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第35話 駿府の梅、初春の謀と新たな約定

元和二年一月四日(一六一六年一月四日)


新春の厳かな冷気が漂う中、松の内の静謐な雰囲気がまだそこかしこに残る時期、俺は駿府城の広壮な御殿へと足を踏み入れていた。

前回の領内巡察で雲仙の冷涼な湧水を発見し、そこに群生していた「わさび」を初めて口にしたとき、俺の脳裏には一つの大きな好機が閃いていた。


(徳川家康――天下の大御所。史実において、この時期の家康公は日頃から薬効を重んじ、刺身だけでなく様々な料理にすりたての山葵を合わせることを好む、生粋のわさび好きとして知られている。しかも、慶長十二年に家康公がわさびを献上された折、その味に感銘を受けて有東木からの門外不出の御法度品としたことは有名だ。ごく一部の限られた者だけが隠し持つように珍重していたこの秘中の薬味――それを、我が領内の野草として見出したのだ。

一方で、すでに老齢による健康不安を抱えており、間もなくあの「鯛の天ぷら」が致命的な引き金となって最期の時を迎える……)


歴史の歯車を熟知している俺にとって、この駿府への登城は単なる年始の挨拶にとどまらない。天下人への強力なアプローチと、日野江藩の将来を決定づける極秘裏の布石を打つための重要な舞台であった。


御殿の奥の間。静まり返った室内で、白髪交じりの威厳を纏いながらも、どこか老境の陰りを漂わせる天下人――徳川家康が穏やかな笑みを浮かべて俺を迎え入れた。


「おお、日野江の宮内少輔か。遠路はばからず、よくぞ参った」


「はっ。新春の御慶に預かり、心よりお慶び申し上げます。大御所様におかれましては、ますますご壮健のことと拝察いたします」


恭しく頭を下げたあと、俺は用意させていた品々の目録をそっと取り出し、家康の前に差し出した。


「これは……目録か」


家康は静かにうなずくと、目録に目を通し、控える者へ合図を送った。すぐに側近が別室から恭しくいくつかの箱を運び入れ、その蓋を開ける。


中から現れたのは、先日雲仙の清らかな沢から採取したばかりの瑞々しい極上の生わさび、有明海の荒波が育んだ磯の香り豊かな岩海苔で作られた極上の板海苔、そして南方から伝来したばかりの文旦の爽やかな香りをまとわせた美しき琥珀糖の数々だった。ツンと鼻を突く清冽な香りと、甘美な柑橘の芳香が、瞬く間に部屋の空気を引き締める。


「新年のご挨拶と、日頃の御礼にございます。有明海の恵みである岩海苔の板海苔に、南方より伝来した果実・文旦の香りを閉じ込めた琥珀糖。そして――我が藩の深山、清冽な湧水が育んだ珍しい薬草にございます」


家康は並べられた品々を落ち着いた眼差しで見つめ、特にその薬草の緑鮮やかな姿と香りに気づいた瞬間、目を丸くした。


「ほう……。これは、ただの葉と根に見えるが……」


家康の老いた目が鋭い威光を帯びて俺を射抜く。だが、俺は微動だにせず、静かに微笑をたたえてこう応じた。


「おそれいります。……実を申せば、我が領内――雲仙の深山に、清冽な湧水と冷涼な気候が育む不思議な野草がございました。はじめは名もなき草かと思いましたが、かじってみれば驚くほどの辛みと芳香があり、以前に大殿・藤堂高虎公からお聞きした『大御所様が人知れず愛でておられる類まれな薬味』の噂をふと思い出し、もしや……と。我が領内で見つけたこの野草が、まさにその同種の品ではないかと案じて参上した次第にございます」


家康は、その慎み深くも核心を突く言葉を聞くと、はじめは険しい顔で目を細め、やがてふっと苦笑を浮かべて頭を振った。


「ほう……高虎め、あやつの口から漏れたか。……あやつ以外には誰にも語らぬ、わし秘中の妙味……。それを噂だけで探し当て、しかも遠く島原の奥地にて、あの品と見紛うような薬草を見つけ出すとはな……! 人の手が加わらぬ自然の妙味とはいえ、お前のその執念と才覚には、実に恐れ入るわい」


