第20話 遠ざかる勝機と、泥の講和
(――大坂冬の陣、その結末もいよいよ大詰めか)
真田丸での凄まじい死闘を終え、徳川軍が甚大な被害を出したことによって、戦況はもはや単純な力押しでは落とせない泥沼の様相を呈していた。
真正面からの攻城戦に行き詰まった徳川家康は、ついに物量を背景にした物理的かつ心理的な別のアプローチへと踏み切る。
陣中に運び込まれたのは、かつて三浦按針らの手引きを通じてイギリスから購入した、凄まじい轟音とともに大坂城の屋根や石垣を直接打ち砕く、最新鋭のカルバリン砲(国崩し)をはじめとする大砲の群れだった。
家康はこれらの一大砲隊を大坂城の北方に位置する備前島(現在の京橋周辺にあたる地域)の陣地に据え付けさせ、城内への威圧と直接的な破壊工作を開始させたのである。
(史実通りとはいえ、あの備前島からの遠距離砲撃は心理的なプレッシャーが尋常じゃないな……)
着弾のたびに城内に響き渡る破壊音、そして何より大御所・家康の本気度を見せつけるかのような容赦ない砲撃は、豊臣方の主層や主戦派の心を確実に削っていった。
いくら堅牢な大坂城とはいえ、連日のように城中へ砲弾を撃ち込まれては、淀殿をはじめとする城内の動揺を抑えきれなくなるのも無理はない。
ついに本丸御殿の奥深くへと着弾した一発が、居合わせていた淀殿の侍女たちの命を奪うという凄惨な悲劇を引き起こした。
凄まじい爆発音と共に吹き飛んだ血肉と、即死した侍女のなきがらの前で、普段は強気を見せる淀殿もがたがたと震え上がり、そのあまりの恐怖と目の前で繰り広げられる地獄絵図のような現実が、城内の空気を一変させる決定打となったのである。
その圧倒的な恐怖と衝撃は、強硬姿勢を貫いていた主戦派の声をかき消し、講和論を一気に加速させることになった。
加えて、我が今治勢は、これまでの兵站管理と前線での手堅い立ち回りを崩さず、周囲の諸侯が疲弊していく中で淡々と自陣の備えと物資の補給を維持し続けていた。
周囲からの警戒感は相変わらずだが、無謀な突撃で兵をすり潰す他家に比べ、我が軍の整然とした佇まいは逆に異様な存在感を放っている。
やがて、連日の砲撃による心理的圧迫と、じりじりと包囲を狭められる兵糧・物資の枯渇を前に、豊臣方はついに和議の交渉へと舵を切らざるを得なくなった。
だが、そこに至るまでの城内の内情は、まさに一筋縄ではいかない泥沼の権力闘争そのものだった。
真田信繁や後藤基次をはじめとする牢人衆や若手武者たちが「一歩も引かず徹底抗戦すべし」と主戦論を唱えて息巻く一方で、本丸の奥深くへ砲弾が直撃して侍女の命が奪われたあの生々しい恐怖を体験した淀殿は、精神的に完全に追い詰められていた。
彼女の脳裏によぎるのは、もはや大義名分や意地ではなく、「このままでは自分も、そして可愛い秀頼の命もすべて吹き飛んでしまうのではないか」という剥き出しの恐怖と焦燥である。その恐怖が、強硬派の意見を少しずつ押し潰していく。
(戦う前から、内側から心が折れていく……。どれほど堅固な城壁を誇っていようとも、心理的な支えを失った最高権力者が怯え始めた時点で、豊臣方の勝負はすでに決していたと言ってもいい)
主戦派の猛反発を抑え込み、実質的な講和への決断を下させるため、淀殿や大野治長らは水面下で奔走し、かつ外部とのパイプを必死に手繰り寄せた。
そして、膠着した戦局を動かす最後の舞台に立ったのは、徳川方の辣腕である阿茶の局と本多正純、そして豊臣方からは淀殿の妹であり和平のパイプ役を務めた常高院(お初)だった。
