第42話 京の根回しと、森岳の胎動
元和三年七月 (一六一七年七月)
京都・二条城の西に陣取る京都所司代・板倉勝重の屋敷には、連日、西国からの使者や書状がひっきりなしに持ち込まれていた。
大坂の陣を経て天下が泰平へと向かいつつあるとはいえ、徳川幕府にとって西国は依然として最大の警戒領域である。特に九州の外様大名たちの動きには、所司代の鋭い目が常に光っていた。
その頃、日野江藩の行政と総括を担う家老・古市三郎左衛門が、藩の全権を背負って勝重のもとへと静かに到着していた。
古市三郎左衛門は通詞を経て恭しく取次を願い出ると、厳重な検閲と手続きを経て、ようやく勝重の待つ広間へと通された。
平伏し、二礼して差し出した書状には、先月襲来した台風による甚大な大風水の災厄と、それに伴う旧・船津の荒廃、そして領民の安全と物流の確保のために猛島神社の麓・森岳の地へ湊と町割りを移転・再建する旨が詳細な絵図面とともに記されていた。
勝重は届いた言上書に目を通し、側近を従えながら絵図面を広げさせると、わずかに目を細めて目の前に控える古市へと冷徹な視線を据えた。
「……先の大坂の陣における日野江藩の働きは聞き及んでおるが、今回の災禍、領内の実情は相当に逼迫しておると見える」
「はっ。不肖ながら私めが使者として参りました。仰せの通り、先月の風水害により旧・船津の地は壊滅的な打撃を受け、もはや復旧すら叶わぬ有様にございます。有明海の荷の動きを絶たぬため、そして何より飢えに喘ぐ領民の命をつなぐため、猛島神社の麓・森岳への移転以外に道はございませぬ」
勝重は熟練の目で図面の端々を検分しながら、低く通る声で問うた。
「一国一城令の厳しく敷かれる時節だ。大掛かりな湊の移転や町割りの変更となれば、天下に対してどのような波紋を呼ぶか、貴殿も分かっておるはずだな。……これは単なる被災救済か、それとも新たな軍事の拠点造りではあるまいな?」
一歩間違えば「不穏な軍事拠点化」として咎められかねない鋭い詰問だったが、古市は微動だにせず、静かに頭を垂れて言葉を返す。
「御冗談を。我が日野江藩は、ただの一兵たりとも幕府に弓引く異心など抱いておりません。すべては民の命を守り、泰平の世に滞りなく仕るための苦渋の措置にございます。絵図面をご覧いただければお分かりの通り、防衛上の構えではなく、あくまで海運と民生安定のための最小限の割付にございますれば」
勝重はしばらく古市の顔をじっと見据えていたが、やがてわずかに口元を緩めた。事前の茶屋を通じた根回しの効果もあり、古市の胆力と理路整然とした口上に、所司代としての納得がいったのだ。
「なるほど、見事な弁明よ。ただの被災復旧に留まらず、海運の利便や地盤の堅固さまで計算に入れられている。無駄な言い訳を並べるのではなく、実利に徹した手際の良い上申だ。……よし、この件は幕閣へも危うさなきよう、我が方から穏便に取り次いでおこう。西国の小大名にしては、なかなかに政の機微をわきまえているわ」
勝重が静かに筆を執り、幕府への取り次ぎの公文に朱を入れたことで、日野江藩の新たなインフラ刷新に向けた政治的障壁は、何事もなく音もなくクリアされたのだった。
京都での折衝完了を告げる早馬が、瀬戸内航路と陸路を駆け抜けて日野江領内へと到着した。「幕府の許可が下りた!」という報せがもたらされた瞬間、緊迫した空気に包まれていた藩内は一気に解き放たれ、森岳の麓および新湊の予定地は地響きのような活気に満ち溢れていった。
「おおい、そこの土手固めはしっかり固めろ! 京からの許可も下りた、遠慮はいらん、杭を深く打ち込むんだ!」
「おう、任せなせぇ!」
開発・作事担当奉行の福井文右衛門が声を張り上げ、指揮棒を大きく振るう。その足元では、先日の台風で家を流され、路頭に迷う寸前だった数多の領民や農民たちが、一斉に鍬やモッコを振るっていた。
