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第38話 将軍の宛行状、そして秋に結実する俸禄の絆

元和二年(1616年)十月


徳川家康の死去という大きな時代の節目を経て、二代将軍・徳川秀忠による中央集権体制は、少しの綻びも見せることなく盤石なものとして全国に行き渡りつつあった。


七月、父・家康の死の直後という絶妙なタイミングで断行された、弟・松平忠輝の改易――越後高田藩六十万石の大藩が、改易されるという容赦なき粛清。大坂夏の陣での軍規違反や身内である旗本斬殺の罪状は表向きの口実に過ぎず、強大な兵力を持ちかねない身内であっても一切容赦しないという、二代将軍・秀忠の絶対的な権力を天下に示す見せしめであった。


その恐怖と緊張が冷めやらぬ中、八月には「二港制限令」による経済統制が布かれ、そして九月、秀忠公は筑前福岡の黒田長政をはじめ、豊前小倉の細川忠興・忠利父子、薩摩鹿児島の島津家久、土佐高知の山内忠義、そして紀伊の浅野長晟といった、西国の要衝を固める強力な外様大名たちをいち早く個別につなぎとめるため、先んじて領地安堵の手続きを進めた。反乱の芽をあらかじめ摘み、幕府の威光を知らしめる巧みな「飴と鞭」の政治手腕である。


その天下を揺るがす巨大な潮流の余波の中で、我が日野江藩の正式な宛行状もまた、この十月に正式な形で到達した。


日野江の城閣の大広間。

江戸からの使者がもたらした将軍・徳川秀忠名義の「領知宛行状」を、俺は厳粛な面持ちで押し頂いた。そこに記された「日野江四万三千石」の文字は、この地が幕府の公認する正式な大名領として、完全に組み込まれた動かぬ証拠であった。


(……黒田や細川といった西国の諸侯が次々と安堵される中、我が日野江もまた、この厳格な新体制の枠組みの中に確固たる地歩を築いた。忠輝の改易や二港制限令を経て、幕府が西国に求めているのは「揺るぎなき従属と秩序」だ。いち早くこの宛行状を手に入れた意味は重い。中央の風がどう吹こうとも、我が藩の足元が揺らぐことはもはやない)


書状をゆっくりと脇息に置き、俺が前方に控える家臣たちへ視線を向けたとき、広間の空気は別の意味での緊張と、それに伴う確かな熱を帯びていた。


この十月という季節は、武士の家計にとっても極めて重大な意味を持つ。

世の多くの藩では、今なお秋の稲刈りと年貢の取り立てを経て、わずかな米を頼みに一年の生活をやり繰りする古い知行制が当たり前であった。


しかし、我が日野江藩ではすでにその旧習を打ち捨て、藩が責任を持って貨幣経済の波に乗り、金銀をもって禄を支給する「俸禄制」へと完全移行している。しかも、家臣たちが生活に困窮せず計画的なやり繰りをできるよう、支給は秋(十月)、冬(一月)、春(四月)、夏(七月)の年四回に均等に分ける独自の仕組みをとっていた。


城下の蔵前や特産品の集積地である口之津では、諸国から集まる物資の荷役や交易に活気を帯び、一方で深江川の上流では、駿府から招いた職人の技を受け継いだ山葵が瑞々しい緑の葉を広げ、いよいよ本格的な出荷を迎えていた。豊かに収穫された作物や物資が次々と蔵へと納められ、それを上方や博多との交易で得た潤沢な銀貨へと換えることで、藩の財政基盤はかつてないほどの厚みを増していた。


領知宛行状の拝領に先立ち、広間の別室にて、俺は筆頭家老の桑名吉成と家老の古市三郎左衛門を呼び寄せ、今季の収穫と財政の推移について綿密な報告を受けていた。


「殿、今季の藩の財政はかつてないほどに潤っております」

古市三郎左衛門が手元の帳面を開き、穏やかな笑みを浮かべて語る。


「口之津湊に集まる諸国船からの運上金は、二港制限令の追い風もあって毎月のように増加しております。さらに、藩の直営で進めてきた琉球芋も予想を遥かに超える豊作となり、民の飢えを防ぐ備えとしてはもちろん、現金収入の道も大きく広がりました。京や大坂の商人たちに卸している琥珀糖の売上も町衆や公家衆の間で評判を呼び、海苔の栽培もすこぶる順調、深江川上流の山葵も江戸や上方の市場へ向けて飛ぶように売れておりますぞ」


