第8話 返せと言われた仕事
「……およそ貴族のやることとは思えません。エレナ様が身を削って作り上げた仕事のやり方まで、自分たちのものだと主張するなんて!」
ロズフェルド領主館の執務室。ハルベルク侯爵家から届いた仰々しい『正式通知』を読んだミナが、怒りで顔を真っ赤にして叫んだ。
通知書には、エレナが婚約期間中に考案した帳簿のフォーマットや実務手順書が『ハルベルク侯爵家の資産』であるため、写しを含めて即時返却し、今後の使用を停止するよう記されている。
「エレナ様、すぐに反論の書状を書きましょう! こんな言いがかり、絶対に認めてはいけません!」
ミナがインク壺と白紙の便箋を差し出してきたが、エレナは静かに首を横に振った。
「だめよ、ミナ。私のような家を出た元婚約者が、いくら『あれは私が作ったものです』と主張したところで、ハルベルク侯爵家は『侯爵家の予算と環境があったから作れたのだ。だから家の所有物だ』と突っぱねるだけだわ。感情的な抗議は、向こうの強大な権力と家名の前に握り潰される」
エレナの瞳は、静かに燃える青い炎のようだった。
彼らは、実務を軽視し、現場の血流を滞らせてパニックに陥っている。その自分たちの無能さを認めたくないがために、エレナを悪者に仕立て上げようとしているのだ。
「怒鳴り込んでも勝てないわ。私たちが使うべき武器は、言葉じゃない。『事実』よ」
エレナは立ち上がり、執務室の隅に置いていた自分の私物のトランクを開けた。
中から取り出したのは、美しい装丁の報告書ではなく、表紙が擦り切れ、ページがインクで汚れ、何度も斜線で消しては書き直された『下書きノート』の束だった。
「これは……?」
「私が六年間、侯爵家で実務システムを組み上げるために使っていた個人的な手控えよ。夜中に何度も計算をやり直した跡や、各部署の手順をどうやって統合したか、その思考の過程がすべて残っているわ」
エレナはノートを机に広げると、さらに引き出しから手紙の束を取り出した。
「それに、王都の商人たちとやり取りをした往復書簡の控えもあるわ。あの運賃改革の時、私がどうやって彼らを説得し、妥協点を見つけたか。その日付と筆跡が残っている」
セドリックは「自分の実績だ」と発表したが、彼が関わったのは最後の綺麗な報告書を受け取り、王都の有力者たちに披露する場面だけだ。
泥にまみれ、数字と格闘し、現場と交渉し続けた『事実』は、すべてエレナの手元に記録として残っている。
「ミナ。王都からロズフェルド領へ定期的に卸しに来ている運送業者の顔ぶれをリストアップしてちょうだい。彼らの中に、ハルベルク侯爵家の帳簿改革の時に現場で私の指示を受けていた人間が何人かいるはずよ。彼らから、当時の業務手順が誰から発せられていたものか、証言を取りましょう」
「はいっ! すぐ手配します!」
ミナが弾かれたように部屋を飛び出していく。
エレナはすぐさま、散逸していた断片的な記録を時系列に整理し始めた。下書き、修正指示、往復書簡、現場の証言。それらをパズルのように組み合わせ、『誰が、いつ、何を作り上げたのか』を一目で可視化していく。
睡眠を削り、泥臭い作業を続けること二日。机の上には、作成と修正の順番を辿れる証拠の束が築き上げられていた。
そこへ、静かな足音とともにエドガーとヨハンが執務室を訪れた。
机に積み上げられた異様な量の書類と、目の下に隈を作りながらも闘志に満ちたエレナの顔を見て、ヨハンが目を丸くする。
「おや……ヴァレント再建官。これはまた、凄まじい量の書類ですね。侯爵家からの通知書に対する反論資料ですか?」
「はい。私が手順書を『作った』という証明です」
エレナは毅然として答えた。
エドガーは机の前に進み出ると、積み上げられた資料を手に取り、無言でめくり始めた。
下書きノートの筆跡、修正の変遷、商人からの署名入り証言書。
だが、エドガーはエレナの代わりに「よくやった、これで侯爵家の鼻を明かせるな」と褒めそやすようなことはしなかった。当然、彼が監査院の権力を使って、セドリックに直接制裁を加えに行くようなこともない。
「……日付と署名の照合は済んでいるな。証言書の書式も規定を満たしている」
エドガーが確認しているのは、エレナの主張が正しいかどうかという『論旨』ではなかった。これらの資料が、公的な場に出した際に証拠として採用されるための『保全の形式』が守られているか。そして、第三者が適正に閲覧できる『手続』が踏まれているか。それだけだった。
「証拠の形式要件は満たしている。十分だ」
エドガーは書類を机に戻し、エレナを真っ直ぐに見据えた。
「だが、この帳簿フォーマットや手順書の帰属を巡る問題は、国庫補助金の不正使用とは直接関係がない。したがって、監査院の管轄外だ。我々が直接裁定を下すことはできない」
「では、契約に記された審判会への申立てを使います。必要な書式を確認させてください」
「ああ。その窓口へ提出できる」
エドガーは手にした革張りの手帳を開き、一枚の書類をエレナに差し出した。
「監査院から独立した『地方行政審判会』への申し立て用紙だ。侯爵家が資産の返還と使用停止を求めてきた以上、この紛争は民事的な権利関係としてそこで処理される。王都ではなく、この近隣の地方都市にある審判会へ付託することが可能だ」
それは、エレナが自分の仕事と名前を取り戻すための、正式な戦いの場への招待状だった。
「監査院は、成果報告会で封印保全した『侯爵家が提出した成果報告の原資料』を証拠として審判会へ提出する。君の提出資料との関係は、審判会が双方の説明を聞いて判断する」
エレナは申立て用紙の請求欄を確かめた。実作成者の名を記録に戻すこと。そして、成果報告書七ページ目の運賃を、元の数値へ訂正すること。変更の決裁記録も証拠に加えるよう求めた。
エレナは彼から申し立て用紙を受け取り、震えない手でしっかりと握りしめた。
「分かりました。直ちに地方行政審判会へ異議を申し立てます」
「審判の場には、私も証拠保全担当の監査官として同席する。だが、判断席には座らないし、君の代理人として口を挟むこともない。勝つのは、君自身だ」
その冷徹な監査官の態度こそが、エレナにとっては何よりの心強い肯定だった。
ハルベルク侯爵家。彼らは、家という巨大な看板があれば何でも奪えると思っている。だが、現場の事実は決して彼らの味方ではない。
エレナは自らの手で書き上げた証拠の束を見つめ、静かに決戦の地への準備を始めた。




