第21話 嵐の前の沈黙と、蠢く謀略
(――大坂冬の陣の和議が成立して年が明け、慶長20年(1615年)1月22日頃の堀の埋め立て完了から約3ヶ月。表向きの天下は静穏を取り戻したかに見えるが……)
俺は今治勢を率いて自領へ戻ることはせず、上方・伏見周辺に陣を張り兵を留めて拠点としつつ、大坂、京の連絡網を厳重に維持しつつ、俺は冷徹に次の嵐に備えていた。
1614年12月にあの過酷な和議が結ばれて以降、徳川方の普請奉行らの指揮のもとで凄まじい突貫工事が推し進められた。そして慶長20年(1615年)1月22日頃、大坂城の惣構や二の丸、三の丸の破却、そして外堀から中堀・内堀にいたるまでの埋め立て作業が完全に終了する。
この現場では将軍・徳川秀忠が岡山に在陣して自ら指揮を執り、その完了を見届けていた。一方、大御所・徳川家康はこれより先にすでに駿府へと帰還している。
伊達政宗ら東北の遠方の大名たちや、真田丸の正面で甚大な被害を出した前田利常率いる前田家、そして徳川家の軍事・築城の要である大殿、高虎公らも、それぞれの領国や上方近辺へと戻り、戦いで疲弊した兵の休養と軍備の立て直しを図っていた。
だが、決して「平和の訪れ」などではない。冬の陣の直後から、すでに次の決戦に向けた火種は水面下でくすぶり続けていた。
伏見の陣所で、俺は京や大坂の動向を探らせている情報収集係から上がってきた様々な報せとその真偽を吟味しながら腕を組んでいた。そこに、側近の吉成、騎馬部隊を率いる渡辺源五、そして兵站を司る瀬尾忠次が揃って足を踏み入れる。
吉成が険しい顔つきで、一通の書状を俺へと差し出した。
「殿、京に配した者より急ぎの密書が届きました。京都所司代・板倉勝重様のお耳にも達している確かな情報にございます」
俺は差し出された書状を受け取り、ざっと目を通してから口を開いた。
「ふむ……。大坂城の様子がいよいよ不穏を極めているぞ。豊臣方は夜陰に乗じて、せっせと埋め立てられた堀を掘り返しているらしい。それだけではない。城内では兵糧や材木の備蓄が急ピッチで進められ、大野治房が新たに一万二千もの牢人を召し抱えているようだ」
(――まったく、史実通りだな……。大坂城の堀が掘り返され、牢人が集められているあの状況は、まさに歴史が伝える通りの動きだ)
険しい表情のままそれを吉成へと手渡すと、その報告に騎馬隊を率いる渡辺源五が腕を組み、
険しい視線を落とした。
「ほほう、丸裸にされたはずの大坂城が、早くも兵を集め直しているとは……連中も腹をくくったということか。……殿、前回の冬の戦では思うような働きができず、我が騎馬隊の面目も潰れました。今度こそ先陣を任せていただき、敵を野戦に引きずり出して必ずや討ち果たしてみせます」
源五の闘志を横目に、兵站奉行の瀬尾忠次が冷ややかに首を振った。
「戦は勢いだけではできませぬぞ、源五殿。大野治房の一党が勝手に金銀をかき集めて暴走する一方で、豊臣の中でも秀頼公や大野治長らは和睦を維持しようと動いていた。だが、その治長の実弟である治房が逆の動きをして対立を深め、先月には治長の暗殺未遂事件まで起きている。内部から崩れかけている証拠ですな」
(――さすがは忠次だ。単なる兵站の管理官とばかり思っていたが……ここまで深い洞察力を持つに至っていたとはな。兵糧や補給の維持に苦心する者だからこそ、敵の経済的な無理や内部崩壊まで手に取るように見抜けるというわけか。いつの間にやら、俺の想像を遥かに超える「軍師」の器へと見事に成長してくれたものだ……!)
忠次の頼もしい成長と底知れぬ才覚に、俺は内心で深く感心し、熱い信頼を寄せていた。表情を引き締め、三人の部下たちを見据える俺に向かって、忠次は手元の帳面から目を離し、静かに言葉を続ける。
「それに備えて、我らの兵糧備蓄と兵站の補給路についても万全を期さねばなりません。駿府の大御所様も、京都所司代からの度重なる報告を受け、すでに動かれるはず。いつ再び動員令が下っても兵糧が滞らぬよう、伏見周辺での買い付けと備蓄は整えておりますが……殿、次の備えは?」
(――そうだ。どれほど敵情に通じ、見事な洞察を見せようとも、兵站という現実の血肉を回さなければ軍は一歩も動かせぬ。忠次はそこまで見据えて、抜かりなく補給路の安全を確保しようとしている……本当に頼もしい男になったものだ)
忠次の言葉に、俺は内心でさらに深く頷きながら、力強く視線を返した。
「心配いらん、忠次。今治から伏見、大坂への補給路、そして我が今治勢の兵糧庫に至るまで、抜かりなく二重三重の備えを固めておけ。いざ出陣となれば、一兵たりとも飢えることのない万全の体制で臨む」
吉成、源五、忠次――それぞれの視線が俺に集中する。
そしていよいよ史実通り事が運んだ......
豊臣方の内部では、和睦派と主戦派が暗殺未遂まで引き起こすほどの泥沼の抗争を繰り広げている。こうした豊臣方の不穏な動きに対し、駿府の家康は「秀頼の大坂城退去」か「牢人の全追放」という容赦ない二者択一を突きつけた。
当然、それを拒絶した豊臣方に対し、家康は慶長20年(1615年)4月6日、ついに諸大名へ軍令を発し、伏見・鳥羽へと軍勢を集結させて大坂城を再び攻めることを決断したのだ。
伏見の俺の陣にも、大殿より動員令が届く
「皆、よくぞここまで滞りなく備えてくれた」
俺は静かに立ち上がり、三人の部下を見渡した。
(――いよいよ、天下の命運を決する最後の戦が始まる。史実の悲劇をなぞるだけの道など御免だ。俺が築いてきたすべての備えをもって、この大舞台を完璧に乗り切ってみせる)
静まり返った陣所の中で、俺は明日へと向かう拳を強く握り締め、来るべき決戦の時に備えた




