった。私はノートの「魚」の横へ、大きく丸をつけた。
「何だ、それ」
「分からないものの印です」
「高いから削るんじゃなかったのか」
「今、削ったら駄目だと分かりました」
「まだ分かってねえよ」
赤坂さんが言った。
「客が喜ぶから残すのか、漁師との付き合いがあるから残すのか、それとも本当に儲けに必要なのか。全部調べてから言え」
私は少しだけ笑った。
「数字嫌いなんじゃなかったんですか」
「嫌いだよ。数字だけで分かった顔する奴がもっと嫌いなんだ」
耳が痛かった。
「明日、分かった顔しないようにします」
「明日何だ」
「三日目の報告です」
「もうか」
「もうです」
赤坂さんは魚箱の蓋を閉めながら言った。
「じゃあ、せめて俺が怒るくらいの案は持ってこい」
「怒らせる前提なんですか」
「何も変えない案なら、三日見た意味ねえだろ」
その言葉に、私は返事をせず頷いた。机へ戻ってから、さっき書きかけた「削減」の文字を消した。代わりに書いた。
『朝食だけで判断しない』
◇
三日目の午後、事務室の長机に五人が座った。黒瀬さん、赤坂さん、井上さん、森下さん、植村さん。美月さんにも来てもらおうとしたが、仕込みがあるからと赤坂さんが断った。
「現場の意見は俺が聞く。必要なら途中で呼ぶ」
その代わり、私が話す前に、赤坂さんから一つだけ条件を出された。
「難しい言葉使うな。俺が分からなきゃ、現場でも使えねえ」
「分かりました」
手元には、三日で作った表が三枚だけある。三か月分すべてを整理したわけではない。むしろ、整理しきれなかったからこそ、最初に直す場所を絞った。
「最初に結論から言います」
私は一枚目を机の中央へ置いた。
「朝食が赤字になる理由は、一つではありません。少なくとも三日で見えた範囲では、仕入れの単価、余裕を持った仕込み、朝食会場の見栄えを最後まで維持する追加、記録の分散が重なっています」
「三日で随分言うな」
赤坂さんが言う。
「なので、メニューを大きく削る提案はしません」
赤坂さんの眉が動いた。
「地元の魚は?」
「朝食の原価だけを見れば、見直し候補に入ります」
「ほら来た」
「でも、朝食だけの数字では判断できません」
私は二枚目を出した。
「夕食の仕入れと同じ取引先で、朝食用の魚を受けること自体が取引全体の条件に関わっている。そこを切ったとき、朝食の原価が下がっても夕食側が上がるなら意味がないです」
植村さんが紙を覗き込む。
「そこまでの金額は出せました?」
「出せてません。契約全体の条件と過去の仕入れを見ないと無理です」
「じゃあ、提案じゃないじゃないか」
赤坂さんの声は厳しかった。
「はい。ここは保留です」
「保留?」
「三日で分からなかったことを、分かったふりして削る方がまずいので」
赤坂さんは何も言わなかった。私は一枚目へ戻った。
「今すぐ変えたいのは、料理じゃなくて数字の渡し方です」
井上さんが顔を上げる。
「前日十八時に、翌朝の朝食予定数をフロントから厨房へ一度確定値として渡す。翌朝六時に、変更分だけ更新する。厨房側は、その二つの数字を仕込み表に残す」
「昨日話したやつですね」
「はい。さらに、二週間だけでいいので、朝食の主要料理について『何食用意したか』『何食客前へ出したか』『何食残ったか』を簡単に記録したいです」
赤坂さんが腕を組んだ。
「仕事増やすのか」
「増やします」
「はっきり言うな」
「増やすので、項目を減らします。全料理を細かく量るのはやめます。焼き物、小鉢、卵料理みたいに、仕込み量を変えられそうなものだけ。重量じゃなく数でいいものは数だけ」
「誰が書く」
「用意した数は厨房。客前へ出した数と戻った数は森下さん側。最後に私が合わせます」
「毎日?」
「二週間。その結果を見て続けるか決めます」
森下さんが手元の紙を見ながら言った。
「会場側は、今の引き継ぎノートに欄を足すくらいならできます」
井上さんも頷く。
「十八時と六時の人数連絡も、今ある予約表でできます。専用システムはいらない」
赤坂さんだけが黙っている。黒瀬さんは、最初からほとんど口を挟んでいなかった。
「料理長」
私から呼んだ。
「何だ」
「一番嫌なのは、どこですか」
「全部めんどくせえ」
「その中で」
赤坂さんは少し考えた。
