第33話 潮待ちの要衝、口之津の大倉庫と茶屋の参画
元和元年十一月(一六一五年十一月)
藩政の基盤を改める大評定を終え、宗門人別帳の整備や俸禄制への移行が着々と進む中、俺は家臣を引き連れて領内の巡察に出ていた。
目指すは島原半島の南端に位置する要港、口之津の湊である。
(口之津――ここは古来より天然の良港として知られ、戦国時代には南蛮貿易の拠点として、さらに明治の時代においては石炭輸出の中継地としても栄えることとなる、西海屈指の要港だ。この地の持つ潜在的な価値は、他のどの港も足元にも及ばない)
馬を進め、緩やかな坂道を下った先で視界が開けた瞬間、潮風とともに活気あふれる喧噪が飛び込んできた。
目の間に広がる青い海原には、上方や瀬戸内、そして西国方面から行き交う無数の船が波を切り、湊の桟橋には大小さまざまな船舶がひしめき合っている。南蛮船や明のジャンク船こそ定期船の時期ではないものの、国内の流通を担う弁財船や小舟がひっきりなしに出入りし、荷下ろしや積み込みを行う水夫たちの野太い声が響き渡っていた。
「ほう……これほどまでに船が出入りしておるとはな」
背後に控える桑名吉成が、感嘆の声を漏らしながら湊の様子を見渡す。
「桑名殿。口之津は、有明海へ出入りする船の喉元にあたる要衝。さらに、島原半島の地形上、ここは潮流や風の向きが変わる難所でもあります。ゆえに、上方や博多へ向かう船や、逆に有明海の奥へ入る船の『潮待ち・風待ち』の港として、古くから多くの商人が船を繋いできたのです」
古市三郎左衛門が手元の帳面を軽く叩きながら補足する。
俺は馬の手綱を緩め、海原を見据えながら深く頷いた。
(その通りだ。口之津の最大の特徴は、単なる地方の港ではなく、西海航路における絶好の「中継地点」であるという点にある)
だが、湊のざわめきをただ眺めているだけでは、そこで暮らす者たちの本当の苦悩は見えてこない。
俺は馬を降りると、家臣たちに声をかけた。
「波止場を歩くだけでは見えぬものもある。あの軒先に人が集まっている餅屋へ入ってみよう。見分のついでに、茶でも飲みながら今の湊の様子を聞かせてもらうとするか」
「はっ、御意に」
店先から香ばしい焼き味噌の匂いが漂う餅屋に入ると、席のあちこちで風待ち・潮待ちに足止めを食らったらしい商人や水夫たちが、やけ酒ならぬ熱い茶をすすりながら愚痴をこぼし合っていた。
「くそっ、この風じゃああと三日は出られねぇぞ!」
「また潮待ちかよ……。積んである生鮮の荷物が、この湿気と塩気ですでに痛み始めてやがる。このままじゃ次の湊に着く前に売り物にならなくなっちまうよ……!」
「まったく、野ざらしの荷物を置く場所すらないなんて、この港も不便極まりねぇな。どこかに安全に荷を預けられる大きな蔵でもありゃあ、こんなに気を揉むこともねぇのに……」
店主も申し訳なさそうに茶を出しながら、客の愚痴に相槌を打っている。
その生々しい嘆きの数々を聞き逃さず、俺は隣の卓で茶をすする荒くれ男――いかにも場数を踏んできた気性の荒そうな水夫の近くへと静かに歩み寄り、腰を下ろした。
「おい、船乗り。ひとつ聞かせてくれ。そんなに荷が傷むのが心配なら、無理をしてでもすぐに船を出すわけにはいかないのか?」
突然声をかけられた水夫は、不機嫌そうに眉をひそめ、俺をぎろりと睨みつけた。
「あん? なんだお前……。無理をして船を出すだと? 馬鹿野郎、この口之津は有明海の出口で潮流が急なうえに、島原の地形じゃあ風向きの変わり目が激しい難所なんだよ! 下手に飛び出せば波に呑まれておわりだ。動きたくても動けねぇから、みんなこうして足止めを食らって腐ってんだよ!」
