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『皆福の楔 〜藤堂に生まれ変わったとおもったらそっちかよ〜』  作者: たかとら


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第43話 動乱の予兆、森岳の繁栄

元和四年(1618年)の初夏――。


あの未曾有の台風禍と、森岳への遷都計画、そして京都所司代への根回しに奔走した慌ただしい日々から、早や一年の歳月が流れていた。


有明海の潮風が、猛島の麓に新しく築き上げられた湊の石積みを軽やかに撫でていく。かつての荒涼とした被災地は、今や見違えるほどの活気をたたえた一大物流拠点へと変貌を遂げていた。


馬上の高さを保ったまま、俺はゆっくりと蹄を進め、この一年の普請の末に完成したばかりの新しい町並みを検分していた。


目の前に広がるのは、満潮時と干潮時で最大五メートル以上もの潮位差を誇る有明海の特性を完全に克服するために設計された、壮大な石段――「雁木(がんぎ)」の光景である。

馬を進め、黒い島原石で組まれた壮大な雁木を見上がると、その一角には口之津と同規模で堅牢に建てられた六棟の蔵群が並んでいた。潮風を遮る頑丈な板壁の前では、ひときわ大きく「茶屋」の暖簾が掲げられた一棟があり、その軒先で帳簿を抱えた番頭が手代たちに手際よく指示を出している。


俺が馬を止めると、その気配に気づいた茶屋の番頭が慌てて駆け寄り、深々と頭を下げる。


「殿。御巡見でござりますか。お疲れ様でございます」


「番頭、湊の荷動きはどうだ。滞りなく回っているか」


俺が問いかけると、番頭は持っていた帳簿を脇に抱え、辺りに目を配ってから頭を下げた。

「はっ。荷動きは順調にございますが、少しばかりお話したい知らせも入っておりまして。中の涼しいところで一服されませんか」


番頭はそう言って俺を茶屋の中へと促した。


俺が頷き、ひらりと鞍から地面へと降り立つと、番頭の案内で茶屋の小上がりへと上がった。手際よく障子が閉じられ、外の喧騒がふっと遠ざかる。


湯呑みが差し出されるのを待って、番頭は座敷の隅に控え、声を潜めて本題を切り出した。


「……実は、京や大坂に通じるうちの商い網の者から入った確かな密報にございます。安芸の広島城において、福島正則公が先の水害で傷んだ石垣や建物の修築をめぐり、幕府へ願い出たものの許可が下りぬまま長らく引き延ばされ、業を煮やした末に勝手に行ったとかで、にわかに雲行きが怪しなっているとの噂にございます。何やら京都所司代の板倉勝重様の一派も、この一件を重く見て動き始めているとか……」


番頭の得たその重大な情報は、まさに天下の情勢が大きくうねり始める予兆そのものだった。俺は差し出された湯呑みにそっと手をかけ、内心の動揺を押し隠しながら深く頷いた。


(――ついに始まったか。一年前、我が藩が京へ使者を走らせて周到に許可を取り付けたのとは対照的に、歴史の記録通り、手続きを先延ばしにされた福島正則が自ら罠に足を踏み入れた。武家諸法度の厳格な適用が、いよいよこの西国の大大名を最初の標的にして動き出したというわけだ……)


息をのむような情勢の推移を思案しながらも、俺は静かに湯呑みを置き、目の前でかしこまる番頭へと視線を戻した。


「流石だな、番頭。上方や大名家の不穏な動きをこれほど早く聞き出すとは……茶屋の商い網の耳の早さには、毎度助けられる」


「もったいなきお言葉にございます」


「京や大坂から早馬を飛ばしてくれた者たちへも、茶屋のほうからしっかりと褒賞を出しておいてくれ。その働きに見合うだけの利益は、我が方からも十分に報いさせよう。今後も、上方や西国で少しでもきな臭い動きがあれば、気兼ねなく俺の耳に入れてくれ。茶屋の商い網には、これからも大いに頼りにさせてもらおう」


俺がそう言って微笑むと、番頭は深く頭を垂れ、引き締まった声で応じた。


「ははっ、畏まりました。商いの才覚を磨くのと同様、上方のきな臭い噂の数々もしっかりとかき集め、滞りなく殿へお届けいたしましょう。うちの者どもにも、より一層目を光らせるよう申し付けます」

頼もしい返答に深く満足した俺は茶屋を後にし、再び馬の背に跨がった。


雁木を背にして森岳の麓へと向かうにつれて、そこにはこの一年の歳月をかけて着実に築き上げられた新たな「町の骨格」が鮮やかに姿を現していた。


碁盤の目に美しく区画された通りの中央には、清らかな水を引き入れた水路がまっすぐに走り、道の両側には島原石の基礎と頑丈な木組みで建てられた武家屋敷や町家が整然と立ち並んでいる。かつての流木と濁流に呑み込まれた荒野の面影は微塵もなく、家々の軒先からは煮炊きの煙が穏やかに立ち上り、水のせせらぎと往来の足音が心地よく響いていた。


「ご覧くだされ、殿。通りの真ん中に清流を通したことで防火と生活用水の確保が飛躍的に高まり、さらに町筋の美しさも際立っております」


福井文右衛門が誇らしげに指し示す先では、水路のせせらぎを挟んで向かい合う家々の往来が行われていた。その光景を目にした瞬間、俺の胸の奥で思わず感嘆の息が漏れそうになる。


