第48話 湯煙の采配、帰還兵を癒やす郷の温もり
元和六年(一六二〇)の夏。
大坂城の狂騒に満ちた天下普請の第一期現場を巡察し、我が日野江藩の盤石な体制を整えて国元へと戻った俺は、休む間もなく城内の広間に家臣たちを召集し、評定を開いていた。
開発・作事奉行の福井文右衛門と兵站奉行の瀬尾忠次が定めた通り現地の大坂に残り、最前線の指揮と物資輸送の舵取りを続けているこの日野江の広間には、国元で藩政を支える重臣たちがずらりと並んでいた。
内政および軍事を統括する筆頭家老の桑名吉成、行政と総括を担う家老の古市三郎左衛門、農政および殖産興業を束ねる田代五郎右衛門、、そして治安維持と実戦の指揮を任された渡辺源五――藩の根幹を支える顔ぶれである。
「大坂の現場においては、文右衛門と忠次が先頭に立ち、我が藩の割り当て区画を寸分の狂いもなく進めている。三月をひと区切りとした人員の交替制も、海上輸送の道行きと完全に噛み合っているとの報せが届いた」
上座に腰を下ろした俺の言葉に、筆頭家老の桑名吉成が深く頷き、隣で田代五郎右衛門が手元の記録に目を走らせる。
(――史実の西国大名たちは、この過酷な天下普請で莫大な借金を背負い、領民に過重な税を課して疲弊させていった。だが、我が日野江藩はその逆を行く。富を吸い上げるのではなく、循環させ、民の足元を強固にする。それが結果的に藩の総合力を高めることにつながるのだ)
俺は静かに視線を巡らせ、家老である古市三郎左衛門を見据えて明確な命を下した。
「三月ごとに現地から最初の交替で藩兵や人足たちが戻ってくる。それまでに、国元である島原の地に――いや、口之津、日野江、島原の三ヶ所に、彼らの骨身に沁みた労苦をねぎらい、疲れた体を存分に休めるための湯治場と足湯を急ぎ構えよ」
「湯治場……でございますか?」
古市三郎左衛門が驚いたように目を丸くし、聞き返す。当時の武家社会において、温泉といえば負傷や病の治療のための隠れ湯としての意味合いが強く、それを藩主が自ら音頭をとって大々的な施設として民や兵のために整えるなど、前代未聞の沙汰だった。
「そうだ。雲仙や小浜に湧く豊かな源泉の恵みを、命がけで藩のために働く兵たちや藩士、そして日々の生業に励む領民たちにも広く開放する。ただの小さな湯小屋ではない。誰もが気軽に立ち寄れる広間を備えた共同の湯を作り、さらに道すがらに足の疲れを瞬時にほぐせる『足湯』の設えもあちこちに用意せよ。彼らが大坂の地獄のような泥仕事から戻ったとき、故郷の温かい湯が出迎えてくれる環境を作るのだ」
三月の期限――それは、現地で3ヶ月間奮闘する最初の組が役目を終えて国元へ戻ってくるまでの絶対的なタイムリミットだった。古市はすぐにその政治的・福利厚生的な意味合いを察し、引き締まった表情で深々と一礼する。農政を担当する田代五郎右衛門も「なるほど、領民の休養と結びつけることで郷の生産性も大いに高まりましょう」と大きく頷く。
しかし、現実に目を向ければ別の難題があった。
「殿、ご下命の趣旨、しかと承りました。湯治の効用により兵たちの骨身の労苦をねぎらい、あわせて領民たちの身心をも健やかに保つうえで、これ以上の良策はございませぬ。ですが……一つ懸念がございます」
筆頭家老の桑名吉成が、険しい表情で腕を組んだ。
「我が藩の若壮年の藩兵や人足たちの多くは、現在大坂城の天下普請に駆り出されております。国元に残る者たちだけでは、これほどの規模の大作事を、三月の限られた期間内に成し遂げるだけの十分な人手が確保できるかどうか……」
広間に重い沈黙が落ちる。大坂の天下普請に多くの人手を割いている以上、国元での大作事を進めるには物理的な人手不足という壁があった。
だが、俺には最初からその障壁を打ち破るための算段があった。
(――現代の公共事業と同じだ。人手不足なら、適正な対価を払って雇用を生み出せばいい。タダ働きや強制動員が横行するこの時代において、「働けばしっかり稼げる」という仕組みこそが、民の労働意欲を最大限に引き出す最上の特効薬となる)
「心配いらん、吉成。働き手が足りないのであれば、領民たちに手を貸してもらえばいい」
