第2話 海辺のホテル
名刺を捨てなかっただけのはずが、十月二十四日の午後、私はそのホテルの玄関前に立っていた。海沿いの風は東京より少し強く、キャリーケースの持ち手を握る指に冷たかった。振り返れば、通りの向こうに秋の海が見える。観光写真なら、たぶんそちらを撮るのだと思う。
けれど、私が先に見たのは汐風館の建物でも海でもなかった。玄関脇の搬入口へ入っていく業者の台車だった。魚の箱が二つ。野菜の段ボールが三つ。乳製品らしい保冷箱。伝票を持った従業員が、中身と数量を一つずつ確認している。自分でも嫌になる。
初めて来た土地なのに、景色より仕入れが気になる。スマートフォンを取り出すと、昨日の通話履歴に黒瀬冬馬の名前が残っていた。
『黒瀬です』
『水瀬です。先日の……名刺をいただいた』
『覚えています』
『あの話、まだ有効ですか』
電話をかけるまで十分以上迷ったのに、返事は数秒だった。
『来てもらって、実際に見てから決めます』
採用します、ではなかった。信じています、とも言われなかった。
『二十四日の十四時ならいます。フロントで名前を言ってください』
それだけだった。だから、ここまで来た。自動ドアが開く。ロビーは新築のホテルのように洗練されてはいない。磨かれた床や古い木の柱には長く使われてきた艶があり、海側の大きな窓から入る光で、全体が思ったより明るく見えた。正面のフロントでは二人のスタッフが宿泊客の荷物を預かっている。キャリーケースを引いて近づくと、カウンターの男性が顔を上げた。
「いらっしゃいませ。ご宿泊でしょうか」
「いえ。十四時に黒瀬さんと約束している水瀬です」
一瞬だけ、男性の目が止まった。本当に一瞬だった。けれど、私はもう、そういう間に敏感になっていた。
「水瀬千晴様ですね。少々お待ちください」
やっぱり知っている。名前を検索すれば、今は料理より先に盗作の記事が出る。逃げ出したくなるほどではなかった。ただ、ここでも最初にそれを見られるのかと思うと、キャリーケースの持ち手を握る手に力が入った。
「水瀬さん」
奥の事務室から黒瀬さんが出てきた。展示会の日と同じ黒いスーツだったが、今日はネクタイを少し緩めている。背が高いせいで無愛想に見えやすいのに、フロントへ出てくる途中で宿泊客に呼び止められると、立ち止まって最後まで話を聞いていた。
「来たんですね」
「呼んだのは黒瀬さんでしょう」
「そうでした」
冗談なのか本気なのか分からない顔で言う。
「荷物は?」
「これだけです」
「三日分にしては多いですね」
「……三日?」
黒瀬さんが私を見る。
「その話からですか」
「私は、見てから決めるとしか聞いてません」
「俺も、来るとしか聞いてません」
どうやら、お互い説明が足りなかったらしい。黒瀬さんはフロントの男性へ向き直った。
「井上さん、寮の空き部屋の鍵をお願いします」
「はい」
名前を呼ばれた男性――宿泊部長の井上亮平が、カウンターの下から鍵を取り出した。私の顔を見ていた一瞬の間をなかったことにして、館内の簡単な案内と、別棟にある従業員寮の場所だけを説明してくれる。
「試用中はこちらをお使いください。必要なものが足りなければ総務へ」
「ありがとうございます」
鍵を受け取ると、黒瀬さんが先に歩き出した。
「荷物を置いたら、十五分後に一階の事務室へ来てください」
「面接ですか?」
「面接で何を聞けば、厨房が立て直せる人か分かるんですか」
「私に聞かないでください」
「だから、見てもらいます」
歩きながら言われて、私は少しだけ立ち止まりそうになった。展示会の日もそうだった。この人は、私が無実かどうかを判断しなかった。今日も、料理研究家としての経歴を聞こうとしない。見たものだけで決めるつもりらしい。それがありがたいのか怖いのか、まだ分からなかった。荷物を寮へ置き、指定された事務室へ入ると、黒瀬さんのほかに二人の男性が待っていた。一人は、フロントで会った井上さん。
もう一人は、白衣の上から濃紺の前掛けをつけた五十代くらいの男性だった。短く刈った髪に白いものが混じり、腕を組んだまま私を見る目は、歓迎とはかなり遠い。
「料理長の赤坂誠司さんです」
黒瀬さんが紹介した。
「こちらが水瀬千晴さん」
「知ってる」
赤坂さんは短く言った。何を知っているのかは聞かなかった。
「黒瀬さんから、話は?」
「料理研究家を連れてくるとは聞いた」
