第9話 公開審査
ロズフェルド領から馬車で半日の距離にある地方都市。その中心に建つ地方行政審判会の議場は、異様な熱気に包まれていた。
王都の有力貴族であるハルベルク侯爵家と、そこから婚約破棄されたばかりの伯爵令嬢との法的な争い。スキャンダラスなこの公開審査を傍聴しようと、近隣の貴族や商人たちが席を埋め尽くしている。
議場の中央、向かい合うように配置された二つの席。
原告席には、凛とした姿勢で座るエレナと、その補佐として控え帳簿を抱えたミナ。
対する被告席には、忌々しげに腕を組むセドリック・ハルベルクが座っていた。
そして、三名の審査委員が座る一段高い判断席の脇。証拠保全担当の記録席の傍らには、漆黒の制服を纏ったエドガー・レインが静かに立っていた。
エドガーの席も、審判長の指揮下にあった。エレナは自分の提出資料を並べ直した。
「これより、ハルベルク侯爵家とエレナ・ヴァレント再建官との間における、帳簿フォーマットおよび実務手順書の帰属、ならびに成果報告記録の訂正に関する行政審判を開始する」
中央に座る恰幅の良い審判長が、木槌を鳴らして宣言した。
「まずは被告、ハルベルク卿。貴殿は、ヴァレント嬢が作成した帳簿や手順書が、侯爵家の独占的資産であると主張しておられるな」
「はい、審判長」
セドリックは立ち上がり、傍聴席を見渡すように堂々と声を張り上げた。
「私は、彼女が帳簿の計算や実務の手続きに携わったこと自体は否定しません。ですが、考えてもみてください。私が王都の夜会で頭を下げ、投資家や銀行と交渉して莫大な予算を調達してこなければ、彼女の改革など机上の空論に過ぎなかった。私は『家』の代表として土台を作り、彼女は『婚約者』としてその上で実務を行った。これは侯爵家という組織単位での共同事業であり、そこで生み出された手順書は、当然『ハルベルク侯爵家の資産』として帰属するべきものです」
傍聴席の貴族たちから、共感のざわめきが漏れた。
セドリックは決して、何も考えていない無能ではない。彼は彼なりに「家の代表」としての責任を負い、金を引っ張ってくるという政治的役割を果たしていたのだ。貴族社会において、「家単位の功績」という彼の論理は一定の正当性を持っている。
「したがって、婚約を解消した彼女が、我が家の予算と環境で作られた手順書を他領に持ち出すことは、明確な権利侵害です」
セドリックは自信に満ちた笑みを浮かべて着席した。
議場の視線が一斉にエレナへと注がれる。エレナは静かに立ち上がり、セドリックを真っ直ぐに見返した。
「ハルベルク卿の仰る通り、あなたが資金調達や対外的な折衝において多大な貢献をされたことは事実です。その点において、私はあなたの功績を否定しません」
エレナの落ち着いた声に、セドリックが少しだけ虚を突かれた顔をした。エレナは淡々と続ける。
「ですが、私が問題にしているのは『資金を誰が集めたか』ではなく、『現場の実務を設計し、運用したのは誰か』ということです」
エレナは手元から、分厚い書類の束を持ち上げた。
「事業の費用が侯爵家から出たことは否定しません。ただ、それだけで私個人の経験や汎用的な手順まで独占できる契約はありません。家の原帳簿と、私の手控え・知識を分けて審査してください。そして何より――」
エレナは証拠提出台に、あのボロボロになった下書きノートと、数十枚の書簡を並べた。
「セドリック様。あなたは王都の成果報告会で、『私が設計を主導し』と、ご自身の実績として発表しましたね。侯爵家の帳簿上でも、作成責任者は一括りに『家政部』とされ、実務を担った人間の名前はすべて消去されていました」
「それがどうした! 当主となる私の名で発表するのは、家として当然の――」
「では、この証言書をご覧ください」
エレナは言葉を遮り、最後の一束を突きつけた。
