第44話 備えの深化と、白き糸の特産品
元和四年(1618年)の秋――。
天下では、福島正則の広島城無断修築を端緒とした幕府の冷徹な政治闘争が最高潮に達していた。幕府からの厳しい詰問と容赦ない追及の前に、正則は苦悶の末に自らの手で完成直後の石垣や建物の一部を破却せざるを得なくなり、西国の雄としての威信は地に落ちていた。それでも幕府の疑念の目は緩まず、いつ改易の沙汰が下るとも知れない不穏な気配が京・大坂を覆っている。
さらに九州に目を向ければ、肥後国でも大きな火種がくすぶっていた。名将・加藤清正の急死後、幼少の忠広が跡を継いだ熊本藩では、重臣たちの権力争いや内紛の気配が濃くなり、さらには外様大名を厳しく統制しようとする幕府からいつでも取り潰しの口実を奪われかねない、危うい均衡のなかにあったのだ。
周囲の巨大な大名たちが次々と中央の締め付けや統制、足の引っ張り合いに翻弄される中、日野江藩は着実に内政の基盤を固めつつあった。
ある日の評定。
大広間に集まった重臣たちを前に、俺は静かに、しかし力強く新たな方針を切り出した。
「昨年の大水害の教訓を忘れてはならぬ。いざという時に寺社頼みとするやり方は不都合が多く、何より民の動揺をしずめるには不十分だ。今後は、藩の直轄として領内のおのおのに常設の『郷蔵(備蓄倉庫)』を普請する。米穀のみならず雑穀や塩、復旧に備えた諸物資を各郷に常備させ、不測の儀には現場の裁量にて速やかに民へ下し置く仕組みを整えるぞ」
古市三郎左衛門がハッとした表情で眉を上げる。
「郷蔵でございますか? 昨年のように各寺へ炊き出しを急送するのではなく、あらかじめ領内各所に蔵を置くということですね。承知いたしました。早速、普請方に命じてこの秋の実りを収めるための蔵の建造に取り掛かりましょう」
桑名吉成も大きく頷き、感心したように腕を組んだ。
「何時、隣国の肥後や我が藩にも幕府から無理難題が押し付けられるか分かぬこのご時世、内側からの盤石な備えこそが最大の防壁となりましょう」
(――その通りだ、吉成。福島家や肥後の加藤家を見れば分かる通り、どれほど名門であっても足元がぐらついていれば、わずかな手落ちを突かれて一巻の終わりだ。いざという時に民を飢えさせない自前の備えこそが、我が藩が生き残るための絶対条件だ)
家臣たちが備蓄のシステム化に深く頷くのを確認し、俺はさらに言葉を続けた。
「備えを固めるのと並行し、もう一つ、我が藩の新たな柱となる稼ぎの道を開く。湊の荷動きが活発になった今、藩独自の強みとなる産物、それも日持ちがして遠方への商いに耐えうる『特産品』がどうしても要るのだ」
俺の言葉に、農政・殖産興業を束ねる田代五郎右衛門が身を乗り出した。
「新しい特産品にございますか? 一体どのような品を……?」
「麺の文化、すなわち『索面』の製法だ」
俺は家臣たちを見据えて告げた。「長崎の唐寺の者どもが好んで食うあの細く引き延ばした麺を、我が藩の特産品として大量に仕立て上げる。雲仙の湧き水と有明の塩、それに湊へ集まる上質な小麦を使い、誰がこしらえても変わりなく喉越しの良い『島原手延そうめん』を作り上げるぞ」
(歴史の記録では、この地で本格的なそうめん作りが定着するのは二十年後の大乱の後とされる。だが、平和な今この時こそ、俺の手でその芽を圧倒的な規模で花開かせてみせる)
古市が目を見張り、わずかに首を傾げる。
「保存の利く乾物であれば上方への商いに打ってつけですが……その珍しい製法に明るい職人が、我が領内に都合よくおりますかな?」
「だからこそ、手だてを講じるのだ」
俺は即座にうなずき、田代五郎右衛門に視線を向けた。