「領民に、でございますか?」
「そうだ。ただし、私曲に走る無報酬の夫役などではない。この湯治場は、やがては大坂から戻る兵たちだけでなく、日々の生業に励む領民たち自身が末永く利用するためのものだ。ゆえに普請に加わる者には、他所の天下普請のような過酷なしわ寄せを負わせず、働きに応じた十分な銀銭を給金として手厚く支払う」
その言葉に、田代五郎右衛門が目を見開いた。
「働きに応じた銀銭を給金としてお出しくだされるか! 我が藩では日頃より四公六民の御政道を敷き、民の蓄えに配慮してまいりましたが、そこに藩の作事による確かな銀子がもたらされれば、冬の農閑期を迎える農民たちにとっても願ってもなき仕合せにございます。藩の蓄えより正当な給金をくだされば、国中の者どもが喜んで鍬を取り、驚くほどの数が馳せ参じるに違いありません」
「その通りだ。ただ働きを強いるのではなく、藩の事業で稼ぎを得つつ、自分たちも使える極上の湯場が手に入るととなれば、領民たちの士気も上がろう。五郎右衛門、すぐに各村の庄屋を通じ、口之津、日野江、島原の三ヶ所での普請に参加する者を募れ。年齢や性別に関わらず、石運びや木材の切り出し、土木作業の適性に応じた仕事を割り当て、もちろん給金は滞りなく日ごとに渡すと伝えよ」
「はっ! 直ちに村々へ触れを出します。殿、自らが民の暮らしと労苦を思召されていると知れば、領民たちの喜びもひとしおに違いありません」
こうして、日野江藩における前代未聞の「福利厚生を兼ねた大公共事業」が動き出した。
評定の翌日から、島原半島の一帯はにわかに活気づき始めた。
主力となる若い男手の一部こそ大坂の城普請に取られているものの、田代五郎右衛門の迅速な手配により、周辺の村々から予想を遥かに上回る数の農民や町民たちが自発的に集ってきた。
「おい、聞いたか? 殿が、俺たちがいつでも入れる温泉の立派な湯屋をここと島原、そして口之津に作るそうだぞ」
「温泉って、あの雲仙や小浜のか? あんな有難い湯に、俺たちのような百姓が気軽に入れるようになるのかよ」
「しかもだ、ただ働かされるのとは違う。ちゃんと銀銭を出して、働いた分だけしっかり給金を払ってくれるってよ!」
「なんだって!? 天下普請じゃ人足はタダ働きかこき使われるって聞いてたのに、お上の作事でお金がもらえるなんて聞いたことがねぇぞ!」
口之津の海岸通りや、日野江の城下から温泉へ向かう山道の一帯では、集まった男や女たちが鍬や唐鍬を手に、驚きと期待の入り混じった雑談を交わしながら作業に精を出していた。
子供たちも小枝を拾い集めたり、測量の手伝いをしたりと、お祭り騒ぎのような活気に包まれている。過酷な重税や疲弊とは無縁の我が日野江の郷では、自分たちの生活がさらに豊かになる実感と明るい笑い声が満ちていた。
普請現場では、村の古老や腕っこきの大工たちが中心となり、豊富な湯量を誇る源泉から竹筒や木樋を使って湯を引く難工事に挑んでいた。
「おい、そこの木樋の繋ぎ目に麻縄をしっかり巻き付けろ! 湯が途中で漏れたら熱くて使い物にならんぞ!」
「へい! こっちはしっかりと麻を詰めて固めてます!」
土を掘り起こし、石を積み上げ、湯船の形を整える作業は決して楽なものではない。しかし、汗を流す農民たちの顔には疲労の色よりも、自分たちの手で自分たちのための施設を作り上げているという誇りと活気が満ちていた。
「これを仕上げれば、大坂から帰ってくる若造どもが『うおっ、故郷にすげえ湯ができたぞ!』って腰を抜かすに違いねぇな」
「ははっ、俺たちの息子も三月で交代して戻ってくる頃だ。たっぷり労ってやらねぇとな」
そんな笑い声が、湯気立ち始める現場のあちこちから聞こえてくる。
(――国元がこれほどの熱気と一体感に包まれている今、大坂の最前線も決して緩めてはならない。文右衛門や忠次が築いた足場を引き継ぎ、我が藩の優位性をさらに盤石なものとするための布陣が不可欠だ)
国元での温泉建設と民の活気が最高潮に達する中、大坂へ赴く次なる交替要員の準備も着々と進められていた。
(交代の要員は古市三郎左衛門と渡辺源五だ)
