第16話 鐘の刻印、裂ける天下
冬の寒気がようやく緩み、いよいよ運命の年、
慶長19年の春の陽光が京の街を照らしていた。
洛中の通りを歩けば、豊臣秀頼公が推し進める方広寺大仏殿の復興に沸く職人や商人の活気を感じる。
秀頼公による寺社再建は、都の人々にとって単なる事業ではない。
それは、戦国の世が終わってもなお京都が天下の中心であるという誇りであり、豊臣家の潤沢な資金による大仏再建は、徳川の冷淡な視線が都を覆う中、町人や職人たちにとって束の間の活気をもたらす、残り少ない恩恵の象徴であった。
しかし、伏見の藤堂屋敷に滞在する俺の周りには、そんな庶民の明るい期待とは正反対の、粘りつくような澱みが漂っていた。
高虎公が大御所との密談を終えて戻った夜のことだ。高虎公の懐刀として長年情報と内政を支えてきた多賀新七郎が、蝋燭の火も消えかけた薄暗い広間に俺を訪ねてきた。
「……宮内少輔様。…大殿が、大御所様より直々に方広寺の件でご下命を受けられました。鐘の銘文を口実に、豊臣を追い詰める段取りを、と」
新七郎の声に動揺はない。彼はただ、淡々と事実を告げ、懐から一通の封書を静かに俺の前に置いた。
『国家安康』『君臣豊楽』。
徳川の支配を認めさせようとする家康の執念と、それに対する豊臣側の懸命な抵抗が、わずか数文字の呪詛となって浮かび上がっている。
(……ああ、ついに来てしまったか。これが、あの有名な「方広寺鐘銘事件」。俺が歴史の教科書で読んだ、徳川が豊臣を屠るための最初の一手だ。
あの大戦を数多乗り越えてきた新七郎ですら、この事態が意味する「終わりの始まり」を誰よりも深く理解している。
この一報がもたらされた以上、歴史はもはや不可逆の坂を転がり落ち始めたということだ)
俺は書状を手に取り、表情ひとつ変えない
新七郎を見つめた。
「……これは、言いがかりではない。大殿も、大御所様の冷徹な意図を汲んでおられるのだな」
「……大殿は、ただ沈黙しておられました。藤堂家が生き残る道は一つしかないと、心に決められているご様子で……」
(藤堂家が生き残る道……つまり、秀長公の下で共に豊臣の屋台骨を支えたあの頃を捨て、豊臣の滅びをこの目で、あるいはこの手で成し遂げよということか。
関ヶ原の戦いにおいて徳川方として勝ち組の地位を確立し、幕府の重鎮にまで登り詰めた高虎公の選択は間違っていなかった。
だが、その恩賞として今、我々はかつて共に夢を語り、育てられた「豊臣」という血脈を滅ぼす尖兵となっている。俺は止めることもできない位置にいる)
俺の言葉に、同行していた吉成が青ざめた顔で頷く。
この伏見の地で高虎公の傍らに控えていると、幕府の風向きが明らかに「対豊臣戦」へと傾いているのが肌でわかる。
(今治で俺がやってきたことは、単なる商売の拡大じゃない。……だが、藤堂家という巨大な船が、家康の命じるままに大坂という暗礁へ突き進もうとしている
今、俺の仕込んだ『兵站網』は、藤堂家を救うのか、それとも……。これから始まる「大坂の陣」で、俺は歴史の修正力に飲み込まれるのか、それともその流れを書き換える毒になるのか)
「吉成。今治へ急ぎ戻れ」
俺は低い声で命じた。
「事態は急を告げる。これより先、上方から大坂にかけての動きは、もはや公儀の表向きの沙汰を超え、戦の準備と化す。……藤堂家の中枢が動き出す前に、我らは我らの戦を準備せねばならぬ」
「……承知いたしました」
吉成を今治へと帰し、俺は伏見城下の喧騒を眺めた。
新七郎のような智者ですら、この嵐の予兆を静かに受け入れざるを得ない。
高虎公の家を守るための峻烈な決断と、藤堂家の存続を一身に背負った主君の決断を、我が事として受け止める家臣たちの覚悟。
その板挟みになっている俺の立ち位置は、いよいよ鮮明な「異物」として際立ってくる。
(歴史を知っているなんて、何の得にもならない。むしろ、この先に待つ地獄を知っているぶん、俺の恐怖は人一倍だ。足がすくむ。
心臓が痛いわ。こんな乱世で俺なんかが抗うのは、あまりに無謀で恐ろしいな。
死ぬのが怖い。それでも、このまま運命の濁流に飲み込まれて消えるのは、どうしても御免だ。
震える拳を必死に握りしめ、恐怖に押しつぶされそうになっても、この運命に爪を立てる決意だけは、決して緩めない)
京の桜が満開を迎え、華やかな喧騒が街を埋め尽くす季節。俺たちは、戦国の世が終わる断末魔を、特等席で見届けることになりそうだ。
だが、ただ見届けるだけではない。
(……俺が今治で仕込んできた兵站の『線』。これがあれば、藤堂家を死地から引き戻すことができるかもしれない。
天下を動かすなんて大それたことは無理でも、せめて、俺と縁ある者たちがこの地獄を生き延びる確率を、ほんの少しだけでも引き上げる……。俺の戦いは、ただそれだけのためにある)
俺はふと、方広寺の方角に目をやった。本来ならば、夏には盛大な大仏開眼供養が催され、都中に祝福の鐘が響き渡るはずだった。
だが、徳川の因縁により供養は無期限の延期が予感され、完成したばかりの鐘も、寺も、ただ虚しく静まり返っている。
(この静寂こそが、何よりも雄弁に豊臣の孤立を物語っている。かつて秀長公が夢見た豊臣の未来を、俺たちはこの手で塗りつぶそうとしているのだ。
鳴るべき鐘が鳴らぬまま、華やかな供養を期待していたはずのこの境内は、いまや重苦しい沈黙に支配され、来るべき豊臣の断末魔と大坂の紅蓮の炎を冷ややかに待ち受けているのか……)
俺は決意を胸に、淀んだ都の空気を深く吸い込んだ。嵐は、もうすぐそこまで来ている。




