第34話 森岳の幻影と、温泉・湧水がもたらす恵み
元和元年十一月(一六一五年十一月)
口之津の湊を発った俺たちは、島原半島の東部へと馬を進めていた。
領内巡察の一環としてこの地を訪れたわけだが、道中で目に入る景色の一つひとつが、俺の脳裏にある「歴史の記憶」と激しく交錯する。
馬の歩みを緩め、目の前に広がるなだらかな丘陵地帯――のちに「森岳」と呼ばれる一帯を見上げた瞬間、俺の胸に重苦しい冷気が走った。
(ここが……のちに島原城が築かれる場所か)
脳裏に蘇るのは、歴史の教科書や史料で見た光景だ。
数年後、この地には身の丈に合わない過分な巨城が築かれることとなる。本来ならば大坂冬の陣・夏の陣における戦功の論功行賞として、大和の地からこの肥前日野江に移り来る男――松倉重政。
もともとは大和国五条を本拠とする小領主にすぎず、筒井家や羽柴家に仕えたのちに関ヶ原の戦いで東軍について頭角を現し大坂冬・夏の陣で戦功をえた、典型的な一代でのし上がった生粋の成り上がり者であった。
もともと日野江城は、かつてのキリシタン大名有馬氏の居城であり、あちこちに南蛮風の遺構やキリスト教の気配が色濃く残る場所だった。
俺が思うに、城内やその周辺には有馬家の代からの切支丹色の強い旧家臣や領民たちが多く残っており、新しくこの地に入った重政にとって、前任者の残した旧時代の城をそのまま使うことは、自身の権威を示す上で非常に好ましくなかったのだろう。
さらに、日野江城は地形が手狭で本格的な城下町の拡張ができないうえ、そもそも島原半島全体を広範かつ強力に治めるには位置的にも不向きであった。
くわえて、この時期は幕府から「一国一城令」が発令されたばかりのタイミングでもある。
藩内に複数の城を持つことが厳しく禁じられる中、島原半島全体を統括するための新たな拠点をどこに構えるかという問題もあった。
前任の有馬氏が使っていた日野江城やその支城群をそのまま残すわけにはいかないし、新たに半島全体の中心となる一つの本城をしっかりと構える必要性も、重政が新城築城へと向かった大きな理由の一つだったのだろう。
だからこそ重政は、西海の要衝を抑える諸大名――肥後の加藤家、薩摩の島津家、そして隣国の鍋島家といった錚々たる巨大勢力に対する強烈な対抗意識と見栄もあったに違いない。
「わずか四万石の小大名であっても、これほどの城が建てられるのだ」と周囲に誇示し、幕府に対して自らの気宇の大きさをアピールするため、彼は日野江を捨ててこの森岳に新たな巨城を築くことを選んだのだ。
だが、その実態は身の丈をわきまえない狂気の発露に他ならない。実際の石高はわずか四万石にすぎないというのに、幕府に対しては「我が藩は十万石である」と豪語し、それにふさわしい大大名としての格式を無理やり維持しようとした。
四万石の身でありながら、隣国佐賀鍋島藩の三十五万石よりも大きい規模に匹敵するほどの途方もない巨城の築城を強行し、わずか四万石しかない領内の農民たちを文字通り限界まで絞り上げ、過酷な強制労働へと容赦なく動員したのだ。
島原半島一帯の実質石高に対して全く不相応な、見栄を張るための総石垣作りの五層の天守をそびえ立たせるという大工事。
身の丈を遥かに超えた「十万石宣言」の尻馬に乗るようなその虚勢こそが、重税と強制労働を際限なく生み出す最大の元凶であった。
(この時代の人間には知る由もない。だが、俺には分かっている。この森岳を中心として築かれる城と、その後の過酷な統治がどれほどの血を流すことか……)
しかし、島原の民はよく耐えた。島原城完成から島原の乱まで十三年だ。その間、耐えに耐え抜いた。
史実の松倉父子が領民に加えた残虐非道の所業の数々――。
それは、為政者の域を完全に踏み外した筆舌に尽くしがたい地獄絵図であった。
年貢をわずかでも滞納した者や隠し財産があると疑われた者には、真冬の冷水を頭から浴びせ続ける過酷な「水責め」、肌を焦がす「火責め」が容赦なく執行された。
さらに、藁で作った農作業用の蓑を無理やり着せられ、そこに火を放たれて炎の中をもがき苦しむ姿を笑いものにする残虐な処刑「蓑踊り」が横行した。
身の毛もよだつ恐怖で民を怯えさせるため、顔面や体に「吉利支丹」の文字を焼き鏝で焼き付ける烙印押しや、指を容赦なく切り落とす身体損壊の刑が日常茶飯事として行われたのだ。
