第1話 炎上した料理研究家
「水瀬さん、この料理、盗作なんですか」
まだ発表会の照明が落ちてもいないのに、そんな声が飛んできた。私は、自分が何を盗んだことになっているのかさえ分からなかった。
十月十四日。都内の大型ホテルで開かれていたホテル・外食産業向けの商談展示会は、午後の新商品発表を迎えていた。壇上には、私と婚約者の橘圭吾が共同監修した新商品の写真が大きく映っている。白い皿の中央に炙った魚、淡い色のソース、その脇に柑橘と香草。圭吾が見た目と味を組み立て、私はそれを店舗で何百食と出せる仕様へ落とし込んだ。つい数分前まで、私は試食台の横でスタッフに声をかけていた。
「三番の皿、ソースが少し分離してます。差し替えをお願いします。あと、ナッツ使用の表示札が一枚ずれてます」
「すみません、すぐ直します」
「まだお客様には出ていないので大丈夫です。焦らなくていいですよ」
スタッフが走っていくのを見送り、私は残数を書き込んだ進行表へ目を戻した。試食予定数と、すでに出た皿の数。予備は二十四。登録来場者とプレスの人数を考えても足りる。料理研究家、と呼ばれる仕事を始めて三年になる。けれど、人がまだ見たことのない一皿を次々と生み出す才能なら、私より圭吾の方がずっと上だった。香りをひとつ足しただけで料理の輪郭を変えることも、白い皿の余白まで味方につけるような盛り付けも、私は彼ほど上手くない。私が得意なのは、その後だった。
一皿に何グラム使うのか。百食作るなら仕入れはいくつ必要か。価格が上がった食材をどこまで置き換えられるか。誰が作っても味がぶれないよう、どの工程まで数字にするか。店が忙しい時間帯に、一人の料理人へ作業が集中しない順番はどれか。華やかではない。テレビで話しても絵にならない。それでも私は、その仕事が好きだった。
「千晴」
ステージ袖から圭吾が呼んだ。三十歳。すっきりと整えた黒髪に、白いコックコート。人前へ出るときの圭吾は、厨房にいるときより背筋が伸びて見える。カメラの前でも声がぶれず、料理を説明するときだけ少し早口になる癖を、私はずっと隣で見てきた。
「次、フォトセッションだって」
「分かった。試食はあと二十四あるから大丈夫」
「……よくすぐ出るな、その数字」
「さっき数えたから」
圭吾は苦笑した。
「俺なら料理の味は覚えてても、皿の数までは覚えてない」
「だから私がいるんでしょう」
「そうだな」
何でもないやり取りだった。圭吾が前に立つ。私はその隣か、少し後ろに立つ。商品が売れれば、どちらの名前が大きく出ても構わない。二人で作った仕事なのだから、それでいい。少なくとも、そのときの私は本気でそう思っていた。
壇上へ出て、司会者の紹介を受けた。圭吾が料理の着想を話し、私は量産時の工程と品質管理について答えた。質問はいつも通りだった。冷蔵状態での品質はどれくらい保てるか。店舗ごとの設備差に対応できるか。アレルギー表示はどう整理したか。最後の質問へ移ろうとしたとき、前列の一人がスマートフォンを持ったまま立ち上がった。
「水瀬さん、この料理、盗作なんですか」
会場が静まった。司会者が何か言おうとしたが、その前に別の声が飛んだ。
「地方のレストランのメニューと、ほとんど同じだと投稿が出ています」
「許可は取っているんですか」
ステージ脇のスタッフが慌ただしく動き出す。圭吾が私を見る。私は何も答えられなかった。
盗作。
その言葉だけは理解できる。けれど、何の話をされているのかが分からない。
「申し訳ございません。ただいま確認いたします」
司会者が強引に発表会を締め、私たちはスタッフに促されてステージを降りた。袖へ入ったところで、制作スタッフの一人がスマートフォンを差し出した。若い女性の手がわずかに震えている。
「これです」
画面には料理写真が二枚並んでいた。左が、今日発表した新商品。右が、地方の小さなレストランが以前から出している料理。使っている魚は違う。ソースの色も、細部の盛り付けも違う。それでも、皿の中央へ主素材を置く角度、柑橘の位置、香草の散らし方まで並べられると、偶然と言い切るには似すぎて見えた。投稿の上には短く、『これ、さすがに似すぎじゃない?』とある。更新するたびに数字が増えていく。
