0-1-1。都市伝説
錆びついた外階段を上がり、色褪せた鉄扉の横にあるインターホンを押す。安っぽい電子音が一度だけ鳴った。だが、中からは何の反応も返ってこない。
留守だろうか。それとも寝ているのか。
「どうしよ。窓から.....は、流石にな」
玄関の隙間から、むせ返るような生活臭が鼻を突く。ヤニの強い煙草の匂いと、安酒のアルコール臭、それに微かな香水の甘ったるさが混ざり合った独特の空気。
借金取りの気持ちがよく分かる。明らかにいるのは分かっているが、中に踏み込めないというスレスレ感。だが、ここで退けばキハーナの舌打ちが倍速で打ち鳴らされるだろう。
「......ん?」
どうしたものかと迷いながら、なんとなくドアノブに手をかけると。カチャリ、と抵抗のない金属音が鳴り、鍵の開いていた扉がいとも容易く内側へ開いた。
不用心だ。いや、そんなことがあり得るのか?
仮にも、アウトローな男と同居しているのに?
「すみません....誰か、って.....!?」
声をかけてみるが、静寂だけが居座っている。意を決して中へ踏み込むと、そこは絵に描いたようなゴミ屋敷だった。
玄関の土間は脱ぎ散らかされた靴とコンビニの袋で埋まり、フローリングの床には、いつから放置されているのか分からない衣類の山がいくつも隆起している。
部屋の中央にあるコタツの周りはさらに酷かった。督促状らしき赤字の封筒や何かの請求書がトランプの束のように散らばり、飲みかけの酒瓶や空き缶が無造作に転がっている始末だ。
「....生活の跡しかないのに、生活できる環境じゃない。ゴキブリしか住めないぞ」
一見すると、ただの怠惰な女の汚部屋だ。
だが、その雑然とした中にも奇妙な規則性がある。足の踏み場だけは最低限の動線として確保されており、手の届く範囲に置かれた分厚い雑誌の束や、丸められたままの分厚いデニム。
その間に、一定の間隔で重要そうな書類や小道具が挟まっていた。カラーボックスの代わりにでもしているのだろうか?
「......あれは」
「ん、むぅ......?」
その部屋の最奥。電源の抜けた薄暗いコタツから、上半身だけを投げ出すようにして寝転がっている人影があった。
黒いブラジャーの上に直接ベージュのカーディガンを羽織っただけの、あまりに無防備でだらしない姿。だというのに、サングラスは外されていない。
「......真島、先輩?」
返事はない。
起こすべきか。いや、他人の部屋に勝手に上がり込むのは完全に不法侵入だ。今更ながら、そんな遵法意識が警告を放つ。罪悪感よりも、起きた時に面倒な事になるという予感によるモノだが。
足音を鳴らさないよう、ゆっくりと踵を返し。ドアノブに再度手を掛けようとした。その瞬間。
「....なんや。帰ってまうん?」
背後から、ひどく甘ったるく、それでいて背筋に氷を滑らせるような声が響いた。
振り返ると、コタツから身を起こした先輩が、サングラス越しの視線をこちらに向けていた。カーディガンの肩がはだけ、白い肌が露わになっている。
「.....」
「ミっちゃんのパシリ君やろ?顔は覚えとるで?」
口元には、大学で見せるような陽気で人懐っこい笑みが浮かんでいる。だが、その醸し出す空気はひどく異質だった。
妖艶で、男の扱いなど手慣れたものだという余裕。からかうような声音の裏に、こちらの些細な挙動すら見逃さない蛇のような警戒心が透けて見える。
「折角来たんやし、ちょい飲んでいき?」
「.....それは」
迂闊にノッたら、そのまま底なし沼に引きずり込まれるような嫌な予感。だが、ここで背中を見せて逃げ帰れば.....絶対に、碌なことにならない。
理由の分からない事を、いとも容易く確信に変えるつもりはないが。そう直感してしまった。
「.....僕、十九なので。シラフで良ければ」
「ん、えらい素直。嫌いやないよ?」
散乱するゴミや衣類の山を慎重に避けながら部屋の奥へと進み。促されるままに、向かい合う形でコタツへと潜り込む。
ふくらはぎに柔らかな肌の感触が触れた。ズボンすら穿いていないらしい。下着一枚の生足が、わざとらしく、ねっとりとこちらの足に絡みついてくる。
「.....どしたん。反応薄いなぁ」
「そういう気分じゃないので」
「ふーん?」