「五郎右衛門、茶屋の番頭に使いを出せ。茶屋の商い網と長崎の唐寺や唐人たちとの伝手を残らず用い、その製法に最も通じた職人どもをこの島原へ引き抜いてこい。工房の地割りや水回りの手当ても含め、茶屋を介して早急に段取りを進めよ」
「はっ! 流石は殿、すぐさま茶屋へ使者を送り、長崎の唐寺に出入りする者たちを通じて腕利きの職人を招集させましょう!」
田代五郎右衛門が力強く胸を叩いたのを受け、俺はさらに畳み掛ける。
「そればかりではない。このそうめんを極限まで引き立てる、藩特製の『秘伝のつゆ』をも併せて売り出すのだ。地元の海で獲れるあご(飛魚)を香ばしく焼き上げ、上質な醤油と地酒を主としつつ……隠し味には、本来なら特産品の琥珀糖の仕込み用に厳選しているあの特製の良質な水飴を、思い切ってふんだんに使い、奥深い甘みと艶やかな照りを与えよ。常温にて保存が利く『とろりと煮詰めた返し(つゆの原液)』として徳利に仕込むのだ」
「あごだしの濃縮つゆ……しかも、あの特産品の琥珀糖用の贅沢な水飴を……っ!」
吉成が息を呑み、思わずといった様子で手を打った。
「飛魚の香ばしさを極上の甘みが包み込む保存の利くつゆと、極上の白き麺……。それが揃えば、京や大坂の料理屋はもちろん、江戸の武家社会まで、どこに持ち込んでも飛ぶように売れるに違いありません!」
「うむ。手始めに茶屋の網を通じて腕利きの職人たちを呼び寄せ、すぐに試作工房を立ち上げろ。さらに、このそうめんはただ作るだけでなく、寝かせ方によって等級を分ける。『新物』『古物』、そして二年以上寝かえた『大古』の蔵出しを行い、広く一般に流通させる大衆向け製品と、厳選された高級食材品とに仕立てるぞ。――特に最上の古物・大古の高級品は、来年、江戸の将軍・徳川秀忠公への正式な献上品として見据える。天下に島原の名の格を示す極上の切り札とする」
主君の途方もなく壮大な号令に、古市、桑名、そして田代の目は圧倒的な期待と確信の色に輝いた。
それから十日後――。
田代五郎右衛門の迅速な立ち回りと「茶屋」の広範な商い網を通じ、長崎の唐寺に出入りしていた熟練の製麺職人や、粉食の技に長けた者たちが瞬く間に島原へと集められていた。
新湊の拡張に伴い、かつて海産物の問屋兼倉庫として建てられながらも現在は空き家となっていた頑丈な大建築――その居抜き物件を、田代が即座に押さえて改修し、急造の試作工房へと生まれ変わらせていたのである。
雲仙岳から湧き出る豊かな伏流水を引き込み、冷涼で乾いた秋の風が吹き抜けるその工房には、小麦の香りと、職人たちの真剣な気迫が満ち満ちていた。
俺は桑名吉成や古市三郎左衛門を引き連れ、その真新しい工房の門をくぐった。
「どうだ、五郎右衛門」
出迎えた田代が、深々と一礼しながら工房の内部へと案内する。その顔には、十日前の方針出しからここまでの進捗に対する確かな手応えと興奮の色が浮かんでいた。
「湊の問屋跡の建物に手を加え、水回りと板張りを急ぎ改修させました。職人たちを集め、『手延べ』の技法による最初の仕込みを行わせております。ご覧ください」
案内された板の間では、唐人たちの指導を受けた職人たちが、丹念に練り上げた小麦の生地を細く、均一に引き延ばしていく作業の真っ最中だった。油と塩を絶妙な加減で塗り重ねながら、まるで白い絹糸の束のように幾重にも引き延ばされていく麺は、秋の澄んだ陽射しを浴びて美しく輝いている。
「見事なものだな」
俺が感嘆の声を漏らすと、製麺を任された職人の棟梁が頭を下げた。
「お殿様、この雲仙の御水は生地の伸びが格段に違います。これほどの良水と有明海の塩があれば、京や大坂のいかなる乾物をも凌駕する極上の麺が打てます。また、挽きたてならではの新鮮な香りと味わいを持つ『新物』のほか、専用の蔵にて一冬と一梅雨を越えさせ、コシと風味が最高の境地に達する『古物』、さらに二年以上寝かせて歯ごたえのある独特の強い食感を生み出す『大古』の作り分けも、仰せの通りに進めております。これらはあまねく民向けのほか、京や江戸の高家や富豪向けの品として、紛う方なき我が藩の誇り高き特産品となりましょうぞ」
