第45話 大坂の嵐と、備えの算段
元和五年(一六一九)春
春うららかな風が城内を抜ける頃、江戸の藤堂高虎公の屋敷から、厳重な封印が施された一通の書状が日野江藩へと届いた。
封を開いた俺は、そこに記された力強い筆跡に目を細める。
『近聞、江戸および上方の情勢は穏当ならず。松平忠明殿の大和郡山への移封が内定し、大坂は完全に幕府の直轄地(天領)となる見通し。もはや次の大事業が避けられぬことは明白である。かつての豊臣の足跡を完全になくし、真の徳川の世を示すための「城」の再築――すなわち大坂城の天下普請がいよいよ現実味を帯びてきた。遠国にあっても、不測の事態に備え、諸々の覚悟と算段を怠るでないぞ』
高虎公の筆跡で綴られていたのは、西国の諸大名がまだ水面下の噂としてしか捉えていない、幕府の次なる巨大プロジェクトを見据えた冷静な情勢分析と、身内に対する重い忠告だった。表向きは徳川の譜代として冷徹に天下を差配する築城の名人でありながら、かつて自分を支えてくれた元・義父でもある高虎公は、差し迫る大嵐の気配をいち早く知らせてきていたのだ。
(――やはり史実通りか……。高虎公の分析通りであれば、来年早々にも徳川秀忠公より大坂城再建の正式な普請令が下るはずだ)
徳川幕府が西国の押えとして大坂を直轄地とし、豊臣の影を完全に埋め潰して新たな城を築く――その歴史の大きな歯車が、まさに音を立てて動き出そうとしていた。前世の記憶という最大の武器を持つ俺にとって、この未来予測こそが、他藩を圧倒するための最強の礎となる。
「誰ぞある!!家老と奉行を集めよ」
俺の力強い声に呼応し、傍らに控えていた小姓が「はっ!」と大きく平伏し、すぐさま駆け出していった。
しばらくして、重臣たちが静かに俺の執務部屋へと通された。
筆頭家老・桑名吉成、家老・古市三郎左衛門、さらに開発・作事奉行福井文右衛門、農政・殖産奉行田代五郎右衛門、兵站奉行の瀬尾忠次、そして治安維持と実戦指揮を司る渡辺源五。日野江藩の頭脳と剣を担う面々が、俺の執務部屋に集まった
広間に満ちた静寂の中、集まった重臣たちは主座に座る俺に向かって一斉に平伏した。
「かまわん、面をあげてくれ」
俺は手元の藤堂高虎からの書状を静かに置き、集まった家臣たちをゆっくりと見回した。その眼差しには、これから始まる天下という名の荒波を乗り切るための、揺るぎない覚悟が宿っていた。
「皆、よくきてくれた。江戸の藤堂高虎公より書状が届いた。天下の情勢はいよいよ動く」
俺の言葉に、重臣たちの背筋がピシリと伸びる。誰もが呼吸を潜め、次の一言を待っている。
「幕府は豊臣の残香を完全に断ち切るため、大坂城の再築――すなわち天下普請を間もなく発令する。松平忠明殿の国替えを機に、大坂は完全に幕府の直轄地となり、来年早々にも西国諸藩には過酷な動員が課されることになるだろう」
「なっ……!」と、古市三郎左衛門が険しい表情で眉をひそめる。
「他藩であれば、この報せを聞いた瞬間に血の気を失い、金の工面に走り出すところだ。だが、我が日野江藩にその慌ただしさは無用。すでに我らは、高虎公の先手を読む形で、水面下で完璧な準備を進めてきている」
俺は手元の書状を軽く叩き、力強く家臣団に命じた。
「これより、日野江藩の全力を挙げた『大坂天下普請・備えの陣容』を伝える。……我が藩は四万三千石。軍役の規定およびこれまでの例に照らせば、動員される人員は九百人から千人規模だ。内訳は、総指揮を執る奉行や警備の武士が約五十人、石切や穴太衆、作事の専門職が約百五十人、そして土木作業を担う陣夫・人足、船を操る水夫が七百から八百人だ」
筆頭家老の桑名吉成が深く頷き、手元の軍役の算段を確認するかのように目を細める。
「九百から千人の大軍勢……。しかも、これを国元から現地大坂へと送り込み、長期にわたって維持せねばならぬのですな」