「元のお店は?」
「いま会社側で確認しています」
私は写真を拡大した。この形の料理を、私はゼロから考えていない。私が案件へ入ったときには、すでにベースになる案があった。私はそこから、一食あたりの分量を調整し、高価すぎる材料を一部置き換え、店舗で破綻する工程を削り、食品表示と保存条件を整理した。
「圭吾」
「ああ」
「最初の案、どこから来たか覚えてる?」
「最初の案?」
「私が入る前。料理の基本形はもう決まってたでしょう」
圭吾が画面へ目を落とした。
「プロデューサーからじゃなかったか」
「誰が持ってきたの?」
「そこまでは覚えてない」
そこへ、会社の担当者が駆け込んできた。
「お二人とも、控室へお願いします。次の取材は止めます」
「全部ですか?」
「全部です。発表会もここで中止します」
つい数分前まで、試食の感想を笑って話していた人たちが、こちらへスマートフォンを向けていた。同じカメラなのに、意味だけが変わっていた。控室のテーブルには、ほどなく一枚の書類が置かれた。新商品の最終レシピ仕様書。私が何十回も修正したものだ。材料名、分量、工程、保存条件、表示項目。その最下部に、商品仕様責任者として私の名前がある。
「この仕様書は、水瀬さんがまとめていますね」
担当者が確認する。
「はい。最終仕様は私です」
「レシピも水瀬さんが?」
「量産用のレシピです」
「違いが、ちょっと……」
言いづらそうにされたことで、逆に頭が冷えた。
「元になる一皿を考えることと、それを千食、万食作れる商品へ変えることは別です。私は後者を担当しました」
「でも、書類上の責任者は水瀬さんですよね」
「最終仕様については、そうです」
私は仕様書を指で押さえた。
「初期企画書を確認してください。最初の企画会議の議事録も。私がこの案件に入る前の版が共有クラウドに残っているはずです」
「いま確認しています」
「私の参加日も履歴で分かります」
「水瀬さん」
別の社員が口を挟んだ。
「現時点では、社外へ何を説明するかを先に整理させてください」
「説明するために、経路が必要なんです」
「もちろんです。ただ、関係先が多いので」
「元のお店と契約があるなら、その契約も確認できますよね」
「確認します」
返事だけが重なっていく。私は隣の圭吾を見た。
「最初の打ち合わせ、出てたよね」
「何回かは」
「誰が案を持ってきたか、本当に覚えてない?」
「今ここで、曖昧な記憶を断言する方がまずいだろ」
正しい。
だから、それ以上は聞けなかった。会社が最初に出した発表は、『現在、事実関係を確認しております』という短いものだけだった。発表会は中止。取材もすべて延期。私たちは来場者のいる通路を避けて帰るよう言われた。荷物を取りにサービス側へ回る途中、搬入口へ続く通路で私は足を止めた。台車が何台も並び、発表会で使われる予定だった食材と備品が厨房へ戻されている。中止が急だったせいで、未使用の箱と使いかけの容器が一緒になっていた。
「これは廃棄でいいです」
スタッフの声が聞こえた。
「待ってください」
気づけば、私は台車へ近づいていた。
「その箱、今日お客様の前に出しました?」
「え? あ、いえ。予備です」
「開けてませんよね」
「はい」
「じゃあ、廃棄と一緒にしない方がいいです」
台車には未開封の乳製品、切っていない柑橘、密閉容器に入った下処理済みの食材がある。私は一つずつ状態を確認した。
「これ、保冷から出したのはいつですか」
「三十分くらい前です」
「戻した時刻を記録できます?」
「できます」
「未開封と開封済みを分けてください。未開封は戻せます。こっちは温度を確認して、記録が取れないものは使わない方がいいです。盛り付けまでした料理はもちろん戻せません」
空いていたメモ用紙を借り、私は台車ごとに札を作った。
未開封。
開封済み・温度確認。
廃棄。
翌日使用の可否は厨房責任者判断。全部を救う必要はない。安全性が曖昧なものを惜しんで使うのは、節約ではなく事故の種だ。それでも、使えるものまで同じ袋へ入れてしまう必要はない。
「こういう時まで、それを見るんですね」