順調な報告に頷く三郎左衛門だったが、ふと表情を引き締めて帳面を閉じ、静かに言葉を続けた。


「……ただ殿、手放しには喜べぬ懸案もございます。日野江の土地は依然として稲作には痩せており、今季の米の収穫は伸び悩んでおります。諸産業で銀は回っておりますが、武士や領民の食を支える肝心の米の備蓄となると、なおも心許ない状況にございます」


その報告を受けて、軍事を司る桑名吉成が重々しく口を開いた。


「左様です。いざという時の兵糧米として、平時から十分な備えを確保しておくのが藩の鉄則ですが、現状の米の備蓄量では、万が一の凶作や不測の事態に耐えうるか……。銀はあっても、米がなければ軍事の根幹が揺らぎます」


二人の的確な報告に、俺は深く腕を組み、静かに首を横に振った。


「米か………隣の肥前鍋島藩から購入できれば理想だが……」


俺のつぶやきに、桑名吉成がハッとした顔をして身を乗り出す。


「殿……今、隣の肥前鍋島藩から購入できればと仰せになられましたか?」


「ああ。直接、隣の鍋島藩に米を分けてくれと頼み込むわけにはいかん。今の幕府、とりわけ上様の厳格な統制下で、西国の外様同士が勝手に密約や協定を結べば、あらぬ謀反の疑いをかけられかねないからな」


(それに、隣に陣取るのは……当主・勝茂の後ろで今なお実権を握り続ける、あの百戦錬磨の老巧者・鍋島直茂だ。乱世の修羅場を渡り歩いてきたあの智謀の才人に、迂闊に直談判などすれば、足元をすくわれかねん)


三郎左衛門が真剣な面持ちで深く頷く。俺はさらに声を潜めて続けた。


「だが、道がないわけではない。……三郎左衛門、信頼できる博多や上方の商人を動かせ。表向きは『領内の食糧不足を補うための大規模な買い付け』という純粋な商取引を装い、裏では鍋島藩の息のかかった商人や関係者へと打診させるのだ。あちらの肥沃な領地から、毎年一定量の米を我が日野江へ滞りなく卸す仕組みを作れないかとな」


三郎左衛門の目が大きく見開かれる。


「なるほど……! 表向きは普通の取引買付でありながら、実質的には鍋島藩との間で安定した米の流通経路、すなわち毎年途切れることのない兵糧の絆を築くというわけですな」


側に控えていた軍事の要である吉成も、その深謀遠慮を理解して力強く頷いた。


「素晴らしいお考えにございます。表向きはただの商取引でありながら、いざという時に頼れる西国の巨大な隣藩と気脈を通じることができれば、我が日野江のお家を守る備えはこれ以上なく盤石となりましょう」


「そうだ。米が足りぬなら、金で買う。だが、ただの買い付けに終わらせず、万が一の時に互いを支え合える確かな備えへと高めるのだ。この日野江の富の巡りを、米の蓄えと強固な絆でさらに頑丈に仕上げるぞ」


俺は二人の報告を胸に刻み、いよいよ評定がおこなわれる大広間へと戻り、上座に腰を下ろした。


広間の最前列に控える桑名吉成が、静かに一歩進み出て深々と頭を下げる。


「殿。この度の公儀よりの領知宛行状、誠におめでとうございます。四万三千石の御安堵、我が日野江藩の行く末はもはや盤石にございます」


吉成の引き締まった声に続き、古市三郎左衛門や、開発・作事担当奉行の福井文右衛門、農政・殖産興業奉行の田代五郎右衛門、兵站奉行の瀬尾忠次、そして治安維持奉行の渡辺源五といった家臣たちが一斉に背筋を正す。


俺は上段から家臣たちを見渡しながら、力強く告げた。


「よくぞ支えてくれた。公儀が黒田や細川といった西国の諸侯と同じく、我が日野江の領地をも安堵し、天下の統制を固める今、我が藩もまた、内と外の両面において完全なる体制を整える時が来た。……皆、顔を上げよ」