(――まるで、かつて見聞きした未来の島原の武家屋敷街そのものじゃないか。あの時、一年の歳月をかけて進めてきた普請が、今まさに目の前で完璧なまでに形を成している。あまりの整いっぷりに、胸が熱くなるほどの美しさだ)


せせらぎの脇にしゃがみ込み、手桶に澄んだ水を汲んでいた初老の男が、馬上の俺たちに気づくと慌てて手を止め、その場に平伏した。


「お、お殿様……! おそれいります、ご巡見とは露知らず……」


身を震わせる男に対し、俺は手綱を緩めて穏やかに声をかけた。


「かまわん、面を上げよ。その様子では、この新しい町での暮らしは順調のようだな」


「ははっ……!」


恐る恐る顔を上げた男の顔には緊張の色が残っていたが、すぐに安堵に満ちた笑みが浮かび、しみじみと言葉を続けた。


「もったいなきお言葉……。この水路のおかげで日々の水くみも楽になり、去年のあの泥水の悪夢が嘘のようでござります。ありがたき幸せにございます……」


男の傍らでは、あつらえたばかりの真新しい木綿の着物をまとった孫娘が、物陰からそっとこちらの様子を伺っていた。


その少し先、島原石の石垣が組まれた軒先で、手拭いを頭に巻いた若い職人風の男が威勢よく声を張り上げて商いをしている。


「お侍様、見てってくだせぇ! 湊からの荷動きが良いおかげで、材も道具も滞りなく手に入る。この町に移ってきて本当によかったよ。毎日しっかり日当が出るから、夜は安心してこの清流で煮炊きができるってもんだ」


活気ある声に釣られるように、買い出しに赴く町民たちが足を止め、互いに挨拶を交わしながら行き交っている。その表情には、去年の大災害に怯えていた面影はなく、新しい生活を切り拓いた確かな誇りと安らぎが満ちていていた。


黒い島原石の雁木の背後に整然と並ぶ蔵群、そして清流が中央を貫く美しい町並み。湊に集まる富がこの町筋を通って領内全体へと巡り、人々の確かな生活を支えている。海の富と、森岳の麓に広がる堅固で風雅な町の営みが完全に噛み合ったその光景は、日野江藩が自らの手で勝ち取った豊かさの証そのものだった。


しかし、広大な天下の情勢に目を向けたとき、その穏やかな海風の裏側で、茶屋の番頭がもたらした情報の通り、不穏で冷たい「黒雲」がうねりを始めていることを、俺たちは無視できなくなっていた。

数日後、日野江城の大広間に戻った俺のもとに、京や大坂の商い網を駆け抜けてきた茶屋からのさらなる詳細な早馬がもたらされた。


「――殿、一報にございます。安芸の広島城において、福島正則公が先の水害で傷んだ石垣や建物の修築をめぐり、幕府へ願い出たものの許可が下りぬまま長らく引き延ばされ、業を煮やした末に勝手にお始めになったとかで、江戸や大坂で大騒ぎになっております」


広間に集まった重臣たちの空気が、一瞬で凍りついた。


古市三郎左衛門が眉間に深く皺を寄せ、息を呑む。


「勝手に修築だと……? 武家諸法度が厳しさを増すこのご時世に、天下の福島家がそんな軽率な真似を……」


桑名吉成も、冷や汗を拭いながら声を震わせた。


「お上の許可なく城を直せば、法度に背いたと見なされかねぬ。それが事実であれば、幕府がこれをどう咎めるか……。考えただけでも恐ろしいぞ」


西国の雄として知られる福島正則の失態。


家臣たちが動揺に包まれる中、俺は静かにその知らせを受け止めながら、内心で深く息を吐いていた。


(――やはり歴史の通りか。歴史の記録にある展開が、まさに目の前で現実の歯車として動き始めている。許可をわざと引き延ばされて焦った福島正則が、罠と知りながら自ら足を踏み入れた。武家諸法度を盾にした、豊臣恩顧の大名を潰すための冷徹な政治闘争が、いよいよ最初の標的を迎えて幕を開けたというわけだ)


俺は広間に広げられた日本全体の地図から視線を外し、目の前にいる優秀な家臣たちを見渡した。


「福島家の焦りは、時代が変わったことに気づけぬ者の末路だ。だが、我が日野江は違う」


静かでありながら、圧倒的な重みを持つ俺の言葉に、家臣たちは背筋を正して聞き入った。


「我らは一年前、野分の災厄の際に見果てぬ絶望に沈むのではなく、京都所司代へ使者を送り、勝重公を通じて正式な許可と筋道を踏んでこの森岳の湊を造り上げた。そして今、島原石の堅牢な雁木と、清流が貫く美しい町並み、そして備えの防壁を手にし、自立への道を歩んでいる。……手続きを盾に足元をすくわれていく者たちが続出する中、我らの『正しさ』と『備え』こそが、この激動の世を生き抜く唯一の盾となる」


俺の言葉に、古市、桑名、福井、そして瀬尾たち重臣の目が力強く輝いた。

天下の風雲が急を告げようとも、この一年の歳月をかけて日野江で積み上げた実利と備えは、何人たりとも揺るがすことはできない。新湊の波音と水のせせらぎを背に、日野江藩は新たな時代へと力強く舵を切っていくのだった。


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