背後から男の声がした。振り向くと、サービス通路の壁際に背の高い男が立っていた。黒いスーツは展示会の来場者の中では珍しくないのに、腕を組むでもなく、ただ台車と私の手元を見ているせいか妙に目につく。胸の来場者証には、黒瀬冬馬という名前と『ホテル汐風館』の文字があった。
「……それって、食材のことですか?」
「そうです」
「もったいないので」
「料理研究家は、片付けまで見るものなのかと思って」
「これは片付けじゃありません」
「違うんですか」
「在庫です」
そう答えると、黒瀬さんは初めて少しだけ眉を上げた。
「今日使わなかったからって、全部ゴミになるわけじゃありません。でも、使えそうに見えても温度管理が分からないなら使わない。その線を分けておかないと、明日の人が判断できませんから」
「なるほど」
彼の視線が、分けられた台車へ動く。
「ステージでは料理の話をしていた」
「見てたんですか」
「途中まで」
最悪のところまで見られた、と思った。黒瀬さんは私の顔を少し見てから、淡々と言った。
「盗作かどうかは、俺には分からない」
「……はい」
「だから、そこは評価しない」
慰めでも、責める言葉でもなかった。
「ただ、中止が決まったあとに、誰も見ていない場所でこれをやる人なのは分かった」
差し出された名刺を、私は反射的に受け取った。黒瀬冬馬。ホテル汐風館、代表取締役兼総支配人。
「水瀬千晴です」
「知ってます」
「……でしょうね」
乾いた声が出た。黒瀬さんは笑わなかった。
「うちのホテル、朝食の評判はいいんです」
「はい?」
「でも、料飲部門は赤字です。特に朝がひどい」
私は思わず彼を見た。
「評判がいいのに?」
「ええ」
「それは、変ですね」
言った瞬間、自分でも嫌になるほど自然に頭が動いた。宿泊人数と朝食利用率が合っているのか。仕込み量は予約に連動しているのか。品数を維持するために少量ずつ大量の食材を抱えていないか。廃棄はどれくらい出ているのか。早番の人数は。黒瀬さんが、私の顔を見ていた。
「料理を作る人は、足りてます」
「……では、何の話ですか」
「厨房を立て直せる人なら欲しい」
「今、それを私に言ってます?」
「はい」
「私がどういう状態か分かってますよね」
「展示会へは、うちの仕入候補を探しに来ました。発表前からここにいたので、報道だけを見て声をかけたわけじゃない」
そう言われても、すぐに受け取れる話ではなかった。
「今すぐ返事はいりません」
黒瀬さんは私の手の中の名刺へ視線を落とした。
「いらなければ、捨ててください」
そのまま一礼して、彼はサービス通路の向こうへ歩いていった。私は名刺を見た。
ホテル汐風館。
知らない名前だった。だからバッグの内ポケットへ入れたのも、捨てる場所が近くになかったからだ。そのときは、そういうことにした。
◇
一週間後、会社の会議室には、私の最終仕様書がもう一度置かれていた。前回と違うのは、向かいに座る人の数が増えていたことと、誰も私へコーヒーを勧めなかったことだった。
「当面、水瀬さんには監修、出演、イベント参加を含むすべての案件から外れていただきます」
担当役員は、紙面からほとんど目を上げずに言った。
「調査が終わるまで、ですか」
「現時点では、その予定です」
「初期企画の経路は確認できましたか」
返事が一拍遅れた。
「継続調査中です」
「共有クラウドの版履歴を見れば、少なくとも私が参加した時期は分かるはずです」
「水瀬さん」
「はい」
「いまは事実確認だけでなく、ブランド全体への影響も考えなければなりません」
私は膝の上で指を組んだ。
ブランド全体。
何度も聞いた言葉だった。商品だけではない。圭吾の店、撮影スタッフ、取引先、流通、広告。ひとつの企画が止まれば、困る人は大勢いる。私がここで強く争えば、もっと広がるのかもしれない。
「……分かりました」
そう答えた自分の声を聞いて、少しだけ安心した。いつも通りにできたと思ったからだ。迷惑を増やさない。確認が終わるまで待つ。必要な資料が出れば、誤解は解ける。会議が終わる直前、総務担当者から言われた。
「情報管理上、社内クラウドと業務メールのアクセス権は本日から停止します。今後の連絡は私用メールへ送ります」
「履歴を私が確認することは?」