また、本人のみならず家族や親族までもが連帯責任として処罰され、幼い子供や妻までもが凄惨な拷問の台に上げられた。
宗教弾圧においてもその狂気は頂点に達し、棄教を拒むキリシタンたちを雲仙の地獄地帯へと連行し、衣服を剥ぎ取った上で、湧き出る強酸性の熱湯をひしゃくですくい上げて体に浴びせかけるという、人間としての尊厳を踏みにじる極限の拷問が次々と執行された。
わずか四万石の分際で、領民の命と心をここまで破壊し尽くしたその悪行の数々は、いつの日か必ずすさまじい破滅を招かざるを得ないものだった。
そしてその松倉重政は、寛永七年(一六三〇年)に突如として急死を遂げることとなる。
表向きは病死とされているが、過酷な領内統治や身の丈を超えた築城によって領民を極限まで疲弊させ、さらには切支丹征伐の為、スペイン領ルソン(マニラ)への大規模型な海外遠征計画を勝手にぶち上げるなど幕府の警戒を招く不穏な動きを見せていたことなどから、実態は幕府による「お家取り潰しを回避するための暗殺(あるいは自裁の強制)」であったのではないかという説も根強く囁かれている。
そしてその跡を継いだ息子の勝家が繰り広げる狂気的なまでの重税と、領民を極限まで追い詰めた末の惨劇............島原の乱
のちに教科書などでは一括りにして「島原の乱」と語られるが、その実態は単純な一つの反乱にとどまらない。
もともと島原では松倉父子の過酷な政治と苛烈なキリシタン弾圧が民を追い詰めていた。
一方の天草地方――天草地域は唐津藩領(飛び地)だが、寺沢氏が島原同様に容赦なき重税や切支丹信仰弾圧を同じようにしていた。その怒りから島原と同時期に領民が蜂起していたのだ。
当時、海を隔てた島原(有馬氏の旧領)と天草(小西氏の旧領)は、どちらもかつて南蛮文化やキリスト教が深く根付いた地域であった。
両地域はもともと経済的・文化的な交流が盛んであっただけでなく、キリシタン信仰という共通の絆で結ばれた強固なアンダーグラウンドのネットワークが存在していた。
為政者による厳しい弾圧や宗門改めが始まると、情報や不満のウワサは海を越えて瞬く間に共有され、「あちらでも蜂起した」「私たちももはや逃げ場がない」という絶望と決意が、密使や漁師の舟を通じて互いに行き交っていたのである。
天草で立ち上がった民衆は現地の富岡城などを攻撃した後、「このままでは個別に幕府の大軍に各個撃破されてしまう」という共通の危機感から、海を渡って島原の原城へと合流を果たした。
あの天草四郎を頭目として、海を越えた二つの民衆の群れは一つの強固な運命共同体となり、凄まじい籠城戦へと突入していくこととなる。島原の乱と天草の乱は、本来は別個の怒りが一つの巨大な悲劇として結びついたものなのだ。
せっかく築いた島原城は、怒りに狂った一揆勢に逆に城を包囲され、自力ではどうにもできずに幕府軍へ援軍を乞うという醜態をさらすことになる。
幕府も為政者や武士としての面目を保つため、「これは松倉や寺沢の悪政に対する一揆ではなく、邪教徒による切支丹一揆である」という大義名分に仕立て上げざるを得なかった。
だが、その本質が松倉家や寺沢家による度を越した悪政と、信仰の自由を奪われた者たちの絶望的な結びつきであったことは、幕府の要人たちにも痛いほど見抜かれていた。
だからこそ、のちに勝家は大名でありながら切腹ですら許されず、武士としての面目を完膚なきまでに奪う異例の「斬首」という最も重い刑に処されることとなるのだ。
さらに、島原に苦難が訪れる――島原城の完成から約170年後となる寛政四年(一七九二年)に発生する、あの未曽有の大災害の記憶までもが脳裏をよぎる。
俺は背後に控える桑名吉成を振り返り、険しい表情のまま遠くにそびえる山肌を指差した。
「吉成……。あの山並みは、眉山と呼ばれる一角だな?」
突然の問いに、吉成は少し面食らいながらも、指し示された方向を見上げて答えた。
「はっ、御意に。あちらに見えますのは、雲仙の山系より連なる眉山にございますが……それがどうかいたしましたか、殿?」
俺は眉山からその麓、そして有明海へと広がる地形を凝然と見つめながら、重く押し殺した声で呟いた。
(――「島原大変、肥後迷惑」か)
寛政四年(一七九二年)。
雲仙岳の度重なる噴火活動とそれに伴う激しい群発地震をトリガーとして、隣接する眉山が引き起こした凄まじい山体崩壊。