「数字に合わせて仕込みを減らして、足りなくなることだ」
「すぐには減らしません」
「じゃあ何のために数える」
「減らしても大丈夫なところを探すためです」
「同じだろ」
「違います」
私は昨日の朝食記録を指した。
「昨日は五十五人見込みで、実際は五十八人でした。七十の仕込みが完全に無駄だったとは言えません。三人増えたからです。でも、九時過ぎに追加した煮物八つのうち五つは残った。これは仕込み人数の問題じゃなくて、終盤の出し方の問題かもしれない」
赤坂さんの視線が紙へ落ちる。
「魚と小鉢を同じ理由で減らすのは違うと思います。何が、いつ、なぜ余ったのかを分けたいです」
「二週間で分かるのか」
「全部は分かりません」
昨日と同じ答えだった。
「でも、今よりは分かります」
部屋が静かになる。赤坂さんが黒瀬さんを見る。
「お前はどう思ってる」
「俺が先に言うと、皆がそっちを見るので黙ってました」
「ずるい奴だな」
「経営者なので」
黒瀬さんは私へ向き直った。
「水瀬さん」
「はい」
「一つ聞きます」
「何でしょう」
「三日前、あなたは四十九人に対して七十食は多いと言った」
「言いました」
「今も多いと思いますか」
私はすぐに答えなかった。最初の日なら、割合を出していたと思う。四十九に対して七十。四割以上。でも、実際に五十八人が来た。焼き魚は全部を焼いていなかった。終盤の小鉢には別の理由があった。地元の魚は朝食だけで完結していなかった。
「多い日もあると思います」
私は言った。
「でも、七十という数字そのものが悪いとは、もう言えません」
「じゃあ、何が悪い」
「七十にした理由が記録に残らないことと、結果が次の日の判断に使われていないことです」
言い終えると、赤坂さんが小さく息を吐いた。
「それなら、やってみろ」
「……いいんですか」
「二週間だろ。足りなくなりそうなら俺が止める」
「はい」
「あと、魚を勝手に切るな」
「切りません」
「契約見るなら植村と俺を通せ」
「分かりました」
そのやり取りを聞いていた黒瀬さんが、机の引き出しから封筒を一つ出した。
「では、もう一つ」
私の前へ置かれる。中には雇用条件の書類が入っていた。
「十一月一日付で、うちに来ませんか」
私は紙を見た。
雇用形態、勤務時間、給与、試用期間。そして職種の欄。
『料飲企画・管理担当』
「料理研究家じゃないんですね」
「それで採るつもりは最初からありません」
「……そうでした」
展示会のサービス通路で言われた言葉を思い出す。料理を作れる人は足りている。厨房を立て直せる人なら欲しい。
「赤坂さんの上司になるわけではありません」
黒瀬さんが続ける。
「レシピ、味、衛生、厨房教育の最終責任は料理長。あなたには需要予測、発注分析、原価、廃棄、工程、メニュー構成の提案を見てもらう。意見がぶつかったら話し合う。必要なら俺が決裁します」
「面倒そうですね」
「今さらですか」
「三日で十分分かりました」
赤坂さんが鼻を鳴らした。
「こっちの台詞だ」
私は書類の最後にある署名欄を見た。一週間前まで、名前を書くことが嫌だった。自分の名前があるだけで、責任を押しつけられる気がした。今も、怖くないわけではない。
「返事、今日じゃなくてもいいです」
黒瀬さんが言う。
「東京へ戻って考えてもいい」
私は顔を上げた。
「戻って、何を考えるんですか」
「ここで働くかどうか」
「それなら、もう考えました」
ペンを取る。
水瀬千晴。
久しぶりに、誰かに言われた責任者欄ではなく、自分で選んだ場所へ自分の名前を書いた。
「お願いします」
黒瀬さんが書類を受け取り、内容を確認する。
「こちらこそ」
赤坂さんは席を立ちながら言った。
「採用されたからって、明日から魚減らすなよ」
「十一月一日からです」
「その前に口出すなって意味だ」
「分かってます」
「本当に?」
黒瀬さんと同じ言い方をされて、私は二人を見比べた。
「このホテル、それ流行ってるんですか」
井上さんがとうとう吹き出した。部屋の空気が初めて少し緩んだ。机の上には、まだ三か月分の数字が残っている。二週間の記録も、これから始まる。何も解決していない。それでも、仕事は始められる。その違いを、私はようやく少しだけ分かった気がした。