「そうだ。だが、他藩のような泥縄式では断じてない。必要な物資や機材の規模もすでに算出してある。心して聞け」
俺は指を折りながら、具体的な物資の数値を突きつけた。
「第一に『築城石』だ。かつての江戸城手伝い普請で我が藩が受け持った区画――およそ二十坪から三十坪の割当に照らせば、表面に見える築石だけでも百三十個から二百三十個を数える。だが、ただの数ではない。幕府から割り当てられる瀬戸内海の採石場から、奥行きが一間以上もあり、一つで千貫から数千貫(十数トン)の巨石を切り出し、藩の刻印を彫って大坂へ運び込む。さらに石垣の内部を堅固に支える裏込石(栗石)としては、十一万から十四万個、俵数にして実に六千俵から八千俵に及ぶ莫大な石塊を隙間なく詰め上げねばならぬ。足場用の丸太や漆喰の準備と合わせ、一切の抜かりなく行う」
「築石の数々に加え、裏込めの石塊が十万個余り……!」
兵站奉行の瀬尾忠次が驚愕の色を浮かべる。
「それほどの石を運ぶとなれば、普通の輸送では到底間に合いませんぞ」
「だからこそ、必要なる諸道具もあらかじめ取り揃えておくのだ」
俺は冷徹に続けた。
「鉄製の鑿や鶴嘴、石割りの矢や大鎚の類はもとより、巨石を曳く大木製の『修羅』、頑丈な大車、無数の『転』、そして麻や葛を綯り上げた数十丈にも及ぶ強靭な曳き綱を一式、国元より大坂の現場へ直接持ち込む。運搬には専用の石船を数十艘単位で傭船し、海路を以て大坂城の割り当て区画の湊へ直接乗り付けるのだ」
開発・作事担当の福井文右衛門が深く頷き、武者震いするかのように拳を握り締めた。
「陸路の牛車や人夫によって街道が麻痺する中、有明海より瀬戸内海を抜ける海路を使い、自前の諸道具と船団を以て資材を直に乗り付ける……。これならば、他藩の如き輸送の滞りや無駄な滞在費を完全に防ぐことができ申す!」
「その通りだ」俺は家臣たちを見据えて頷いた。
(史実の通りであれば、四万三千石の小藩がこの規模の普請をこなせば、五千両から一万両を超える莫大な費用が吹き飛ぶ。他藩であれば借金まみれで破綻するところだ。だが、我が藩には日々の特産品の売上と茶屋の運上金を元手とした潤沢な運用金がある。資金不足の心配など露ほどもない)
俺が心の中でそう確信していると、兵站を司る瀬尾忠次が、手元の帳簿を掲げながら力強く言葉を継いだ。
「殿。島原手延そうめん、あごだしつゆ、板海苔、神経締め鮮魚、琥珀糖、琉球芋、さらには雲仙の山葵と硫黄に至るまで、我が藩の直轄財政にはかつてないほどの黄金・白銀が蓄積されております。大坂の商人どもに高利の借金を強いられるような憂き目には、断じて遭わせませぬ」
さらに瀬尾は、大坂市場での裏話を続ける。
「また大坂市場では諸藩が押し寄せる噂に端を発し、貸付金利が跳ね上がっております。ですが、茶屋の番頭が中之島の拠点に眠らせる莫大な正金を武器に、現金即払いを条件として『通常よりも二割安く資材を買い叩く』極秘の取り決めを完了しております。他藩が借金で首を絞められる裏で、我が藩は最高品質の資材と労働力を底値で押さえ続けております」
圧倒的な数字と裏付けに基づいた采配に、治安維持・実戦指揮を司る渡辺源五も力強く頷いた。
「国元の守りおよび治安維持につきましても、源五、抜かりなく配備を固めております。有事に際しても一分の隙もございませぬ」
「頼もしい限りだ」俺は家臣たちを見据え、瀬尾に向かって鋭い視線を向けた。
「忠次、お前に重大な命を下す」
兵站を司る瀬尾忠次は姿勢を正し、深く平伏した。
「はっ、何なりとご下命くだされ」
「大坂城の天下普請に向け、我が藩は来年の作事に備え、今年一年のうちに万全の仕込みを行わねばならぬ。かつての大坂の陣の折、お前に命じて見事にやり遂げさせたあの兵站網の手法を思い出せ。お前が率いる四百名の兵站専門の家臣団には、来年の本格的な出陣に先立ち、今冬より水面下での『先行仕込み』を命じる」