「おい、聞いてくれよ。お上の大掛かりな普請だから、どうせタダ働きかと思いきや……今日の分の銀が、もうその日のうちにきちっと手に入ったぞ!」
「本当か!? 見てくれ、この綺麗な銭を……これだけの賃銀があれば、当座の米も家族の着物も十分に買える。殿は、俺たちを見捨てちゃいねぇんだ!」
被災し集められた民たちの間から、歓喜と安堵の声が波のように広がっていった。彼らに支払われている銀の出所は、藩の表向きの冷え切った財政からではない。
兵站奉行の瀬尾忠次が手配し、茶屋のネットワークを駆使して密かに蓄えられている莫大な運用金――その蓄えから潤沢な資金が、この普請の人件費と資財購入に惜しみなく注ぎ込まれていた。
民を苦しめるどころか、被災からの最大の生活立て直しとして機能している現場の空気は、かつてないほどの熱気と主君への絶対的な忠誠心を生み出していた。
さらに、藩中および周辺の村々へ向けて新たな触れが布告された。
「――これより、森岳の麓の川から水無川に至る一帯の土地は、藩直轄の御狩場として指定する。一切の新規開墾および家屋の建築を厳禁とする!」
最初、村人たちは「御狩場? 殿様が鷹狩りでもお楽しみになるための御用地か?」と首をかしげ、どよめいた。
だが、詳細を聞けば、口之津や日野江へ通じる主要な街道の往来はこれまで通りしっかりと守られており、物流や人の行き来が断たれるわけではない。
その上、足元では新しい湊と町割りの普請で誰もが十分な稼ぎを得ている。
「なぁに、いざという時の備えってやつさ。あの川筋のあたりは昔から水が出やすく崩れやすい危ねぇ場所だ。そこを御狩場にして家を建てさせねば、次の大水でも誰も痛まねぇですむ。殿は、俺たちの先の先まで考えてこういうお触れを出してくださったんだよ」
村の長老の一人がそう呟くと、周囲の者たちも大きく頷き、不安や不満は瞬く間に納得と安心へと変わっていった。危険な「眉山の山体崩壊被害」の無人化という厳格な防災政策は、民の生活の安定と見事に両立され、誰一人として反発する者などいなかった。
インフラの構築と民心の掌握が進む中、俺は日野江城の大広間に重臣たちを招集していた。
古びた畳の上には、真新しい島原半島の絵図面が広げられている。
京から戻ったばかりの家老・古市三郎左衛門をはじめ、筆頭家老の桑名吉成、作事奉行の福井文右衛門、農政奉行の田代五郎右衛門、兵站奉行の瀬尾忠次、そして治安維持を担う渡辺源五。藩の命運を握る重臣たちを前に、俺は静かに切り出した。
「森岳への新湊の普請、そして川筋の御狩場指定による備えの構築は順調に進んでいる。だが、この日野江を一時的な復興に終わらせず、次代に至るまで揺るぎなき『強い藩』として自立させるには、もう一つの要が必要ではないか……と俺は考えている」
言葉を切り、俺は絵図面の中心――森岳の未だ更地が広がる一角を指し示した。
「藩校の設立だ。武芸の稽古場や、ただ経典を暗記するだけの寺子屋ではない。実学を修め、普請や算術、藩政の機微を回す『実戦的官僚』を育てるための学び舎を創るべきか否か。お前たちはどう見る?」
最初に口を開いたのは、京都での大役を終えて戻ったばかりの古市三郎左衛門だった。彼は落ち着いた物腰のまま、慎重に言葉を選ぶ。
「京都所司代との折衝は滞りなく進めてまいりましたが……。殿の遠謀深慮、痛み入ります。文治政治の体面を整え、京都所司代や幕府に対して我が藩の姿勢を示す看板としても、藩校の存在は大きゅうございますな。ただ……」
古市が言葉を切ると、筆頭家老の桑名吉成が静かに一礼し、重みのある声で慎重に進言した。
「――お言葉ながら、殿。肝心なのはその中身にございます。都から儒者を招いて経典を読ませるばかりでは、現状の日野江の役に立ち申さぬ。一国一城令の締め付けや有明海の治水を抱える中、机上の空論を語る者を増やすは、かえって藩政の足かせになりかねませぬ。……今、そこまで手を広げるだけの余裕が我が藩にあるのか、慎重に見極めるべきかと存じます」
