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第36話 駿府の病床、西国を縛る楔

元和二年二月上旬 (一六一六年二月上旬)


江戸藩邸の庭に吹き抜ける寒風は、まだ春の訪れを遠く感じさせていた。


だが、それ以上に江戸の街、そして天下の空気を冷やし、身震いさせているのは、駿府から届く一通の噂――いや、事実としての「大御所・徳川家康の重態」という激震だった。


(……きたか。いよいよ、歴史の歯車が最も危ういギシギシという音を立てて回り始めたな)


俺は縁側にたたずみながら、冷え切った茶を一口で飲み干し、胸中で深く息をついた。


二代将軍・徳川秀忠公がすでに駿府へと下り、大御所の見舞いと次期体制の舵取りにあたっている今、江戸に残された留守居役や重臣たちには独特の緊張感が漂っていた。天下の主導権が確実に移行する過渡期において、西国の動静を睨む日野江藩の立場もまた、油断ならないものがある。


(史実の通りであれば、家康公の寿命ももはや幾ばくもない。……となれば、西国の大名たちがどのような不穏な動きを見せるか。先手を打って網を張っておかねば、足元からすくい取られかねんな)


二月中旬、俺は藤堂高虎公に伴われ、緊迫する駿府城へと馬を走らせていた。


駿府城の奥御殿。

かつて天下を統べる巨頭が座したその部屋は、張り詰めた静寂と、微かに漂う薬草の匂いに満ちていた。


床に伏せる徳川家康は、かつての圧倒的な覇気を内に秘めつつも、その眼光だけは衰えていなかった。枕元にひれ伏す宮内少輔を見据え、かすれながらも芯のある声で告げる。


「宮内少輔……そなたの働き、よく聞いておるぞ」


(ここで下手にへりくだるより、武士としての実直さと腹の据わったところを見せたほうがいい)


「はっ。大御所様におかれましては、ご病状いかばかりかとお見舞い申し上げます。こうして直々にお顔を拝顔でき、恐悦至極に存じます……されど、西国の空気を預かる身といたしましては、このお上のご不例、決して見過ごすわけにはまいりませぬ」


家康は深く頷いた。その皺の刻まれた顔に、苦渋の色がわずかに浮かぶ。


「……うむ。わしがこうして床に伏したことで、西国の大名どもが何を考えるか。虎視眈々と好機をうかがう輩がおらんとは限らん。特に外様どもの動きには警戒が必要だ。……宮内少輔、早々に日野江へ戻り、万が一に備えよ。隙を見せるな」


「御意に」


さらに、居合わせた将軍・秀忠からも冷徹かつ力強い言葉が飛ぶ。


「宮内少輔、西国の監視を怠るな。何かあれば直ちに江戸へ早馬を飛ばせ。そなたの目を信用している」


(……天下の最高権力者二人から直接、西国の防衛の要を任されたか。これは破格の信任であると同時に、一歩間違えば一族すべての命運が吹き飛ぶ最前線の断崖絶壁だ)


身が引き締まる思いで深く頭を下げる。俺の背筋を冷たいものが伝い、研ぎ澄まされた警戒心が、暗雲立ち込める時代の荒波を予感して静かに波立った。


駿府を発つ前、俺は密かに市中の商人宿の奥座敷へと足を運んでいた。


そこには、天下の経済の裏表を知り尽くす御用商人・茶屋四郎次郎がひかえており、宮内少輔の姿を見るや、恭しく頭を下げた。


「突然の来訪、無礼を許していただきたい、茶屋殿」


「めっそうもございません、宮内少輔様。このようなお忍びの御成りとあっては、よほどのご用件と察しますが」


茶屋の鋭い眼差しに向かって、俺は静かに、しかしはっきりと告げた。


「まずは人払いをお願いしたい。他言無用の密談だ」


「はっ、承知いたしました」


茶屋が手短に合図を送ると、控えていた供の者たちは音もなく部屋を退がり、障子がピタリと閉ざされた。完全に外気を断たれた静寂の中で、俺は茶屋を見据え、本題を切り出した。


「西国の津々浦々に通じる、茶屋殿の商い仲間――その手蔓を総て貸してほしい。これから諸大名が不審な動き、例えば過剰な武具の買い付けや兵糧の買い占め、あるいは領内での物騒な軍備の拡張を始めたなら、その些細な兆候に至るまで、すべて私と、そして藤堂高虎公へ知らせていただきたい」