「必要資料は会社側で保全します」
「私が持っている資料を提出する場合は?」
「窓口へ送ってください。ただし、社内資料を個人判断で外部公開しないようお願いします」
「分かっています」
守秘義務は、疑われたから消えるものではない。それでも、会社を出たあとでスマートフォンに届いた公式発表を読んだ瞬間、初めてその言葉が鎖のように思えた。
『当該商品につきましては、商品開発担当であった水瀬千晴氏個人から持ち込まれた企画をもとに制作されたことを確認しております』
駅へ向かう歩道の途中で、私は立ち止まった。
一度読んだ。
二度目で、指先が冷えた。私個人から持ち込まれた企画。
違う。
私は持ち込んでいない。画面を閉じようとして、関連ニュースの見出しが目に入った。
『盗作疑惑の料理研究家・水瀬千晴、会社が関与認める』
会社は、私の関与を認めたのではない。私に起点を置いた。けれど、見出しになればそんな違いは消える。駅の改札を通れず、私は壁際へ寄った。圭吾へ電話をかける。三回目の呼び出し音でつながった。
『千晴』
「会社の発表、見た?」
向こうで小さく息を吸う音がした。
『見た』
「私が持ち込んだ企画じゃないよね」
『……今、電話で話すのはやめよう』
「どうして」
『店にも問い合わせが来てる。こっちも混乱してるんだ』
「圭吾」
『今日、閉店後に来られる? ちゃんと話そう』
私はすぐには返事をしなかった。
「あなたは分かってるよね」
『何を』
「私が途中から入ったこと」
数秒の沈黙。
『……それは分かってる』
その一言で、胸の奥の硬いものが少し緩んだ。
「なら、会社に――」
『でも、最終仕様の責任者は千晴だ』
緩んだものが、今度は別の形で固まった。
「それは量産仕様の責任者」
『分かってる』
「同じじゃない」
『分かってるって。だから、会って話そう』
「……分かった」
電話を切る。
駅前を大勢の人が通り過ぎていく。私だけが止まっているように感じた。
◇
その夜、圭吾の店は閉店後も厨房の灯りだけが残っていた。客席は半分まで照明を落としてある。私は窓際のテーブルに座り、圭吾が向かいへ座るのを待った。この席で、何度食事をしただろう。新しい店を出したいという話を聞いた。テレビの初出演が決まった日には、閉店後に二人で安いスパークリングワインを開けた。来年の結婚式を、身内だけにするか仕事関係者も呼ぶかで揉めたのもここだった。その同じテーブルで、圭吾は長い時間、手を組んだまま黙っていた。
「千晴」
「うん」
「しばらく距離を置いた方がいいと思う」
「仕事の話?」
「全部」
言葉の意味が追いつくまで、少し時間がかかった。
「全部って」
「俺たちのことも」
「……婚約も?」
「今この状態で結婚の話を続けても、お互いしんどいだろ」
「私はしんどいけど、圭吾との結婚が原因じゃない」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、どういうこと?」
圭吾は、すぐには答えなかった。
私は待った。
「俺の店にも予約キャンセルが出てる。番組も二本止まった。取引先からも連絡が来てる」
「うん」
「店のスタッフは関係ない。あいつらまで巻き込むわけにいかない」
「それは私もそう思う」
「だから今は、俺たちが一緒にいること自体が余計な燃料になる」
理屈は分かった。分かってしまうのが嫌だった。私はずっと、人が困る理由を先に考える癖がある。
「会社の発表は、訂正してほしい」
圭吾がわずかに顔を上げた。
「俺に?」
「圭吾も共同監修者でしょう。私一人が持ち込んだ企画じゃないことは知ってる」
「俺が勝手に会社の発表を訂正できるわけじゃない」
「でも、違うって言うことはできる」
「今それを言ったら、じゃあ俺が盗作したのかってなる」
その瞬間だけは、考えるより先に言葉が出た。
「私は今、そう言われてるよ」
圭吾が黙った。
大きな声は出なかった。怒鳴りたいとも思わなかった。ただ、目の前の人が急に遠くなった。
「……悪い」
「何に対して?」
「全部だよ」
「全部じゃ分からない」
「千晴」
「私、本当に持ち込んでない」
「分かってる」
「だったら、どうして黙ってるの?」