治安維持奉行として日頃から藩内の引き締めと武芸を仕切ってきた渡辺源五が、一歩前に進み出て鋭い眼光を光らせた。
「お任せください、殿! 現地で任にあたる文右衛門や忠次と交代し、あのざわめく大坂へと赴きます。他藩の無様な小競り合いや我が藩の利権を狙う不心得者がおれば、この源五が容赦なく叩き伏せ、陣中の静謐と手勢の警衛を厳に守り抜いてみせます」
国元では筆頭家老の桑名吉成と農政の田代五郎右衛門が盤石な藩政と湯治場建設を仕切り、大坂の最前線には古市三郎左衛門と渡辺源五という頼もしい二人が赴いて文右衛門、忠次らと交代し、現地を完全に掌握する。日野江藩の現在の陣容を完璧に活かした、見事な采配である。
そして――三月の月日が流れた。
寒くなった風が島原の城下を渡る頃、大坂城での過酷な第一期普請をやり遂げた藩士や藩兵、そして人足たちが、ついに待ちに待った国元へと帰還を果たした。
先頭に立ち、大坂城での普請を無事に完遂させた福井文右衛門と瀬尾忠次も、交代の古市三郎左衛門らに後事を託し、晴れやかな顔で日野江城の門をくぐった。日焼けし、泥と汗の染み込んだ鎧や衣服をまとった者たちの顔には、大坂の地獄のような泥仕事を耐え抜いた誇りと、故郷へ戻ってきた深い安堵の色が浮かんでいる。
城の広場に勢揃いした帰還兵や人足たちの前に、俺は自ら進み出て立った。集まった者たちは、藩主である俺の姿を見るやいなや一斉に膝をつき、深く頭を垂れる。
「よくぞ戻った! 大坂の荒波にもまれ、天下の普請場を寸分の狂いもなく支え抜いたお前たちの働き、しかと見届けておる。その骨身に沁みた労苦、本当によく耐えてくれた。見事な働きであった!」
俺が温かく声をかけると、最前列に控えていた福井文右衛門と瀬尾忠次が感極まった面持ちで顔を上げた。
「殿……! 遠く離れた大坂の地にて、ただひたすらに我が藩の誇りとご期待に応えんと突っ走ってまいりましたが、こうして温かなお言葉を直接いただけるとは……これ以上の栄誉はございません!」
文右衛門の目には光るものが浮かび、忠次も深くうなずきながら感涙をこらえている。その後ろに続く兵たちや人足たちからも、「うぅ……!」と感泣する声があちこちから漏れた。
他藩であれば、使い捨ての道具のように扱われてボロボロになって戻るだけの天下普請において、藩主自らが城の庭に立ち、一人ひとりの労苦をねぎらってくれるなど、彼らにとって夢にも思わないことだった。
俺は静かに笑みを浮かべ、さらに続けて明確な沙汰を下した。
「これより帰還した者たちには、十日間の暇を与える! 家族の元で心身を存分に休めるがいい。さらに、大坂での労をねぎらい、特別の一時金として銀銭と酒、物資を与える。それだけではない。お前たちが留守の間に、国元の口之津や日野江、島原の地に、日々の労苦を癒やし体を存分に休めるための真新しい『湯治場』と『足湯』を普請し、すでに完成させておいた。存分に疲れを洗い流してこい!」
その言葉を聞いた瞬間、帰還した者たちは
「湯治場ができただと……?」
「俺たちのために新しく温泉が……!」
と目を丸くし、次いで広場を埋め尽くす藩士や人足たちから、
「おおっ……!」という割れんばかりの歓声とどよめきが巻き起こった。
「十日間の休みだけでも夢のようなのに、お上の湯屋ができてやがるとは……!」
「しかも酒まで振る舞われるなんて聞いたことがねぇぞ!」
広場の片隅では、数ヶ月ぶりに夫や息子と再会を果たした家族たちが抱き合い、涙を流して喜ぶ姿があちこちに見られた。過酷な労役の疲れは、その瞬間にすべて吹き飛んだかのように、笑顔と歓喜の渦が城内を包み込んでいく。
数日後、国元に新しく完成した日野江や口之津の湯治場は、大坂から戻った男たちやその家族で連日大賑わいを見せていた。
白く立ち込める湯気の中、心身の疲れを癒やしながら
「いやあ、あの泥だらけの苦労が報われたなぁ」
「殿のおかげで、こんな極楽のような湯に浸かれる日が来るとはな」
と酒を酌み交わし、明るい笑い声を響かせる領民たちの姿がある。
大坂の激動と、国元の温かな民政。二つの車輪が完璧に噛み合い、我が日野江藩は名実ともに鉄壁の結束と豊かな活力を手に入れたのだった。