浜名湖の貯水量に匹敵する約四億立方メートルもの途方もない土砂が麓を一瞬で飲み込み、有明海へと雪崩れ込んで対岸の肥後国までをも直撃する大津波を引き起こす。
数万人もの命を一瞬で奪い去るあの未曽有の大災害。
眉山から崩れ落ちた土砂は現在の九十九島を生み出し、白土湖を形作り、さらには島原の重要な湊であった島原船津までもが壊滅的な被害を受けることとなる。
その凄まじい被害の範囲は、現在の島原城付近を流れる大手川から水無川付近にまで及び、のちの世に至るまで「崩山町」という地名がその爪痕を伝えるほどだ。
島原の地形がもたらす測り知れない自然の脅威と、人災が重なったときの恐ろしさが、胸の奥で重く澱んだ。
(あんな悲劇の歴史を、この領分で二度と繰り返させてなるものか。城をただの権力の象徴として無意味に誇示させる気はない。もしこの地を治めるなら、民を疲弊させぬ堅実な備えと、災害に備える防災の意識が絶対に必要だ)
背筋を正し、俺はぐっと手綱を握りしめた。歴史の悪夢を未来の知恵で塗り替える。それが、この時代に転生した俺の使命の一つなのだ。
重い思索に浸りながらさらに馬を進めると、今度は辺りの空気がふっと緩み、微かに硫黄の独特な匂いが鼻腔をくすぐってきた。
周囲の木々の間から、もうもうと白い湯気が立ち上っているのが見える。
「おお、殿! あちらをご覧ください。地面の裂け目から、湯が沸き立っておりますぞ」
少し離れた場所で周囲を見回していた福井文右衛門が、驚いた声を上げた。
見れば、岩肌や窪みから熱を帯びた温泉がこんこんと湧き出ている。
一帯には強い硫黄の香りが立ち込め、湯気の中に豊かな自然の息吹が感じられた。
「ここは雲仙の山系から連なる地熱地帯か……。見事なものだな」
俺が馬から降りて近づくと、硫黄の結晶が白くこびりついている岩場が見つかった。
(なるほど、この時代の島原・雲仙の温泉地帯では、豊富な硫黄が自然に産出される。これを精製すれば、火薬の原料や皮膚病の薬として大いに活用できる。口之津の物流と合わせ、これも貴重な特産品になり得るな)
そんな俺の背後で、冷たく澄んだ沢のせせらぎに夢中になっていた田代五郎右衛門が、突然「おっ?」と声を上げて水際にしゃがみ込んだ。
「殿、ちょっとこれを見てくだされ。水際に、妙に鮮やかな緑の葉の植物が群生しております。……なんだか、やけに良い香りがしますぞ」
田代五郎右衛門に呼ばれて足元を覗き込むと、そこには透き通るように冷たい湧水の流れに沿って、見慣れた心臓型の葉をつける植物がびっしりと自生していた。
俺はその葉を一枚摘み取り、指で軽く折ってみる。ツンと鼻を突く、あの独特の清冽な刺激臭が広がった。
「これは……わさびか」
「わさび、にございますか?」
首をかしげる田代五郎右衛門に向かって、俺は苦笑交じりに頷いた。
「この島原の地は、雲仙の豊かな山々が冷たい水を余さず漉し取り、年間を通じてこれほど清らかな湧水が途切れることなく湧き出る。その冷涼な水と木漏れ日が差し込むこの沢の環境は、わさびが育つための条件をすべて満たしている」
俺は根元から一本を慎重に引き抜き、その泥を沢の水で洗い流すと、少しだけかじってみた。
口の中に広がる強烈な辛みと、後から抜ける爽やかな香り。
「ふむ……! 辛いが、実に美味いな」
田代五郎右衛門も恐れ入りながら小さくかじり、目を見張った。
「はっ、これは……! 鼻を抜ける清々しい辛みが何とも絶品にございます!」
「だろう? このわさびは、これからの季節、魚の生臭さを消し、保存を利かせるための最高の調味料になる。それに、うまく栽培を広げれば、我が日野江藩の特産品として上方や博多の市場で飛ぶように売れるはずだ」
歴史の重苦しい陰惨な未来を思い描きながらも、目の前にあるこの土地の豊かなポテンシャル――温泉の恵み、硫黄の採掘、そしてこの清らかな水が育むわさびの自生は、俺に新たな内政の方向性をしっかりと示してくれていた。
「文右衛門、五郎右衛門。この沢や周辺の地帯をよく調べよ。湧水のある一帯はわさびの栽培場として広げ、温泉や硫黄の出る一帯は物産として活かす計画を立てるのだ。この島原の自然の恵みを最大限に活かし尽くすぞ」
「はっ、御意にございます!」
森岳の幻影を振り払うように、俺は力強く命じた。
歴史の歯車を変えるための新たな一手が、この静かな湧水の地からまた一つ、静かに動き始めようとしていた。