家康は感心したようにあごひげを撫で、自ら家臣に命じてその場でわさびを少しだけすりおろさせ、箸の先で口に運んだ。


瞬間、家康の表情が歓喜に染まる。



「これほどの芳香と辛み、そして深い甘みとは……。有東木の山葵に勝るとも劣らぬ、いや、それ以上の代物だ」


家康のその言葉に、俺は静かに頭を下げた。


「では、我が藩で見つけたこの薬草こそ、大御所様が愛でておられる『山葵』にございますか」


家康は満足げにうなずき、あごひげを撫でた。


「うむ、間違いない。まごうことなき山葵の妙味よ」


家康は、すりおろされた根だけでなく、添えられていた瑞々しい葉と茎の姿にも目を留め、ふっと目を細めた。


「あの折に駿府へ献上された品と同じく、やはりこの葉の形は我が徳川家の紋を思わせるな」


「はっ。雲仙の清らかな水辺に寄り添うように育つその姿は、我が藩の者どもと『まさに御紋の縁に導かれたるもの』と語り合っておりました。根の辛みはもちろんのこと、青々とした葉もおひたしや薬味として美味しく召し上がっていただけます」


家康は我が家の紋を思わせるその葉を愛おしそうに見つめ、満足げにうなずいた。


「葵の紋を思わせる薬草か……実に縁起が良い。そなたのこうした細やかな心遣い、心地よく受け取った」


家康は美食家としても知られ、普段から薬効を兼ねてわさびを好んで食している。俺はその反応を確認し、すかさず本題へと切り込んだ。


「大御所様にお気に召していただき、光栄の至りに存じます。実はこの山葵、我が島原の地ではまだ自然に自生しているものを摘んでいるにすぎません。なればこそ、この極上の味をより完璧なものとし、常に大御所様が普段召し上がるものよりもさらに良い上質な山葵を絶やさず献上したいと願っております」


俺はさらに深く頭を下げた。


「つきましては、門外不出と聞き及びます本場の栽培に長けた者どもの中から、技量に秀でた腕利きの者を数名、我が日野江藩へお貸し合わせ願えませぬか。その優れた栽培の術を島原の清冽な湧水地に持ち込み、いつでも大御所様へ極上の品を絶やさず献上したく存じます」


家康公は目を細め、俺の抜かりない才覚に感心したように、ふっと満足げな笑みを浮かべた。


「よいだろう。天下の安寧には、こうした細やかな心遣いもまた一興。栽培に精通した者どもに申しつけ、そなたの領国へ腕利きを差し向けよう。宮内少輔の熱意、しかと受け取った」


「はっ! かたじけなきお言葉にございます」


作戦の第一段階は完璧に成功した。山葵を口にした家康の顔色は一見して落ち着いていたが、史実どおり、どこか消化器系に負担を抱えているような様子を、俺は見逃さなかった。



――駿府での面会を終えたあと、俺は城を辞し、駿府市中の町並みを抜けて茶屋四郎次郎が借り受けている商家の一室へと自ら足を運んだ。


徳川の台所を支え、上方から届く最新の情報を握る四郎次郎のもとへ赴くことは、これから日野江藩の湊を活性化させる上で欠かせない重要なステップである。


落ち着いた佇まいの商家の一室へ通されると、すでに待ち構えていたかのように四郎次郎が丁重に出迎えた。


「これは宮内少輔様、わざわざ私の仮寓かりずまいまでお越しいただき恐れ入ります……! どうぞ、こちらへおかけください」


丁寧に迎え入れられた俺は、用意された席に腰を下ろし、かつての約束を踏まえた上で商いの話を切り出した。


「突然の来訪、失礼つかまつる。以前にもお話し申したとおり、我が日野江藩の口之津の湊にて進めております事業につき、改めて四郎次郎殿のお知恵とお力をお借りしたく存じてな。現在、口之津の湊にて大規模な蔵を普請中でござる。元和二年の五月には相成る見通しにございます。この湊こそ、今後は南蛮との交易および上方との物資往来の要所となること、疑いなしと確信しております」


茶屋四郎次郎は、俺の言葉を興味深そうに聞き、かつての約定を思い出したように力強く頷いた。


「口之津の湊に、大規模な蔵ですか……。あの折に宮内少輔様とお約束いたしました有明海の湊の仕組み作り、いよいよ本格的に動き出しましたな。南蛮の渡来船や、上方から九州へ向かう諸侯の物資の集積地となれば、商いも大きく動く。宮内少輔様の領国経営には、いつもながら感服いたします」


「恐れ入ります。なればこそ、この湊の賑わいをともに分かち合いたく存じます。あの折のご約定どおり、この蔵の運用で生まれる運上金の三割の御用立てに加え、普請する蔵の一棟の半分は、四郎次郎殿専用の御蔵として自由にお使いいただけるよう手配つかまつります」