圭吾は視線を落とした。答えはなかった。その沈黙で十分だった。知らないわけではない。分からないわけでもない。圭吾は選んでいる。私の隣に立つことより、自分の店と仕事へ火が移らないことを。それが卑怯だと簡単に切り捨てることもできなかった。店には従業員がいる。予約している客がいる。取引先もある。圭吾だけの生活ではない。でも、だからといって、私が一人で立つ理由にはならない。左手の薬指に触れた。
指輪を外す。
長く着けていたはずなのに、金属は驚くほど簡単に抜けた。テーブルの上へ置くと、小さな音がした。
「分かった」
「千晴」
「距離を置こう」
「今すぐ決めなくてもいい」
「圭吾が言ったんでしょう」
「そうだけど、婚約まで今日決める話じゃ――」
「じゃあ、私は何を待てばいい?」
圭吾が言葉を失う。
「会社が訂正してくれるまで? みんなが忘れるまで? それとも、圭吾の店に影響がなくなるまで?」
「そういう言い方するなよ」
「じゃあ教えて」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「私、いつまで待てば、あなたの隣に立っていいの?」
圭吾は答えなかった。私は指輪から手を離した。
「今まで、ありがとう」
「そんな終わり方するなよ」
「じゃあ、どう終わればいい?」
今度も答えはなかった。
店を出ると、十月の夜気が思っていたより冷たかった。左手だけが軽い。駅まで歩く途中、何度かバッグの中でスマートフォンが震えた。通知は見なかった。
◇
翌朝、社内クラウドへログインしようとすると、『アカウントが無効です』と表示された。分かっていたことなのに、その文字を実際に見ると、昨日まで自分の仕事だったものへ扉を閉められたように感じた。私はノートパソコンを閉じた。
テーブルの上には、会社から持ち帰った私物がいくつか置かれている。使い込んだ電卓、付箋、試作時に使っていた小さなノート。どれも仕事道具なのに、次に使う場所がない。スマートフォンの通知は切った。カーテンもまだ開けていない。何か食べようと思って冷蔵庫を開けた。
卵。牛乳。半分残った玉ねぎ。人参。小さな容器に残った作り置きのスープ。賞味期限を見る。牛乳は明日まで。人参はまだ持つ。玉ねぎは切り口を包み直した方がいい。気づけば私は、冷蔵庫の中身を手前から並べ直していた。自分でも笑いそうになる。
仕事もなくなった。婚約も終わった。ネットでは、会ったこともない人たちが私を泥棒と呼んでいる。それなのに私は、玉ねぎの切り口を気にしている。昔からそうだった。分からないことが増えると、分かるものを並べたくなる。
いつ使うか。
どこへ置くか。
何が先か。
冷蔵庫の中くらいなら、まだ順番を決められる。牛乳を奥へ戻したとき、母の冷蔵庫を思い出した。共働きだった母は、料理が特別上手な人ではなかった。日曜日になると鍋をいくつも使って一週間分のおかずを作り、冷蔵庫の扉へ献立を書いた紙を貼っていた。
『これがあると、お母さん楽なんだよ』
子どもの私は、その紙が料理より大事だとは思わなかった。今なら、少し分かる。毎日を回すには、作ること以外にも必要なものがある。冷蔵庫の扉を閉める。玄関へ目をやると、昨日着ていたコートのポケットから白い紙が少しだけ覗いていた。
取り出す。
名刺だった。
黒瀬冬馬。
ホテル汐風館。
代表取締役兼総支配人。一週間前のサービス通路がよみがえる。
『盗作かどうかは、俺には分からない』
あの人は、私を信じるとは言わなかった。大丈夫だとも言わなかった。ただ、誰も見ていないところで私がやっていたことだけを見ていた。
『厨房を立て直せる人なら欲しい』
私は名刺の裏を見た。何も書かれていない。汐風館というホテルがどこにあるのかさえ、まだ知らない。仕事が欲しいのかと聞かれれば、欲しい。でも、有名料理研究家として拾ってほしいわけではなかった。少なくとも、今はその名前から一番遠いところへ行きたかった。
名刺を捨てようとして、ゴミ箱の前で手が止まった。厨房を立て直す。料理を作れ、ではない。その言葉だけが、妙に残った。私は名刺を、冷蔵庫の扉に貼った献立表を見るような気持ちで、もう一度読み直した。そして、捨てずにテーブルの端へ置いた。