瀬尾は微動だにせず、かつての陣中を思い出すかのように鋭い目を光らせた。あのとき培った経験が、今まさにこの大事業で最大の武器となる。
「来年の普請に先駆け、瀬戸内海の主要な湊や大坂市中の中継拠点へ人を走らせよ。我が軍の資材や兵糧が来年通過する際、一分の狂いもなく物資が供給されるための強固な兵站網を、今年のうちに水面下で構築し上げるのだ」
「はっ! お任せくだされ!」
瀬尾は力強く拳を床に突き、頼もしい返答を返す。
「あの冬の陣にて張り巡らせた補給の経験、この大坂普請の事前仕込みにて存分に活かしてみせましょう。有明海から瀬戸内を経て大坂に至る海路、そして大坂の湊から現場の割り当て区画に至る陸路の隅々に至るまで、来るべきときに備えて兵站網の網目を張り巡らせまする。今冬のうちに先遣隊を各所に潜り込ませ、宿場や湊の商人どもと密かに手筈を調え、資材の荷揚げ場、人足の宿営地、そして作事にあたる人足の兵糧に至るまで、来年の普請で寸分の狂いも生じぬよう完璧に手配を整えてみせます!」
「頼むぞ。この普請の勝敗は、実のところ前線ではなく、お前が今年の間に築き上げるこの兵站網の巧拙にかかっている」
「御意に! かつて以上の周到さをもって、我が四百名の兵站家臣団の総力を挙げ、他藩の追随を一切許さぬ完璧な補給の道筋を今年のうちに敷き詰めてみせまする!」
俺は満足げに頷き、再び家臣団全体へと向き直った。
「普請の本立ては、来年、元和六年の春より始動するだろう。されど、万事の成否は事前の用意にて九分通り決まるものよ……。来るべき本番に向け、今年のうちに整えるべき『事前の仕込み』を遂行する」
「第一に、国元より大坂現地における『人足の御使役と兵糧の備え』にある。
苛烈な土木普請にて屈強な者どもが途中で倒れては元も子もない。我が藩自慢の琉球芋や手延素麺を、濃厚なあごだしや保存された魚介の具とともに干し固めて備蓄し、現地へ送る兵糧方に組み込む。麺ばかりに偏らぬよう、麦、玄米や良き乾物もあわせて配給し、日々の精力を保たせて足腰の疲弊を完全に防ぐ。その上、働きに見合った十分な手当てを遣わすことで、不平不満や逃走の気力を一切断つ所存だ」
「第二に、『石切場における事前の段取り』だ。幕府から割り当てられる瀬戸内海の採石場――小豆島や犬島あたりになろうが、そこに赴く専門の石切や穴太衆の先遣隊を今年の秋の段階で密かに送り込め。現場の石の質や、どの巨石をどのように切り出すべきかの下調べを済ませておけば、来年の作事が始まった瞬間に、無駄なく最初の一撃を叩き込める」
「そして第三に、『大坂現地における蔵屋敷と中継拠点の完全確保』に御座る。大坂の市中ですでに手中に収めた中之島の一等地の蔵を駆使し、道具の手入れ場、資材の陸揚げ場、そして蓄えた正金を納める金蔵を滞りなく機能させよ」
資金、人足、機材、輸送ルート、そして事前の現地調査――。
勝負の九割を占める「準備」のすべてが、完璧な歯車となって噛み合い始めていた。
(――来年から始まる第1期工事、盛土と外郭の構築。幕府の作事奉行どもは、西国の大名たちが音を上げる様を高みの見物で決め込むつもりだろう。だが、我が日野江藩が圧倒的な手際と完璧なインフラでその難工事を軽々と、しかも誰よりも美しく完遂してみせたらどうなるか……)
幕府の眼中に「日野江藩あり」と強烈に刻み込み、さらには大坂の経済界をも牛耳る。その壮大な野望の布石が、今まさに着々と打たれていた。
俺は満足げに息をつき、静かに重臣たちへ最後の号令を下した。
「準備に抜かりは許さぬ。今年一年の蓄えと仕込みを完璧にやり遂げ、来るべき元和六年の春、我が日野江藩の底力を天下の真ん中に叩きつけてやる。――抜かりなく進めよ!」
「「はっ!!」」
主従の気迫が一つに重なり合い、大広間には来るべき大舞台に向けた確かな熱気が満ち満ちていくのだった。