「……ほほう。大御所様のご病状を睨んでの、事前の網の目、でございますか」


「そうです。戦は始まってからでは遅い。兆候を掴んだ時点で勝負の九割は決まる。頼めまするか?」


「承知つかまつりました。茶屋の持つ商いの手蔓、宮内少輔様様のための網として、余すところなく張り巡らせてご覧に入れましょう」


数日後、駿府城内。


宮内少輔の依頼を受けた茶屋四郎次郎は藤堂高虎との密談を終えた


そして藤堂高虎は、大御所・家康と将軍・秀忠の御前へと進み出ていた。


「大御所様、上様。宮内少輔の件、報告仕りたく」


「……うむ。あやつ、何か申しておったか?」


高虎は髭を撫でながら、宮内少輔が自ら商人宿へ赴き、西国全域に監視の網を張るよう依頼した一部始終を詳細に語った。


「……ほう。戦が始まる前に兆候を掴む、か」


家康は布団の上で、かすかに目を細めた。高虎は言葉を継ぐ。


「宮内少輔のそのような大局を見る目は、ただの武辺者ではございませぬ。……今は亡き、秀長公――豊臣秀長様の、あの若き日の薫陶こそが、あやつの根底にあるのだと思われます」


「……秀長殿か。……あの方は、誠に名君であったな」


家康の脳裏に、かつて豊臣政権の柱石として過ごした日々が蘇る。


高虎は懐かしむように語りかけた。


「大御所様。思い出しました。天正の昔、聚楽第に大御所様の御屋敷を普請したときのことを。あのとき示された縄張図では守りの備えがあまりに手薄く、わしは独断で普請の手を加えて堅固に造り直しました。あとで大御所様に『絵図と違う』とお咎めを受けましたな」


家康はわずかに口元を緩め、フッと笑った。


「あったな。……『家康様に万が一のことがあれば我が主・秀長の不覚、ひいてはご面目を潰すことになりますゆえ、お手討ちにされるならご遠慮なく』と、そなたは微塵も怯えずにそう言い放った」


「はっ。あのとき、わしの独断を咎めるどころか、その気概と主君への忠義を汲み取って許してくださった大御所様の器の大きさに、わしは深く感銘を受けたのでございます」


駿府の冷たい空気が、一瞬だけ、かつて天下を支えた男たちの熱い絆と、懐かしい故人への追憶で温められたような気がした。


その血統と精神の系譜を受け継ぐ者が、今、自分の目の前で未来を見据えている――。


家康は静かに目を閉じ、高虎に命じた。


「行かせてやれ。あの宮内少輔なら、この激動の時代を切り抜ける楔となり得る。日野江に戻り、西国をしっかりと縛り上げてもらおう」


「はっ!」


高虎は深く一礼し、自らもまた来るべき新体制と、教え子である宮内少輔の行く末に思いを馳せるのだった。


そして元和二年(一六一六年)四月、家康が薨去。


明けて五月に江戸で葬儀が行われていたまさにその時、西国・九州の諸大名たちもまた、それぞれの思惑の中で激しく動いていた。


豊臣家が滅んだ翌年という極めて不安定な時期にあって、彼らは江戸での葬儀に参列することなく、緊迫した情勢の中に身を置いていた。


薩摩の島津氏や長州の毛利氏をはじめとする西国大名たちは、家康の訃報が届くと同時に領内の城の警戒を強め、国境の警備を強化。


「他国の不穏な動きに巻き込まれ、幕府から謀反の疑いをかけられること」を防ぐための自衛措置として、厳戒態勢を敷いていたのである。


大名自身は葬儀への参列を許されず徳川の身内のみの葬儀だったが、じっと待っていたわけではない。


彼らは江戸や駿府に向けて親族や有力な家老を名代として急使に立て、お悔やみを述べると同時に、二代将軍・徳川秀忠に対して二心を抱かない旨の誓紙を提出。巨大な重石が外れた瞬間だからこそ、幕府に睨まれないよう必死の政治工作に奔走していた。


九州の雄・福岡藩主の黒田長政もまた、冷徹な現実主義を見せていた。家康の死を看取った長政は、五月の江戸の葬儀を待たずにいち早く筑前福岡へと帰国。


新体制の行方や西国の動静を見極めるため、自ら本拠地に戻って不測の事態に備える道を選んだ。


――江戸幕府の二代体制が安定するのか、それとも大乱が再燃するのか。


葬儀の席の裏側で、西国の外様大名たちは、極度の緊張感をもって張り詰めた静寂の中に身を置いていた。


そして、日野江へと戻った俺もまた、茶屋四郎次郎と結んだ監視の網を頼りに、この天下の激震を見据え、静かに牙を研ぎ澄ませていたのである。


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