桑名の直言に、作事奉行の福井文右衛門もうなずき、武骨ながらも引き締まった声で意見を添えた。
「桑名殿のお言葉通りにございます、殿。仮に学校を造るにいたったとしても、それが日々の普請や土木の現場にどう役立つのか。いま絵空事を学ぶ暇があるならば、目下の湊の普請や土手固めに一人でも多くの人手を割くべきかと存じますが……」
福井の意見に、農政・殖産興業を担う田代五郎右衛門が静かに割って入る。
「福井殿の言う現場主義も一理ありますが、村の再建や農政、新田開発の算術を仕込む人間が必要になるのも事実です。ただ、それを今の財政の中で『藩校』という形ですべきか、各役所で実地で覚えさせるべきか……殿、判断に迷うところでございます」
その財政と予算に触れた言葉に、兵站奉行の瀬尾忠次が静かに一礼して口を開いた。
「現実的な問題は銀の出所と持続性にございます。当座の運用金はあるものの、校舎を建て、教師を招き、子弟を養うとなれば莫大な予算がかかります。果たして今、それを維持するだけの余裕が我が藩にあるのか……慎重に吟味すべきかと存じます」
重臣たちの議論が現実的な予算や教育の必要性へと向かう中、実戦指揮官・渡辺源五が低い声で進言した。
「藩校なぞ造って囲い込んだところで、肝心の気骨が育たねば意味がございません。日野江で生き抜くには勉強よりもまず体と胆力。……殿、今それを急ぐ必要があるのでしょうか」
それぞれの立場から突きつけられた鋭い意見は、この時期における藩校設立の是非を測る上で無視できないものばかりだった。
俺は重臣たちの顔を順に見渡し、ゆっくりと頷いた。
「そうだな……お前たちの言う通りだ」
(やはり時期尚早か……。これだけ優秀な家臣たちが言うのだ、俺の先走りすぎだな……)
胸中で自嘲気味に呟きながら、俺は改めて手元の絵図面へと目を落とした。
今はまだ、先月の台風による甚大な被災からの復旧が最優先であり、森岳への新しい湊の普請と町割りを滞りなくやり遂げ、領民の生活基盤を立て直すことが何よりも先決だ。その上で、厳格な防災のための御狩場指定や、茶屋のネットワークを通じた資金の融通など、足元の足固めを完全にやり切らねばならない。
「藩校は、いずれこの日野江が自立し、次の時代へと踏み出す時には不可欠な要となる。だが、泥水をすすりながら生きる現在の状況で、急ぎすぎるのはかえって足元をすくわれる原因になりかねん」
俺の言葉に、古市や桑名をはじめとする重臣たちは静かに深く頷いた。
「殿のご明断にございます。まずは目の前の普請と民の安寧を第一とし、次代の学び舎はその基礎が固まった折に、改めてじっくりと構想いたしましょう」
古市が落ち着いた声でそう締めくくると、大広間に漂っていた緊迫した空気は、穏やかで確かな連帯感へと溶けていった。
その空気を受け、俺はもう一つの懸案――今次危機を陰で支えてくれた茶屋への処遇について、重臣たちに視線を向けた。
「もう一つ、この度の危機において茶屋の尽力は無視できぬ。彼らへの手厚い報いについてだが……特産品の専売権などを安易に渡すのは藩の将来を誤る。ゆえに、新たな森岳の湊にも口之津と同じ規模の蔵を六棟建て、そのうち一棟を茶屋専用として与える。さらに、そこから上がる運上金の三割を茶屋に預け、更なる運用資金として回させることとする。これならば、彼らの功績に対する十分な報いでありつつ、我が藩の財政の基幹を損なうこともまい」
俺の言葉に、兵站奉行の瀬尾忠次が深く頷き、筆頭家老の桑名吉成もわずかに感心したような笑みを浮かべて頭を垂れた。
「……なるほど。特産品の命脈を握られたり、財政の根幹を揺るがされたりせぬ見事な塩梅にございます。茶屋側も、実利の大きさと殿の配慮に満足いたすことでしょう」
古市も穏やかに頷き、異論を挟む者は誰一人いなかった。
今はまだ早い。だが、いつかその時が来たときのために、日野江藩の基盤と盤石な経済同盟は、着実に、そして確実に築かれつつあるのだった。




