第17話 分断と覚悟
慶長19年9月中旬。
伏見の藤堂屋敷にて、俺は静かに大殿へ今治への
帰還を願い出ていた。
春先から続いた方広寺の鐘銘問題を巡る弁明は、もはや意味をなさなくなっていた。
かつて賤ヶ岳の七本槍の一人として豊臣家に忠義を尽くした片桐且元が、幾度となく駿府へ足を運び、懸命に徳川との和解を模索してきた。
だが、家康が突きつけてくる条件は過酷であった。
秀頼公は江戸に参勤する、もしくは淀殿を江戸へ人質として差し出す、あるいは大坂城を明け渡し国替えせよと、豊臣家の存続を根底から揺るがす要求ばかりだったのだ。
家康は巧みに且元を冷遇し、面会すら拒むことで、豊臣の心臓部から彼を孤立させていった。
この交渉の膠着状態を打破しようと淀殿が大蔵卿局を駿府へ送ると、家康は且元に見せた冷酷な顔とは一転、好意的な対応でこれに応じた。
大蔵卿局が「家康公は話の通じる相手だ」という楽観論を持ち帰ったことで、豊臣の城内には「且元が徳川に通じているのではないか」という疑念が決定的に植えられた
(……見えてしまった。家康の狙い通り、豊臣家は自ら最後の架け橋を壊そうとしている。外交の糸は、完全に断たれた)
「大殿、京に留まるもここまで。今治へ戻り、万が一に備え、兵粮の蓄えと城の守りを今一度、固めてまいいります。」
大殿は俺の意図を察し、無言で頷いた。
俺は伏見を離れ、海路を急いだ
今治に戻り、吉成と共に城内の兵站網、食料、武器の備蓄を徹底的に点検していた9月下旬。
ついに大野治長ら強硬派による片桐且元暗殺計画の気配を悟った且元が、一族を連れて大坂城を去ったという報せが届いた。
その直後、今治にはさらに不穏な情報が飛び込んでくる。且元を放逐した豊臣方が、それに代わり、関ヶ原で没落した旧豊臣恩顧の武士や、主君を失い食い詰めた浪人たちを破格の条件で招き入れているというのだ。
長宗我部盛親や真田信繁といった、徳川に鬱屈を抱える名ある猛者たちが、続々と大坂へ吸い寄せられているという。
(これで決まった。……且元という「最後の橋」が落ちた今、徳川は大義名分を得た。さらには城内に制御不能な浪人の軍勢を招き入れるとは……豊臣家は、もはや組織としての統制を捨て、自ら破滅への道を加速させている)
10月11日。今治で万全の態勢を整えて待機していた俺のもとへ、ついに運命の報せが届いた。将軍、徳川秀忠から発せられた「出陣」の陣触れである。
それは単なる威嚇ではない。豊臣家を物理的に抹殺するための、完全なる軍事動員令であった。
俺は届いたばかりの書状を握りしめ、冷え切った空を見上げた。
「……ついに、始まってしまったな」
俺は即座に命を下した。今治に200を残し、精鋭の兵士達1,200名を出陣させる。さらに、400名の兵站専門の家臣団には先行を命じた。
彼らには主要な湊や補給拠点に分散配置させ、我が軍が通過する際、滞りなく物資が供給されるための兵站網を構築させた。
二条城へ到着した際、今治の陣容を視察した大殿が、俺の率いる軍勢に目を留めた。
1,200の兵士達は一糸乱れぬ規律を保ち、行軍中、各拠点の補給陣地から絶え間なく供給を受け続けたことで、到着したその足で即座に戦える万全の状態を維持していた。
「今治からこれだけの手勢を、これほどの練度でまとめてくるとはな……。それに、兵粮の備えも完璧だ。兵らの顔色ひとつ見ても、ここまでの道中、滞りなく陣を運んできたことが見て取れる。見事だ。」
大殿はわずかに目を細め、満足げに頷いた。今治に200を残し、全行程にわたって補給網を構築して全力を出し惜しみしなかった俺の判断は、この危急の時にこそ正しいと証明されたのだ。
大坂の陣という名の地獄が、今、確実な足音を立てて眼前に迫っていた。俺は二条城から大坂城を見据え、いよいよ歴史の濁流へと足を踏み入れた。