四郎次郎はしばし考え込み、条件に目を輝かせながら、やがて頼もしい笑みを浮かべた。


「この蔵の運用で生まれる運上金の三割の御用立てに加え、さらに御蔵の一棟半が我が専有とは……! 宮内少輔様のお描きになるお計らいは実に細やかで、利得の算段も、我らにとってこれ以上なき好条件にございます。このご厚意、喜んでお受けつかまつりましょう。日野江の繁栄が、やがて我ら茶屋の商いをも大いに潤すことと存じます。まさに相思相葉の良き約定、こちらこそ末永くよろしくお願い申し上げます」


商談が整ったのを見計らい、俺は先ほどの家康との会話を思い出してふと表情を引き締め、さらに言葉を選んで切り出した。


「……ところで、四郎次郎殿。先ほど大御所様とお話の中で気になったのですが、近頃のお体具合は如何なものでしょうか。何やら、上方で流行している魚を揚げた料理を、大御所様が四郎次郎殿のお話を通じてすっかりお気に召されたそうで……」


四郎次郎は少し困ったように眉を下げ、声を潜めた。


「宮内少輔様、よくぞお気づきにござりまする……。実は、先日大御所様より『上方で何か珍しき料理はないか』とのお尋ねがございましたゆえ、世間で流行りております鯛の天ぷらの話を申し上げたのです。大御所様は大層喜ばれ、すぐにお抱えの料理人に作らせて召し上がったのですが……正直なところ、御歳を召された今、脂の強き揚げ物は少々お体に障るのではと懸念いたしておりまする」


(――やはり、歴史の分岐点だ)


胸の奥で気を引き締め、俺は相手を思いやる誠実な口調で続けた。


「やはりそうですか。……天下を治めるお方とはいえ、ご無理は禁物ですな。これからは、そなたからも大御所様の台所へ、少し控えめにするよう上手く進言していただけませんか。我が藩としても、健康に良いとされる極上の山葵を送り続けることで、微力ながら大御所様の健康を支えていきたいと願っております」


「……宮内少輔様の御心遣い、深く感銘いたしました。承知いたしました。大御所様の健康第一に、私からもそれとなくお伝えいたします」



――駿府での周到な謀と約定を終えたあと、俺は東海道をさらに進み、真冬の引き締まった冷気が満ちる江戸へと向かった。


元和二年の幕開け。大御所・家康への挨拶を無事に済ませた今、次なる最大の外交舞台は江戸城――天下の実権を握る二代将軍・徳川秀忠との謁見である。


江戸城の広壮な白書院。厳かな沈黙が漂う中、背筋を真っ直ぐに伸ばした将軍・徳川秀忠が、静かに俺を迎え入れた。


「よくぞ参った、宮内少輔。遠路の御馳走、ご苦労である」


「はっ。新春の御慶に預かり、心よりお慶び申し上げます。上様におかれましては、ますますご壮健のことと拝察いたします」


恭しく平伏したあと、俺は用意させていた品々の目録をそっと取り出し、将軍の前に差し出した。


「目録か」


秀忠は静かにうなずくと、目録に目を通し、控える者へ合図を送った。側近が別室から箱を運び入れて蓋を開けると、磯の芳香を放つ有明海の岩海苔の板海苔、南方より伝来した文旦の香りをまとわせた琥珀糖、そして火薬の精製にも直結する鮮やかな黄金色の良質な硫黄の結晶が姿を現した。


「新年のご挨拶と日頃の御礼に、我が領分が誇る品々を献上したく馳せ参じました。有明海の岩海苔に南方伝来の文旦の香りを閉じ込めた琥珀糖、そして我が領内に眠る温泉の恵み、鮮やかな黄金色を放つ良質な硫黄の結晶にございます」


秀忠はそれらを眺め、満足そうにうなずいた。


「ほう……有明の海苔に文旦の香る菓子、そして鉄砲の火薬や医療にも欠かせぬ良質の硫黄か。相変わらず、日野江の物産は実に実用的かつ珍しいものばかりだな。相伴にあずかろう」


秀忠が機嫌を良くしたところで、


(さあ、進捗状況の報告だ。転生前と今、かわらないな……大名とは言え、サラリーマンだな)