お初が起用されたのには、徳川家と豊臣家の双方に対してこれ以上ないほどの血縁と人脈があったからに他ならない。
豊臣方の大坂城の実権を握る淀殿(茶々)は実の姉であり、徳川方の将軍・徳川秀忠の正室であるお江(崇源院)は実の妹。
さらに、夫である京極高次が関ヶ原で東軍として活躍した経緯から徳川家康からの厚い信頼もあり、阿茶の局とも本音で話し合える関係だった。
出家して政治的野心を持たず、「豊臣の姉を救い、徳川の妹の立場も守りたい」という彼女の強い大義名分こそが、激しく対立する男たちの間で両軍トップに心を開かせたのである。
阿茶の局と常高院という女性同士のトップ会談を中心として水面下の交渉がまとめ上げられ、1614年12月、ついに大坂冬の陣の和睦が成立した。
だが、講和の条件として徳川方が突きつけたのは、豊臣側にとってあまりにも過酷で、しかし城を死守するためには飲まざるを得ないものだった。
それは豊臣秀頼の身容認(あるいは江戸への参勤交代の噂含む、事実上の降伏条件)のほか、「大坂城の本丸を残して二の丸・三の丸を破却し、すべての外堀を埋め立てること」、そして「大坂市中に溢れる牢人たちを追放すること」という、豊臣家の武装解除と政治的無力化を狙った極めて容赦ない要求だった。
(……きたか。いよいよ、あの「堀の破壊」の始まりだ)
提示された講和条件の最大の肝、それは「大坂城の外堀を埋める」というものだったはずだった。
しかし、和議が成立したとみるや、徳川方はその約束を大幅に踏みにじっていく。
普請奉行である松平忠明や本多忠政らの指揮のもと、動員された数万の大名や労働者たちが一斉に鍬やモッコを振るい、驚異的なスピードで突貫工事を推し進めていった。
かつて生前の太閤秀吉が、完成した大坂城を案内した。難攻不落の大坂城に家康から「太閤殿下なら、この城を攻めるとしたらどういたしますか?」と問われた際、「この城を落たしめる手立てなどないわ。強いて言うなら、まずは力攻めでさんざん脅して和睦に持ち込み、その隙に堀をすべて埋めてしまうことだな」
などと、まるで自らの弱点を冗談めかして語っていたという逸話がある。
あのとき語られた不敵な冗談、あるいは最大の禁じ手そのものを、家康は数多の諸大名や人夫を駒のように使って完璧に実行しやがった。
まさか、外堀だけでなく内堀までをもすべて埋め立ててしまうとは……動員された諸大名たちの手によってみるみる泥で塗りつぶされていく光景は、もはや人間の業を超えた巨大な歯車のようだ。
あそこまで徹底的にやられれば、もはや城としての機能は完全に骨抜きだ
ごう音を立てて崩される石垣と、濁流のように流れ込んでいく土砂の波。あまりの手際よさに、豊臣方の者たちが抗議の声を上げる間すら与えられず、ただ呆然と立ち尽くすのみだった。
のちに豊臣側より「外堀のみならず、中堀や内堀まで埋め立てられるなど約定に反する」と厳重な抗議がもたらされたが、徳川方は「そちらが勝手に外堀の範囲を誤認したまで」と言い放ち、冷然とこれを退けている。
武士の信義も約束も、天下を握る圧倒的な力の前にはただの紙切れ同然に踏みにじられていく。
驚愕のスピードで進む破壊と埋め立ての泥煙を遠くで見つめながら、俺は冷徹に現実を受け止める。
すべての堀が完全に埋め立てられ、大坂城が文字通りの丸腰にされたことを見届けると、冬の陣の包囲にあたっていた数多の諸将や大名たちはそれぞれの陣を引き払い、次々と国元へと引き揚げていった。
史実という名のレールの上で、天下の形勢は確実に、そして不可逆的に次なる破滅へと向けて加速し始めていた。