「料理研究家として呼んだわけではありません」
「じゃあ何屋だ」
黒瀬さんが私を見た。私に答えろということらしい。
「……商品設計と、原価管理と、工程管理をやっていました」
「料理は?」
「作れます。ただ、赤坂さんより上手いとは思っていません」
赤坂さんの眉がわずかに動いた。
「会って五分で、よく分かるな」
「料理長が私より下手だったら、別の問題が起きてると思うので」
井上さんが咳払いをした。黒瀬さんは無表情だったが、目だけが少し細くなった。笑ったのかもしれない。赤坂さんは私をしばらく見てから、腕を解いた。
「で、俺の厨房で何をする」
「まだ分かりません」
「は?」
「見てないので」
私がそう答えると、黒瀬さんが机の上に薄いファイルを置いた。
「それを決めるために、三日です」
「三日で?」
「三日間、厨房と朝食会場と数字を見てください。その間、何か変えたいことがあっても勝手に変えない」
「何も?」
「何も」
「明らかに無駄でも?」
「まず、なぜそうなっているか確認してください」
その言い方に、少し引っかかった。
「私が勝手に変えると思ってます?」
「思ってます」
即答だった。
「展示会で、他社のケータリングなのに台車を仕分けてましたから」
「あれは、捨てなくていいものまで捨てようとしてたからです」
「理由があれば動く人だというのは分かっています。だから先に言っています」
反論できない。
赤坂さんが鼻で息を吐いた。
「三日でうちの何が分かるんだ」
「全部は分かりません」
「じゃあ意味ないだろ」
「全部分かるまで何もしないなら、たぶん何年いても始められません」
赤坂さんの目つきが少し鋭くなった。言いすぎたかもしれない。私は一度息を整えた。
「三日で、問題を全部解決するとは言いません。ただ、何を調べればいいのかくらいは出せると思います」
「数字でか?」
「数字も見ます」
「客は数字じゃねえぞ」
「分かってます」
「本当に?」
今度は答えが少し遅れた。
「……少なくとも、分かっているつもりです」
「その言い方なら、まだマシだな」
赤坂さんが立ち上がる。
「十五時から夕食の仕込みが本格的に動く。邪魔しないなら来い」
歓迎ではない。
でも、追い出されもしなかった。事務室を出る赤坂さんを見送ると、黒瀬さんがファイルを私の前へ押した。
「今日の宿泊予定と、明日の朝食予約の概数です。詳しいものは井上さんから」
「これだけですか」
「まずは」
ファイルを開く。部屋数。人数。夕食の有無。朝食の予約。書式そのものは珍しくない。
「明日の宿泊者六十四人。朝食予約が四十九人」
「現時点では」
井上さんが補足する。
「夕方以降に当日予約が一、二件入ることはあります。素泊まりから朝食付きへの変更もあります」
「最終的な人数は、いつ厨房に伝えますか」
「……朝です」
「朝?」
聞き返した私に、井上さんが少し言いづらそうな顔をした。
「前日の予約表は厨房にも回します。ただ、変更分まで一本化した数字を渡すのは、朝六時ごろです」
「仕込みは前日からですよね」
「はい」
私はファイルから顔を上げた。黒瀬さんと目が合う。彼は何も言わない。
「厨房、見てきます」
立ち上がると、黒瀬さんが言った。
「見るだけです」
「分かってます」
「本当に?」
「……二回言わなくていいです」
厨房へ入る前に、白衣と帽子を借りた。手を洗い、靴を履き替える。赤坂さんは、その一連の動きを何も言わず見ていた。衛生手順を飛ばすようなら、その場で追い返すつもりだったのかもしれない。
「どこまで入っていいですか」
「黄色い線の内側は作業中だ。声かけてから入れ。冷蔵庫は俺か担当を呼べ。勝手に開けるな」
「分かりました」
「あと、写真はなし」
胸の奥が一瞬だけ硬くなった。けれど、赤坂さんは私の過去を責める顔ではなく、厨房のルールを伝える顔をしていた。
「記録用でも?」
「厨房内はなし。必要なら紙に書け」
「それで大丈夫です」
私は小さなノートとペンだけを持った。主厨房は、思っていたより整理されていた。搬入口から検品台、その奥に冷蔵と冷凍の保管、魚の下処理、冷菜、加熱、盛り付けへ続く。洗い場は下げ膳側から別になっていて、客に出した皿と未提供の食材が交差しない。もっとひどい状態を、どこかで想像していた。物が積み上がり、誰も何がどこにあるか分からず、古い厨房だから赤字になっている。そんな分かりやすい答えを。