水夫が怒気を含んだ声で吐き捨てると、背後に控えていた吉成が表情を強張らせ、腰の太刀に手をかけて一歩踏み出した。
「貴様、殿に対してなんと無礼な……! その不遜な口、慎まぬか!」
吉成が鋭い一喝を飛ばし、湊の雑踏がふっと静まり返る。水夫も自分が相手にしているのが只者ではないと悟ったのか、顔を青ざめて身を強張らせた。
しかし、俺は穏やかな笑みを浮かべたまま、静かに片手を挙げて吉成を制した。
「……吉成、良い。」
「しかし殿、この男の口の利き方は目に余りまする」
「構わぬ。俺が望んで聞いたことだ。それに、この男の怒りは偽りではない。真に海を知る者だけが吐ける、切実な悲鳴なのだよ」
俺はそう言って吉成の剣幕をいなし、再び水夫の正面に向き直った。その落ち着き払った態度に、水夫も、そして店内の商人たちも、怪訝そうな顔をしながらも俺の言葉に耳を傾け始める。
水夫は荒い息を吐き出すと、手にしていた湯飲みの茶を一気に飲み干した。
俺は怒るどころか、深くうなずきながら懐から小銭を取り出し、店の親爺に追加の茶と餅を頼んで男の前に置いた。
「すまないな、荒っぽいことを聞いた。だが、よく分かった。……お前たちの悩みの種は、要するに『風や潮の難所で足止めを食らうのに、安全に荷を預けておく場所がないこと』だな」
水夫は目の前に置かれた餅と茶を見て目を丸くし、それから俺の落ち着き払った顔をじっと見据えた。
「……なんだアンタ、妙に話が早いな。まあ、その通りさ。ここにな、でかくて風雨を凌げる頑丈な蔵でもあってよ、嵐が過ぎるまで荷を安全に預けられるなら、こんなに無駄な気をもまずに済む。だが、そんな都合の良い場所なんて、この西海どこを探したってありゃしねぇよ」
「いや、無いなら作ればいい」
俺は静かに笑い、立ち上がると、家臣たちを引き連れて店の外へ出た。
再び波止場の雑踏に立った俺は、先ほどの水夫とのやり取りを胸に刻み込み、力強く告げた。
「商いにおいて、物資の流通速度はそのまま富の量に直結する。だが、どれほど船足が速くとも、この潮待ち・風待ちの足止めで荷動きが滞っては意味がない。ここに、藩主導の巨大な『貸蔵』を造る」
「――貸蔵、にございますか?」
福井文右衛門が不思議そうな顔をして首を傾げる。俺は雑踏を見据え、具体的な構想を叩きつけた。
「そうだ。ただの物置小屋ではない。有明海の入り口を抑えるこの口之津に、圧倒的な規模の蔵を築く。規模は、そうだな長大な多聞長屋――あの三十間(約六十メートル)の長さを誇る巨大蔵を、三棟も並べて建てさせるのだ!」
「三十間ほどの巨大な蔵を、三つも……!」
重臣たちが一斉に息を呑んだ。
長大な多聞櫓に匹敵する圧倒的なスケールを誇る建築物を、民間の保管用として、しかも藩の主導で一気に3棟も建造するというのだから、驚くのも無理はない。
俺は力強く言葉を継いだ。
「驚くのも無理はないが、これこそが我が日野江の新たな富を稼ぎ出す要となる。よく考えてみよ。有明海へ入る船、あるいは西海を往来する船が、ここで風を待ち、潮を待つ。その間に、船の積荷をこの巨大な蔵へ安全に一時預からせるのだ。
遠方から運んできた荷をここで預け、必要に応じて別の船へ積み替える中継の場としても機能させる。さらに、上方や博多の商人が日野江の特産品や九州各地の物産をここに持ち寄り、値動きを見ながら商いを行う大市としても使わせる」
古市三郎左衛門がその意図の深さを瞬時に理解し、鋭い目を輝かせた。