家臣たちが一斉に顔を上げる。その瞳には、日野江の産業育成に歩んできた確かな手応えと、日野江の未来を支える自負が宿っていた。


「以前、我が藩は土地を分かち合う古い知行制を廃し、金銀をもって禄を支払う体制へと切り替えた。米の量やその時の気まぐれな相場に生活を振り回される時代は終わったのだ。我が日野江が築いた口之津の繁栄と、深江川を潤す山葵、そして今まさに最盛期を迎えた琉球芋をはじめとする領内の実りは、すべてこの藩の確かな『血流』となり、金銀の輝きとなって、そなたたちの手元に還元される」


俺の言葉に、家臣たちの間に深い納得のうなずきが広がっていく。


「本日この場において、年四回の支給のうち、十月の秋分の俸禄をわたす。これは一時しのぎの恵みなどではない。これからを生き抜く、揺るぎなき暮らしの礎となるものだ。……さらに、口之津の湊に集まる運上金の納まりや、おのおのが日頃より励んでくれた成果に報いるため、今季は通常の俸禄に加え、諸業の収益より得た利潤を皆に分かち合う下賜金をあわせて出す! 我が藩が銭の力をもって皆の暮らしを支える。いかなる激動の世が来ようとも、家臣の家々も、日野江の兵馬も、飢えることなく一丸となって進むのだ。日野江を支えるそなたたちよ、皆で分け合ってくれ!」


俺の合図とともに、控えていた役人たちがずらりと並んだ木製の小箱を広間の中央へと運び入れた。

蓋が開けられると、そこには眩いばかりに磨き上げられた銀貨の束が整然と並び、秋の陽光を受けて鈍く、しかし力強い光を放った。通常の俸禄金に加え、さらなる銀の束が各人のもとへと配られていく。


吉成を筆頭に、家臣たちが次々と深々と平伏する。その声には、日野江の未来を我が手で切り開いているという熱い自負が満ち満ちていた。


さらに、俺は手元に控えていた古市三郎左衛門へと視線を向け、領内の村々に対する重要な施策の執行を命じた。


「三郎左衛門。城内の俸禄支給とあわせ、領内の村々への沙汰も滞りなく進めよ。以前約束した通り、村単位で法度を固く守り、今春からの琉球芋の栽培や新田開発で確かな実績を上げた村には、藩からの報奨金を下す『連帯褒賞』をくまなく行き渡らせるのだ。皆で力を合わせて豊かになる道を選ぶほうが、よほど健全な藩となるはずだからな」


「はっ、さっそく各村へ使者を飛ばし、褒賞の銀貨を届けてまいります。皆の励みとなりましょう」

古市三郎左衛門が嬉しそうに深く頭を下げる。


その言葉の通り、数日後、三郎左衛門が派遣した使者たちが各村を訪れると、村々はこれまでにない活気と歓喜に包まれていた。


深江川のほとりに位置するある村では、庄屋をはじめとする農民たちが集まり、受け取った銀貨の包みを手にして驚きの声を上げていた。


「おおい、見てくれ! 殿様からこんなにもまとまった銀貨が下されたぞ!」


「法度を守り、皆で協力して琉球芋を育て、荒れ地を新田に変えた働きを、お殿様がちゃんと見ていてくださったんだ……!」


「お陰で今年の冬は、寒さに震えることも、飢えに怯えることもねえ。来年はもっと作付けを増やせるぞ!」


互いに顔を見合わせ、手を取り合って喜ぶ農民たちの笑い声が秋晴れの空に響き渡る。村全体が一体となって豊かさを分かち合う「連帯褒賞」の仕組みは、民たちの心に藩への揺るぎない信頼と、明日への希望を深く植え付けていた。


幕府による有力大名への先行的な領地安堵の嵐が吹き荒れる中、我が日野江藩は古い米の呪縛を断ち切り、金銀の経済と盤石な家臣団の絆、そして村々を巻き込んだ連帯褒賞による統治の仕組みを武器に、元和二年の秋を完璧なかたちで謳歌していた。


潮目は完全にこちらにある。だが、米の備蓄という弱点は見逃せぬ宿題だ。この豊かな実りと強固な財政を盾に、俺はさらなる次の一手へと動き出すのだった。

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