第19話 前哨戦の狼煙
(――ふう、ようやくここまで陣地が整ったか)
大坂城の眼前に広がる冷涼な大地に、我が今治勢は指定された最前線の陣地を完璧に構築し終えた。
無造作に積み上げられるのが常であるはずの陣中において、我が軍は寸分たがわず区画された仮設の陣屋と天幕、そして一切の隙がない物資の管理体制を誇っていた。
ふと顔を上げると、周囲の他家の陣幕からも、値踏みするような冷徹な視線がこちらに向けられているのがわかる。
野戦の華やかさとは無縁の、この異常なまでの整然さと管理の徹底ぶりは、周囲の諸侯たちにとって得体の知れない気味の悪さと警戒心を抱かせるに十分だった。
(まあいい。恐れられる分には構わない。この泥沼の冬の陣において、物資を切らさず兵を飢えさせないことこそが最大の抑止力だ)
だが、そんな緊迫した空気をさらに煽るように、大坂城を囲む包囲網が敷かれてから数日も経たぬ11月19日、静寂は乾いた銃声によって破られた。
大坂冬の陣における最初の戦端は、木津川口で開かれた。大坂城の南西を守る木津川口の砦に対し、蜂須賀至鎮や浅野長晟らの軍勢が押し寄せたのである。
豊臣方は水上から川船を繰り出して迎撃し、激しい水上・陸上の攻防が展開された。しかし、幕府方の水軍や圧倒的な兵数の勢いに押され、最後は砦を守っていた兵たちが自ら火を放って敗走。
蜂須賀・浅野勢がこれを攻略し、徳川方に最初の勝利をもたらしたのだ。この木津川口の陥落を皮切りに、徳川方は大坂城の周辺に築かれた豊臣方の前線拠点を次々と潰すための「局地戦」へと雪崩れ込んでいった。
11月26日には北東の要衝である鴫野および今福にて、上杉景勝や佐竹義宣の軍勢と、豊臣方の木村重成や後藤基次らとの間で激戦が勃発する。
湿地帯と一本道の堤防という悪条件の中、銃弾が飛び交い、泥まみれの白兵戦が繰り広げられた。
その最中、上杉景勝は激しい銃撃と敵の猛攻のなかでも一歩も引かず、歴戦の猛将としての圧倒的な武勇を見せつけ、のちに大御所・徳川家康をも深く感嘆させることとなる。
さらに11月29日には、博労淵や野田・福島の砦を
めぐる攻防戦が相次いだ。
木津川と堂島川の合流点に位置し、渡辺橋の守りの要でもあった博労淵の砦では、守将の薄田兼相が遊女屋に泊まり込んで留守にしていたという隙をつかれ、
池田忠継らの軍勢による奇襲を受けて瞬く間に陥落。
これに動揺した野田・福島の砦の守備兵たちも、まともに戦わずして自ら火を放って退却せざるを得なくなり、幕府方はわずか一日のうちに次々と豊臣方の外縁防衛網を削り取っていった。
(木津川口の強襲に始まり、鴫野、今福、そして博労淵の失態に野田・福島の放棄……。史実通りのスケジュールとはいえ、いざ現実としてあちこちから硝煙と怒号が流れてくると、胃の腑が締め付けられるような重苦しさを感じるな。……そして、外縁が片付いたとなれば、次はいよいよあの「真田丸」の番だ)
後世の知識を持つ俺は、やがて訪れるその時に備え、あらかじめ堺からの兵站ルートを通じて大量の竹束を特別に多めに取り寄せ、陣の一角にそのままうず高く積み上げさせていた。
どうせ銃弾を防ぐための消耗品、多少の雨風に濡れたところで竹の強度が損なわれるわけでもない。真田丸がもたらす圧倒的な鉄砲火網の脅威を事前に見越していなければ、無策で突撃させられる諸侯の愚を笑う資格すらない。
外縁の拠点を次々と失い、じりじりと包囲を狭められた豊臣方。しかし、彼らがそれで沈黙することはなかった。
大坂城の弱点である南側の平坦地に備え、あらかじめ周到に計画され、恐るべき半月状の要塞――「真田丸」がすでに築き上げられいる。
陣の配置図を見れば明らかだが、我が今治勢は真田丸の真正面というよりは、茶臼山周辺の本陣や、前田利常らの陣営が広がるエリアから少し離れた位置、あるいは戦線全体の後方や脇手に布陣している。
史実の布陣図に照らせば、真正面で壊滅的な被害を受けた前田勢などに比べれば真田丸から一歩引いた位置取りであり、直接の突撃部隊として最前線に突っ込む配置ではない。
(――だが、だからこそだ)
城の弱点を完璧にカバーするように配置されたその出城には、歴戦の猛者である真田信繁(幸村)が陣取っていた。
重層的に配置された柵の向こうには、夥しい数の鉄砲隊が隙間なく待ち構えている。
その膠着した空気を打ち破るであろう、あの南条元忠の内応計画と、城内での致命的な火薬事故
――徳川方へ内通を試みていた豊臣方の武将・南条元忠が、塀を破壊して味方を手引きする手筈になっていた矢先、あろうことか城内で兵士が火薬箱を誤って落とし、大爆発を引き起こすという痛恨の過失。
それがいつ、どの瞬間、この目の前で起きるのか。史実を知るがゆえに、いつその引き金が引かれるかと常に神経を尖らせていながら、一介の領主にすぎない俺には、やがて訪れる破滅的な勘違いの連鎖を事前に防ぐ術などどこにもない。
しかし予期せぬその時が訪れ、城内から突然の爆発音が響き渡った。
「おい、見ろ……! 内部で爆発が起きたぞ!」
「南条勢が内応して、豊臣側の砦を爆破したのだ!」
爆発の煙を見た徳川軍の諸将は、それを南条の寝返りの合図と完全に勘違いした。
功を焦った諸隊が、命令系統の混乱もそのままに、一斉に真田丸へと突撃を開始してしまう。
(待て、早まるな……あれは違う!)