「私が作成した手順書をもとに、実際に現場で荷車の手配をし、細かい検品作業を行っていた職人たちや、計算を補助してくれていた下働きの方々。侯爵家の帳簿から名前を消されていた十名以上の実名入りの証言書です。彼らは一様に『現場の細かな指示と手順書の作成は、すべてエレナ・ヴァレント個人の頭脳から発せられていた』と証言しています」
「なっ……そんなもの、後からいくらでも捏造できるだろう!」
セドリックが立ち上がり、声を荒げた。
「あの夜会の場で保全された原資料と、その小汚いノートが結びつく証拠などない! 監査院の権威を盾に、適当な紙切れで侯爵家を貶める気か!」
「静粛に」
審判長が木槌を鳴らし、記録席の傍らに立つエドガーへ視線を向けた。
「レイン首席監査官。原告から提出された証拠について、監査院の見解を」
議場の空気が張り詰める。
エドガーは一歩だけ前に出ると、一切の私情を挟まない、機械のように冷徹な声で告げた。
「監査院はすでに原資料の筆跡鑑定および受領日付の照合を完了している。提出された下書きノートの筆跡は、保全された作成段階の原資料と一致している。また、商人たちの証言書についても、王国法に基づく適法な宣誓供述の手続きが取られていることを確認した。……以上だ」
エドガーは照合記録を提出し、元の位置へ退いた。審判長は、下書きと保全資料の同じ箇所に印を付けた。
「……筆跡が、一致だと?」
セドリックの顔から、さぁっと血の気が引いていく。
審判長は手元の資料をめくり、鋭い視線を被告席へと向けた。
「ハルベルク卿。貴殿は先ほど、『侯爵家という組織単位での共同事業』だと主張された。しかし、王都での報告会では『自らの実績』だと明言しておられる。では、確認しよう。貴殿が『作った』と主張するこの帳簿の、三月分の東地区運賃の係数についてだ」
「え……?」
「この月だけ、天候の悪化もないのに積載量の係数が不自然に引き下げられ、往復回数が増やされている。実務を設計した責任者であるならば、なぜここでこのような修正を加えたのか、この場で説明していただきたい」
議場が水を打ったように静まり返る。
セドリックは口をパクパクとさせたが、言葉が出てこない。資金集めにしか興味のなかった彼が、現場の橋の修繕状況や、馬の疲労度を考慮した泥臭い微調整の理由など、知る由もなかった。
「あ、いや、それは……その時の、商会の都合で……」
「違います」
エレナの静かな声が、議場に響き渡った。
「その月、東地区の主要な橋が一部崩落し、迂回路を使う必要がありました。長距離の悪路による馬の疲労を避けるため、意図的に一回あたりの積載量を落とし、日数をかけて往復させる手順に切り替えたのです。……私が提出した下書きノートの二十四ページに、その迂回路の距離計算の痕跡が残っているはずです」
審判長がノートを確認し、ゆっくりと頷いた。
セドリックは額に脂汗を浮かべ、椅子にへたり込んだ。彼自身が「作った」と主張した帳簿を、彼自身の手で説明できなかった。
エレナは、もう一枚の資料を前へ出した。
「では、成果報告書の七ページ目についても、訂正を求めます。こちらは今の橋の件とは別です。王都北地区への冬期備蓄麦の運賃が、私の最終下書きから三割削られています」
審判長が、監査院から提出された修正決裁記録を開いた。家政部への指示には、削る係数と変更後の数値、その下にセドリックの決裁署名が残っていた。日付は、エレナが最終下書きを提出した翌日だった。
「ハルベルク卿。この変更を命じたのは、貴殿で間違いないか」
「……発表用に、数字を整理させただけです」
「整理ではありません。実測値と合意済みの運賃を変えれば、必要な費用が足りなくなります」
エレナは、保全された元の運賃表と配付資料を並べた。審判長が決裁記録の数値を順に照合し、書記へ記録を命じた。
あの夜、書庫を閉じたことで残った紙だ。エレナは日付と署名をもう一度確かめ、席へ戻った。