でも、違った。
「佐伯、明日の朝の焼き物、七十で入れとけ」
「はい」
赤坂さんの声に、若い女性が返事をした。朝食担当の佐伯美月さんだと紹介された。帽子の中へ髪をきちんと収め、手元では魚の切り身を一枚ずつ確認している。私はノートへ書きかけて、手を止めた。
「七十?」
佐伯さんがこちらを見る。
「はい」
「明日の朝食予約、四十九ですよね」
厨房の空気が、わずかに変わった。赤坂さんが作業台の向こうからこちらを見る。
「現時点ではな」
「二十一食分多いです」
「数えりゃ分かる」
「当日の追加で二十人増えることがあるんですか?」
「増えることもある。変更もある。団体の朝食時間がずれることもある」
「でも二十一食は四割以上――」
「水瀬さん」
佐伯さんが、思ったよりはっきりした声で私を止めた。
「四十九ぴったりしか仕込まなかったら、朝になって五十五人来たとき、六人に『ありません』って言うんですか?」
「それは……」
「魚だけじゃないです。卵も小鉢も、ご飯も。追加になったら一つだけ出さないわけにいかないので」
私は口を閉じた。数字だけなら、余裕幅が大きすぎる。でも、佐伯さんが考えているのは廃棄率ではなく、朝七時に席へ座る人の顔だった。
「すみません。減らせと言っているわけじゃないです」
「でも、多いって言いましたよね」
「言いました」
そこで言い訳をしても仕方がない。
「先に理由を聞くべきでした」
佐伯さんが少し目を丸くした。赤坂さんは何も言わず、また包丁へ視線を戻した。
「この七十って、どうやって決めてるんですか」
今度は順番を変えた。
「予約人数に何%足す、とか。曜日別の基準とか」
「そんな細かい式はねえよ」
赤坂さんが答える。
「予約が五十前後なら七十。六十超えてたら八十。満室に近けりゃ九十。あとは前の日の感じだ」
「前の日の感じ」
「連泊が多いとか、家族が多いとか、フロントから聞いた話だ」
「その判断、記録に残ってます?」
「残す必要あるか?」
「後で当たったか外れたか見たいので」
「外れたら残り見りゃ分かる」
理屈は分かる。
でも、それでは「なぜ外れたか」が残らない。私はノートに、七十という数字だけを書いた。その横に、四十九とは書かなかった。今は比べるより、見る方が先だ。夕食の仕込みが始まると、厨房は一気に忙しくなった。私は邪魔にならない位置を探しながら、人の動きより先に紙を見た。壁に貼られた仕込み表。冷蔵庫横の発注メモ。魚の納品伝票。ホワイトボードに書かれた宿泊人数。数字がそれぞれ少しずつ違う。
「この六十二って、今日の宿泊人数ですか」
「昨日の夕方の数字ですね」
佐伯さんが答える。
「では?」
「たぶん六十五くらいだと思います」
「たぶん?」
「夕方の変更はフロントが持ってるので。夕食はもう確定してますけど、朝は明日また聞きます」
私はペン先を止めた。厨房が雑なのではない。数字がないわけでもない。
むしろ、ある。
予約表にも、仕込み表にも、発注書にも、会場側の利用記録にも。ただ、それが同じ時間に同じ場所へ集まっていない。厨房の人たちは、数字が来るのを待っている間に、自分たちの経験で不足を埋めている。その経験が外れた日に、食材が残る。まだ仮説だった。私はノートに線を一本引き、その下へ『情報が遅い?』とだけ書いた。
「何か見つかったか」
いつの間にか赤坂さんが横にいた。
「まだです」
「さっきから書いてるだろ」
「分からないことを書いてます」
「何が分からない」
「厨房が悪いのか、フロントが悪いのか、それとも誰も悪くないのに仕組みだけ悪いのか」
赤坂さんは数秒、私のノートを見た。
「人のせいにしないだけ、テレビの料理研究家よりマシか」
「テレビの料理研究家に何か恨みがあります?」
「朝の情報番組で『家庭でも簡単』って言いながら、ボウル六個使う奴は信用してない」
思わず笑いそうになった。
「それは、ちょっと分かります」
「お前もやってたか?」
「私は洗い物が増えるレシピ、嫌いです」
「じゃあ一個だけ信用してやる」
「一個なんですね」
「まだ一日目だ」
その言葉で、少し肩の力が抜けた。夕方、レストランサービス責任者の森下佳奈さんにも話を聞いた。朝食会場の客数は毎日記録している。料理ごとの細かな残食量までは取っていないが、どの皿が早くなくなったか、何を追加したかは引き継ぎノートへ残しているという。