キハーナが無機物の美なら、真島先輩は有機物の美だ。香水か、そういう体質か。常に甘ったるい林檎のような香りがする。子供にでも分かるくらい、可視化された艶かしさ。
だから、怖いと分かる。純粋な赤や青は自然界に存在しないように。こんな女が、自然体で家の中に転がっているわけがない。本当に素がこれなら、キハーナと同じバケモノの類だ。
「なんや、つまらん子やねえ。ミッちゃんよりウブで可愛げがあるかと思てたのに」
「悪い大人には乗せられるなって習いましたから」
「はは、アンタが言う?」
期待した反応が得られなかったからか、その顔はわざとらしい程に失望した顔をしていた。唇まで尖らせている。
そのまま、彼女は傍らにあった煙草の箱を引き寄せた。カチリ、と安っぽいライターの音が鳴り、紫煙が部屋の淀んだ空気に混ざっていく。
「高校の時かいな、最後に顔合わせたん。同じ大学入ったけど、そっからは碌に見てへんし」
「.....まあ、はい」
「前に来たって聞いとったけど、その時はアタシはおらんかったし」
煙草の灰を空き缶に落としながら、彼女はからかうように笑った。だが、親しみとは少し違う。無関心と警戒の狭間から、意図的に踏み越えようとしないというか。
目元を見ると。口元に張り付いたその陽気な笑みとは裏腹に、サングラスの奥にある瞳は少しも笑っていなかった。
「.....あの」
「ん、なぁに?」
「単刀直入に聞きますけど、水島先輩から、仕事のこと.....何か聞いてませんか?」
これ以上ペースを握られる前に、本題に入らなければ。彼女は推定一般人、恐れる必要はない。むしろ、怯えさせてはいけないと分かっている。
だが、その論理を本能がひっくり返した。彼女は尋問椅子ではなく、対等なテーブルの向こう側に座っている。足先が互いに触れ合っている中で、その瞳に揺らぎが無い。
この女、慣れている。
「仕事? ミッちゃんがやってる『アレ』やろ?」
真島先輩は深く煙を吐き出し、つまらなそうに鼻で笑った。そんな事を聞きに来たのか、と。覚えの悪い新人に呆れたかのように。
手元の吸い殻を、空き缶の縁に押し付けて。
「『都市伝説』を廃棄するお仕事のことやろ?」
当たり前の事を口にしたとばかりに。
無感動に、今日の朝食を思い出すように。
彼女は、その単語を発声した。
現実離れした語彙。それが、あまりにも鮮明に、かつ当然のように口から出たことに、思考が停止した。
「ミッちゃんは口が軽いからねぇ。それに、アタシも別に何も関わっとらんわけと違うし」
「.....それ、は」
「うん、共犯やね。アタシも、パシリ君も」
彼女は新しい煙草を咥え、言葉を切るように間を置いた。薄暗い部屋の中で、ライターの火が口元を赤く照らしている。
「メトロベア事件は聞いたことあるやろ?」
「都心部地下の獣害事件、ですよね」
「あー、それは建前。人間の手に負えんモノとか、そういうのを纏めて"都市伝説"っていうんよ」
煙が天井に向かって真っ直ぐに伸びていく。
メトロベア。ドラム缶の中に打ち捨てられた皮膚。ネットの噂話などではなかった。この世界の中で、明確に定義され、分類された、事象の一つだった。なんなら略称まで付いている。
「それが、何処かの誰かに壊されたら"遺物"になる。まあ、普通は壊れんのやけど.....」
「.....教会」
「ふぅん?ミッちゃんから聞いたん?」
じろり、と。双眸が真正面から向けられた。
何処まで知っているのか。何を知らないのか。目的は。それを底まで暴こうとする、嫌な目つきだった。
それに、そっと目を逸らす。キハーナの事をここでバラすわけにはいかない。彼女は怪異を始末する側だと語った。つまり。
「でもな、その遺物も放っておくとアカンねん。時間が経つと、勝手に元に戻るけんな」
「.....だから、処分を」
「察しがええやん?」
脳裏に強烈なフラッシュバックが走った。
廃倉庫に充満する、鼻を突く酸の臭い。ジュウジュウと音を立てて溶けていく人間の皮膚。アレは、ただの死体処理をしていたわけではない。怪異が再び怪異として蘇るのを防ぐため、文字通り『廃棄』を行っていたのだ。
「そういう事。教会は何をするか分からんし、ウチらが責任持って始末する、名誉なお仕事やん」
「....."何をするか分からない"って」