俺は本題である領内の近況と、幕府が最も懸念している切支丹政策についての報告へと切り出した。


「お言葉、ありがたく存じます。さて、上様におかれましては、我が日野江領における切支丹の動静についてもご心配のことと存じます。まずご報告すべきは、大御所様と上様の両御曹紙――直筆の御書状を賜りましたおかげをもちまして、長崎奉行所の役人たちも非常に協力を賜り、領内に残るを良しとせず出国を希望した切支丹たちの国外退去が、何の混乱もなく無事に完了したことにございます。その数、総じて六千名に及まする」


秀忠はわずかに眉根を寄せ、その真意を量るようにじっと俺の目を覗き込んだ。


(……やはり、一筋縄ではいかんか。長崎や天草といえば、かつては南蛮文化の中心地であり、信仰が根深く根付いていた土地だ。強硬な弾圧ではなく『穏便な出国』というやり方が、天下の覇権を握る江戸の将軍家にどう映るか……。一歩間違えれば、温温と教えを庇護していると曲解されかねない危うい綱渡りだ)


緊張感が張り詰める中、秀忠は腕を組み、低く重みのある声で問い質した。


「……宮内少輔、出国した者は良い。尋ねるが、残りの者たちだ。血を流さずして信仰を捨てさせるなどという生ぬるいやり方で、本当に南蛮の邪法を根絶やしにできると踏んでいるのか。一歩誤れば、信仰心に凝り固まった者どもがいつ牙を剥くとも知れぬぞ」


その問いかけに、俺は微動だにせず、むしろさらに深い敬意を込めて毅然と応じた。


「御懸念、ごもっともに存じます。……すべての者が穏便に従ったわけにございません。中には『異国の地へ逃るなど臆病者のすることだ! この聖地日野江にて殉教するこそ我が本懐!』と気炎を上げ、領内の廃城跡に立てこもり、武装して蜂起の支度を進める狂信的な一党もおりました。穏健派を通じた説得も聞き入れられず、一般の改宗者たちをも脅かす有害な芽となったのです」


秀忠の目が、さらに鋭く光る。俺は臆することなく、その結末を静かに言い切った。


「彼らはもはや誰の言葉にも耳を貸さぬ反逆の徒。なればこそ、根絶やしといたしました。我が藩は、常備兵をもって一切の妥協を排した徹底的な掃討戦を行いました。十字架を掲げて突撃してくる狂信者どもに対し、我が兵の鉄壁の備えと一斉銃撃を浴びせかけ、指導者から過激派の末端に至るまで一兵たりとも残さず完全に制圧・処分いたしました。……牙を剥く愚か者には、その場で容赦なく徹底的な鉄槌を下す。言葉による説得も、この容赦なき武力による断固たる排除も、すべては幕府に対する絶対の忠義と天下の安寧を守るための備えにございます」


秀忠はしばらく俺の言葉の端々まで吟味するように沈黙を守っていたが、やがてふっと緊張を解いて力強くうなずいた。


(よし、完璧だ。厄介な火種になりうる過激派の粛清という『リスク管理』の実績をここでしっかりと示し、プロジェクトの途中経過として上層部の懸念を先回りして完全に払拭した。どんなに優れた計画も、定期的な進捗報告と『いざとなれば断固たる処置を取る』というガバナンスの証明がなければ、上からの不信感を招くだけだからな。……中間管理職として修羅場をくぐり抜けたサラリーマン時代の鉄則が、まさか戦国の世でこれほど役に立つとは皮肉なものだが)


俺が内心で胸を撫で下ろしていると、秀忠は満足げな笑みを浮かべ、さらに力強い信任の言葉を重ねた。


「強訴や一揆の火種となりやすい切支丹問題において、自主的な改宗を導き、さらに六千名にもおよぶ出国をも滞りなく処理したか……。ただ命じるだけの統治ではなく、民の心の機微まで見据えたその手腕、さすがは宮内少輔だ。これほど頼もしい手腕はない」


秀忠はそこで一度言葉を切り、まっすぐに俺を見据えて言い放った。


「今後の日野江領における切支丹対策および一切の宗門取締りは、すべてそなたのやり方に一任する。余計な横槍は入れぬゆえ、その手腕で引き続き抜かりなく舵取りを頼むぞ」


「はっ! 御聖断、ありがたく存じます。日野江の地より二度と憂いを生じさせぬよう、この身を捧げて全ういたします」


駿府での家康への配慮、茶屋四郎次郎との茶目っ気ある約定、そして江戸での秀忠への実りある実績報告。


真冬の東海道を駆け抜けたこの旅は、日野江藩を盤石なものへと導く最高の布石となった。俺は心静かに、確かな手応えを胸に江戸城を後にした。

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