職人の自信に満ちた言葉に、田代も大きく頷く。
「五郎右衛門、手際の良さは見事だな。だが、肝心なのはこの麺をどう味わわせるかだ。もう一つの『あごだしつゆ』の進み具合はどうなっている?」
「はっ。そちらも抜かりはございません。同じ敷地内にある元・魚蔵の棟を改修し、ただいま試作の真っ最中でございます。あちらへどうぞ」
田代に促され、私たちは敷地内のもう一つの棟へと足を運んだ。
戸を開けた瞬間、香ばしい魚介の豊かな香りと、ふくよかな甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。中では、地元の海で水揚げされた新鮮なトビウオ(アゴ)を炭火でじっくりと炙り、特製の醤油や地酒、そして特産品の琥珀糖の仕込み用に用意されていた極上の水飴をふんだんに投入して大鍋で煮詰める作業が行われている。
鍋の前で大きな木べらを握る職人が、焦げ付かないよう真剣な眼差しで煮汁の様子を見極めていた。
「首尾はいかがか」
俺が声をかけると、職人は慌てて手を止め、深々と平伏した。
「も、申し訳ありません、お殿様! しかしご覧くだされ……本来なら特産品の琥珀糖に使うあの極上の水飴を贅沢に使ったことで、これまでにない最高の仕上がりとなっております!」
職人がおたまですくい上げた黄金色の液体は、琥珀糖のように美しく透き通り、とろりとした濃厚な艶を帯びていた。
「トビウオの香ばしさを極限まで引き出し、特選の水飴が醸し出す深い味わいと艶やかな照りが、醤油の塩気を絶妙に丸く包み込んでおります。これを徳利一つに入れ、食べる直前に井戸水や湯で薄めるだけで……ほら、極上のつゆがたちまちに出来上がります」
職人が小さなお猪口にその原液を少し取り、手元の冷たい井戸水で薄めて差し出した。
俺はその小猪口を受け取り、一口含んでみた。
瞬間、口いっぱいに広がる香ばしいアゴの深い出汁の旨味と、水飴ならではの上品で奥深い甘み、そしてキリッとした醤油のキレ。雑味が一切なく、麺を引き立てるために計算し尽くされた完璧な味わいは、大衆向けから、来年の将軍家への献上を見据えた至高の高級食材品に至るまで、あらゆる食通を唸らせるに足るものだった。
「――美味い」
思わず零れた俺の呟きに、後ろに控えていた桑名吉成、古市三郎左衛門、田代五郎右衛門も息を呑み、次いで我先にとその薄め汁を口にした。
「こ、これは……っ!」古市三郎左衛門が目を見開く。
「飛魚の風味がこれほどまでに濃厚でありながら、後味が驚くほどすっきり、かつ見事な味わいですぞ! この極上のつゆと、古物・大古へと熟成されたそうめんの組み合わせであれば、来年の将軍家へのご献上も、必ずや上首尾に運ばれましょうぞ!」
「これほどの代物が常温の徳利で数ヶ月も保つというのですから驚きだ」
吉成も腕を組み、深く唸った。
「これさえあれば、旅の道中はもちろん、保存の利かない上方であっても、質の落ちない状態で届けることができる。商人たちの目の色が変わるぞ」
(――よし、完璧だ。史実の歴史の歯車を先取りし、この日野江の地で生み出した『白き糸』と『黄金のつゆ』。その両輪が、今まさに動き出した)
工房の梁を叩く槌音と、職人たちの活気ある声を聞きながら、俺は確信を深めていた。
天下の情勢が不穏な嵐に包まれ、大名たちが足元をすくわれていく激動の時代にあって、我が日野江藩は圧倒的な経済力と確かな備えという名の「盾」を着実に築き上げつつあった。