「文字通りや。何に使うか分からんけど、教会はそれを持ち帰っとる。放っておいたらバケモンに逆戻りする、時限爆弾をやで?」
思わず身を乗り出した。
そんな事をして、一体何をするつもりなのか。
メトロベア事件の凄惨さはニュースで何度も聞いている。日本の中でも有数の大事件。それと同じ火種を、何に使うのだろう。
教会という組織に.....いや、まだ顔も合わせた事は無いのだが。全貌は見えないにせよ、言葉通りの組織である訳が無いと直感する。
だが、それは、つまり。
「それに比べたら。アタシ達がやっとる仕事って、幾分名誉やと思わん?金払いもええし?」
「.....そう、ですね」
曖昧な返事を返す。葛藤や、その言葉に同調したからでは無い。別の事に頭の中を支配されていたからだ。
廃棄作業を妨害し、「遺物を置いて去れ」と要求してきたキハーナ。彼女は何者なのだろう。
都市伝説の復活を望んでいたのか、教会と同じく人間に害をなす怪異を保管し、世界に留めようとする存在なのか。いずれにせよタチが悪い。
「顔色悪いで?怖い話やったか?」
「.......っ」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
強烈な嫌悪感だった。人間としての根源的な生存本能が、彼女という存在を明確な『敵』として認識し、身の毛がよだつのを感じる。
肉を持たず、人間の命など歯牙にもかけないあの冷酷な怪物への、理屈を超えた恐怖と猜疑心が胃の腑から込み上げてきた。
「......でも」
灰色の空の下。
何処までも暗い海の蒼。
それと共に暴かれた、あの赤い心臓。
人間という枠組みから完全に逸脱した彼女を。
僕は、確かに美しいと思ってしまった。
.....そうだ。理由は、今はそれで良い。
「.....いえ、なんでもないです」
「変な子やねぇ。焦ったり落ち着いたり」
人間としての嫌悪感など、その圧倒的な美しさの前ではひどく陳腐で、取るに足らないものに思えてしまった。
得体の知れない化け物に惹かれている。その異常な事実に直面し、逆にスッと頭が冷えていくのを感じた。猜疑に囚われかけた思考が、強制的に正気へと引き戻される。
なんだ。他人に正常を求められるほど、僕も大した人間じゃないんだ。その事実に、今は安心した。思考の逃げ道として、これ以上のモノはない。
「で、聞きたい事は終わり?」
「.....終わり、です」
「ふぅん?」
古びた冷蔵庫が低く唸るモーター音と、窓の隙間をすり抜ける風の音だけが、やけに鮮明に鼓膜を打つ。コタツの中でねっとりと絡みついていた生足が、ゆっくりと、蛇が身を引くように離れていった。
「.....真島先輩。その、さっき」
話すべきか、と。少し躊躇した。
水島先輩が、先ほど死んだという事を。
このような超然とした事実を、まるでガイドブックを読み上げるように語る彼女が、よもやヒステリーを起こすとは思えない。
だが、これで分かった。僕の立場を完全に明らかにすれば、それは敵対宣言をするに等しい。それを押し切ってまで、真実を伝えるべきなのか。
「......なぁ、パシリ君」
タバコの煙の向こう側。ヴェールのような白いモヤの向こうから、先輩の声がした。
沈黙を破られるとは思っていなかった。だが、こちらから返す言葉も特に無い。それを静かに受け入れる姿勢に。つまり、前のめりになって。
「君、何者?」
「何者、って」
「うん。"誰"って聞いてるんやないで?」
声のトーンは先ほどまでの陽気なものと変わらない。だが、部屋の空気の密度が一瞬にして変質し、肌を刺すような緊張感が走った。
「....高校生の時から、水島先輩とも。真島先輩とも、何度も顔合わせてるじゃないですか」
「せやなぁ。昔からええ子やったねぇ?」
「それに、学生証のコピーとかも.....」
「でも、君の名前。あの時と違うんやろ?」
トントン、と。灰皿代わりの空き缶に煙草の灰が落とされた。ベージュのカーディガンの袖が僅かにめくれ、華奢な手首が白く浮かび上がる。
彼女はゆっくりと首を傾げ、色付きのサングラスの奥から真っ直ぐにこちらを捉えたまま、赤い唇だけで楽しげな弧を描いていた。
「凄いよなぁ。何があったのかは知らんけど、実家にはもう誰もおらんし。改名した後の新しい名前は、大学の誰も知らなんだし」