「……なるほど! 先ほど餅屋で嘆いていた水夫のように、風待ちの間に荷が傷んで損をする者が後を絶ちませぬ。ここに安全かつ確実に預け置く場所があれば、次の航海への備えも格段に楽になりましょう。しかも、預かりの銀(保管料)を藩の直轄収入としてお納めさせれば、年貢の取り立てに頼らぬ極上の財源となるに違いありません!」
「その通りだ。だが、俺が目指すのは単なる荷預かりではない。この蔵の中を、身分に関係なく誰もが自由に商いを行える『中立的な市』として開放する。……ただし、そこには厳格な掟を課す」
俺は波止場の地形を指で示しながら、家臣たちに詳細なルールを言い渡した。
「第一に『蔵内税(運上)』の徴収だ。蔵内での売買を認める代わりに、その取り引きの規模に応じた運上金を藩に納めさせる。誰が、何を、どれだけ売ったか。これを藩の役人が管理することで、安定した税収を得ると同時に、物資の流れを完全に把握する。
第二に『火災と管理責任』の徹底だ。これほど巨大な木造の蔵に他国の商人の荷を預かる以上、火事は致命的な信用失墜を招く。各区画を厚い土壁で仕切り、防火から警備までを藩が完全に統括する。火の元の管理から治安の維持まで藩が責任を負うことで、商人は安心してこの地で大勝負ができるようになる」
古市三郎左衛門は息を呑み、その構想のスケールに震えるような表情を見せた。
「火事を防ぎ、商いの安全を保証し、その対価として運上金を得る……。これはまさに、商人の自由な取り引きと、藩による世の治めを両立させる、前代未聞の仕組みにございます。うまくいけば、口之津は全国の商人がこぞって集まる、この国一番の富と情報の賑わい処となるでしょう」
(閉鎖的な仲間内の取引が常識のこの時代に、誰とでも自由に取引できる貸倉庫と中立的な市場を作る。……そうすれば、口之津は日本におけるシリコンバレーのように、富と情報が渦巻く経済拠点となるはずだ)
俺はうなずき、言葉を継いだ。
「そして、この大仕事は我が藩単独では進められぬ。かつて京にて茶屋四郎次郎殿と会った折、俺は彼に対し、この有明海の豊かな海を活かして国中を結ぶ一大流通の要所を築くという話をした、いつかはこの湊の開発に共同で出資し、共に利潤を分かち合う仲間となってほしいと持ちかけておいた。あの者であれば、この口之津の価値に気付けば、必ずや大きく乗ってくる」
「なんと、京の政商である茶屋とそこまでの約束を……!」
「そうだ。茶屋の持つ諸国規模の物の流れと資本が加われば、この湊は西日本における『海の物の流れの中心』へと一気に昇華する。蔵の運上金だけでなく、滞在する商人たちが落とす宿代や飲食代、さらには日野江の特産品を買い付ける商取引そのものがこの湊に集中することになるのだ」
桑名吉成は感服したように深く頭を下げた。
「米の採れ高に怯える時代は過ぎ去り、今度は海そのものを我が藩の富に変える……しかも京の政商・茶屋との共同出資による大仕事。お見逸れいたしました」
「よし。文右衛門、直ちに口之津の現地を割り出し、三十間長屋に匹敵する巨大な蔵三棟の建築設計および用材の調達を始めよ。防火と防犯を考慮した土壁の設計も忘れるな。忠次は資材運搬のための人足と海路の確保を頼む。茶屋との連絡も密に取れ。この口之津の湊を、西海随一の巨大物流拠点へと変貌させるぞ!」
「「はっ!!」」
家臣たちの返声が、口之津の潮騒をかき消すように勢いよく響き渡った。
藩の財政基盤を強固にするための「金銀俸禄制」という内政の改革に続き、今度は京の商都と結びついた巨大海運ネットワークの歯車が力強く回り始める。
潮風の吹き抜ける口之津の海原を背に、俺は新たな富の都が形作られていく未来を確信していた。