「厨房にも見せてます?」
「聞かれれば見せます。ただ、毎日回してはいません」
「フロントの予約人数と一緒に見たことは?」
「私はないですね。必要なら井上さんのところで確認する感じです」
また、数字はある。ただ、離れている。今度はすぐに結論を言わなかった。
「今日の分、少し見せてもらってもいいですか」
「どうぞ。昨日までのも残してあります」
森下さんが持ってきたファイルには、朝食の実利用数と、追加で出した料理の記録が日ごとに残っていた。私はページをめくった。
五十二人。
七十一人。
四十八人。
六十三人。
日によって大きく変わる。
「これ、廃棄した量はどこにあります?」
「厨房ですね」
「仕入れは?」
「経理か料理長です」
「予約数はフロント」
「はい」
自分の声が少し速くなったのが分かった。四つの場所に、別々の数字がある。それぞれ必要だから記録しているのに、並べて見ている人がいない。胸の奥で、久しぶりに何かが動いた。疑われた案件の資料を見ていたときとは違う。誰かの責任を証明するための数字ではない。仕事を良くするための数字だ。
事務室へ戻ると、黒瀬さんと、総務経理責任者の植村邦彦さんが待っていた。
「どうでした」
黒瀬さんが聞く。
「資料を見たいです」
「何の?」
「宿泊予約の推移、朝食予約数、実際の利用数、朝食用の仕入れ、廃棄記録。できれば過去三か月」
植村さんが目を瞬いた。
「三か月分ですか」
「はい」
「一つの表にはなってませんよ」
「大丈夫です」
「紙のものもあります」
「むしろ助かります」
自分で言ってから、少しだけおかしくなった。助かる、なんて言葉を仕事に対して使ったのは、いつ以来だろう。黒瀬さんが椅子へ深く座り直した。
「何か分かったんですか」
「まだ分かってません」
「じゃあ、なぜ三か月?」
「一日だけ見ても、今日が普通なのか分からないからです。曜日でも違うでしょうし、連休もある。予約が何人のときに何食仕込んで、実際に何人来て、何がどれくらい残ったのか。まず並べたいです」
「それで赤字の理由が分かる?」
「全部は無理です」
私はそう答えてから、少し考えた。
「でも、朝食が人気なのに赤字になる理由の一つくらいは、見えると思います」
植村さんが黒瀬さんを見る。
「出せます。ただ、廃棄は厨房の月報と日報を突き合わせないと、朝だけ切れない日があります」
「それもそのまま見せてください」
「汚いですよ。手書きも多いし」
「整っている資料だけだと、整っていないところが見えないので」
黒瀬さんが立ち上がった。
「植村さん、出せる範囲でお願いします」
「分かりました」
植村さんが事務室を出ていく。黒瀬さんは私のノートへ目をやった。
「一日目から、ずいぶん楽しそうですね」
「楽しくはありません」
「そうですか」
「……たぶん」
否定しきれなかった。会社から切られて以来、自分の名前が載った書類を見るのが怖かった。仕様書の責任者欄。ニュースの見出し。
検索結果。
名前があるだけで、何かを責められているような気がした。けれど、ここで欲しいのは名前ではない。何人泊まったのか。何人食べたのか。何をいくつ仕入れたのか。何が残ったのか。
それだけだ。
「黒瀬さん」
「はい」
「さっきの三日って、三日後に採用を決めるって意味ですか」
「水瀬さんが、ここで働きたいと思えば」
「私が?」
「俺だけが決める話じゃないでしょう」
思っていなかった返事だった。
「三日間、何も変えずに見てください。そのあと、何を変えるべきだと思うか、赤坂さんたちの前で話してもらう」
「通らなかったら?」
「通る案に直してください」
「不採用じゃなく?」
「正しい案と、現場で使える案は別です」
昼に赤坂さんから言われた『客は数字じゃねえ』が頭に戻ってきた。私は最初から、七十は多いと思った。実際、多いのかもしれない。でも、多いと証明することと、明日の朝から減らしても大丈夫だと厨房の人たちが思えることは、同じではない。植村さんが、両腕にファイルを抱えて戻ってきた。
「まず一か月分。残りは倉庫から出します」
机の上へ置かれた紙の束は、思っていたより厚かった。私は一番上の宿泊集計をめくり、その隣に朝食会場の利用記録を置いた。鉛筆を一本借りる。数字を見ることだけなら、まだ私にもできる。そう思えたことが、今日いちばん大きかった。