彼女の細い指先が、散らかったコタツの天板を滑るようになぞっていく。その動きはひどくゆったりとしていて、微塵の焦りも敵意も感じさせない。
まるで退屈な世間話でもしているかのような、気怠げな優雅さだけがそこにあった。最初から、彼女は移ろうことはない。
「アタシ、隠し事されるの嫌いなんよ.....それ、すっごく腹が立つんやで?」
吐き出された紫煙が、彼女の表情を薄く覆い隠す。彼女は空いた方の手で、サングラスの縁を軽くいじり。そのまま、艶やかな茶髪の毛先を指でくるりと巻いた。
何を言うべきか。何を語るべきか。
いや、そんな事は考えるまでもない。この女に語るべきことなど、一つもない。珍しく、論理と本能が一致した。水島が死んだのは僕のせいじゃないし、後ろめたく思う事も何もない。
「.....先輩、それは」
「ま、ええわ。今はなんでも」
ふっと、真島先輩の全身から力が抜けた。
張り詰めていた空気が一気に弛緩し、彼女はいつもの"面倒見のいい陽気な先輩"の姿に戻って、小さく息を吐いていた。
その劇的な空気の緩和に当てられ、無意識のうちに強張っていた力が抜けそうになる。
さくっ。
「......え?」
何が、起きた。
息が。息が、吸えない。
痛い? 違う、熱い。首の付け根が燃えている。
「ガ、ッ.....!? ァ、ぁ......!!」
視界が明滅する。ぐらぐらと世界が回転する。
焦点の合わない目で、下を見た。
先ほどまで何ともなかった喉笛に、家庭用の包丁が。それが、根元まで深々と突き立っていた。
「ごめんなぁ、痛いよなぁ?」
「ま....じぃ、ま......ッ.....!!」
いつ抜いた? どこから?
雑誌の下? デニムの裏?
分からない。思考がまとまらない。
つい先ほどまで天板を優雅になぞっていたはずの彼女の右手は、微塵のブレもなく、首に突き立てられた刃の柄を握りしめている。
血が、どくどくと胸元を濡らしていく。
呼吸ができない。肺が焼けるように苦しい。溺れる。滑稽にも。陸の上で、自分の血に溺れている。海の中とは訳が違う。
「なぁ、何もしないって思ったんか?」
「カ、ハッ……ヒュー……ッ......」
「アタシはただの情報通で、頼めば何でも言うことを聞いてくれるって思ってたん?道理さえ通れば、それで全部納得してくれるって思ってたん?」
無様な音しか流れて来ない。ナイフを抜けば、確実に出血多量で死ぬ。それくらいは分かる。だが、酸欠で頭が回らない。先輩が何を言っているのか、理解できない。理解できないはずなのに。
「予想外やろ?計算外やろ?想定外やろ?下手に頭が回るけん、何をしたら正解なんかは分かるんやろ?今も、首捌かれても落ち着いとるしなぁ」
「だ、ま......ッ、ゴボッ....ッァ....!!」
「やからな、馬鹿になれん人間は。"怖い"ねん」
読み違えていた。履き違えていた。何が推定一般人だ、都合の良い情報に耳を貸しすぎた結果だ。あんな情報を、たかが愚痴だけで聞けるわけがない。
全てを。いや、正確には。
想像していたより、多くを知っていた。
その上で、試していたのだ。何処まで踏み込んでいるか、何処まで知っているのか。
「部外者で利用価値は無し。けれど、半端に知ってしもとる。普通なら引き込み直したらええんやけど。アンタ、ミッちゃんを見殺しにして帰って来とるやろ」
そうだ。そこまで読めていて当然だ。
だから、分からない。キハーナの事まで予測したなら、もっと早くに行動に起こしていたはずだ。ここまで泳がせた事への説明が付かない。
理由がない。この女の行動の根拠が読めない。下手人でもない自分を、殺してこの女に何の得があるのか。それが全く、
「な、ン......ッ、で......」
「.....何でって」
その間に、もう優しさは無く。
ただ、哀れんだように僕を見つめていて。
だというのに、愛しさの混じったような声で。
僕の耳元に、ひどく冷たく囁いた。
「アタシは、アンタを許さへん」
......ああ。
......そんな、理由で。
明滅する視界の端。
間も無く消えるであろう意識の中。
微かに、ベージュのカーディガンが揺れている。
窓に打ちつける風の中に、水音が混じっていた。
雨が、降りそうだと。
そんな他愛のない事を、最後に考えて。