(くそっ、始まった……! あれは寝返りなんかじゃない、ただの火薬の引火事故だっ……!)
(知っていながら、俺のちっぽけな声じゃあの狂騒を止めることすらできないのか……!)
心の中でどれほど絶叫しようとも、巨大な大軍のうねりと、手柄を焦る諸侯たちの興奮の波を、一介の今治領主の言葉などで押し止めることなどできるはずもなかった。
歴史の歯車は容赦なく転がり、防ぐことのできない悲劇の幕が切って落とされる。目の前で破滅へ向かって走り出す群衆をただ見ているしかない無力感が、冷たい汗となって背筋を伝った。
後世の知識を持つ俺の目から見て、その突撃が自殺行為であることは明白だった。味方の混乱と勘違いによって引き起こされた無謀な突撃を、真田信繁が逃すはずがない。
徳川勢が真田丸の目前へと肉薄した瞬間、幾重もの銃眼から一斉に火が噴いた。ただの迎撃ではない。交差射撃と巧妙に配置された障害物が、突撃した兵士たちをまるで刈り取るように次々と地面へと叩き伏せていく。
2万6千人を超える大軍が雪崩れ込んだ真田丸の前は、一瞬にして凄まじい地獄と化した。
幾重もの銃弾の嵐の前に、前田勢をはじめとする諸隊はバタバタと薙ぎ倒され、瞬く間に数千人規模の死傷者が出る大惨事となる。
「なんだあの砦は……! 鉄砲の数が尋常ではないぞ!」
「近づくことすらできん、退け……!」
味方の陣営に広がる悲鳴と、血に染まった負傷者たちの山。圧倒的な火力の前に徳川軍が総崩れとなり、一帯は阿鼻叫叫の様相を呈した。
我が軍の陣地からは少し距離があるとはいえ、目の前の阿鼻叫喚の地獄から、深追いして討ち取られかけた敗残兵や重傷者たちが命からがら逃げ惑ってくる。
(全軍を救うなんて到底無理だ……。だが、目の前で死にかけている味方を見過ごすわけにはいかない)
俺は吉成に即座に判断を下す。用意させていた大量の竹束に槍を持たせず、兵たちに両手で抱えさせると、出動可能な限りの最大兵力を前線へと走らせた。
「無茶をするな! 竹束を盾にして這いずってくる者たちを一人残らず引きずり込み、後ろへ下がらせろ!」
吉成が放った命令で、今治勢が即席で作った防壁の陰へ、退路を断たれていた負傷兵たちが次々と雪崩れ込み、安全な後方へと押し戻されていく。
それは圧倒的な損害の海において、限界まで手を伸ばした精一杯の救助劇だった。
真田丸からの凄まじい銃声が鳴り響く中、徳川軍全体で1万人近い損害を出したとも言われるその惨状は、力任せの突撃がいかに無謀であるかを全軍に叩き込んでいた。
(真正面から力任せに叩き潰そうとすれば、いくら大軍であっても兵の命がいくらあっても足りやしない。これが、真田信繁の用意周到な罠と、戦場に渦巻く人間の錯覚が生み出した悪夢か……)
血の匂いが漂う寒風の中、俺は兵站ルートを通じて補給された竹束の山を横目に見つつ、前方の凄惨な光景から目を背けず、しかし冷徹に自陣の備えを再確認した。冬の陣は、早くも泥沼の消耗戦へと突入していた。




