第7話 彼女なしの帳簿
西地区の物流トラブルから数週間が過ぎた。
ロズフェルド領の初夏は穏やかで、青々とした木々が風に揺れている。エレナは自分の独断で引き起こしかけた失敗を教訓とし、ミナたち現場の事務官との連携を密にしながら、領の予算管理を一つずつ正常な状態へと戻しつつあった。
そんなある日、執務室で書類仕事をしていたエレナの元に、王都の商人から数通の親展の手紙が届いた。
差出人は、エレナがハルベルク侯爵家にいた頃、頻繁に取引をしていた中堅商会や運送業者の顔ぶれだった。
「……また、悲鳴ね」
封を切り、流し読みをしたエレナは、小さくため息をついて手紙を机に置いた。
隣の席で計算尺を動かしていたミナが、不思議そうに顔を上げる。
「悲鳴、ですか? 王都のお知り合いから?」
「ええ。ここ数日、王都の商人たちから私宛てに手紙が相次いでいるの。内容はどれも似たようなものよ。『ハルベルク侯爵家からの支払いが、期日を二週間過ぎても行われない』『先週、倉庫一杯に納品したばかりの資材が、また重複して発注されてきた。倉庫番がパニックを起こしている』……ってね」
エレナは疲れたようにこめかみを揉んだ。
王都を離れて一ヶ月以上が経つ。エレナが六年間かけて完璧に整え、去る直前まで運用していた月次の帳簿システムが、早くも崩壊し始めているのだ。
「支払いの遅延に、在庫の重複発注……。それって、商売の基本中の基本ですよね?」
「そうなのよ。だからこそ、現場の商人たちは困り果てて、すでに家を出た私にまで泣きついてきているわけ」
そこへ、監査院の仮執務室から書類の束を抱えたヨハンが顔を出した。持ち前の社交性の高さで、王都の様々な情報網に通じている男だ。
「おや、ヴァレント再建官。また王都の商人からの手紙ですか?」
「ヨハン様。ええ、お恥ずかしい話ですが」
「隠す必要はありませんよ。監査院の耳にも、ハルベルク侯爵家の資金繰りが妙なことになっているという噂は届いていますからね」
ヨハンは肩をすくめ、手元の書類をエレナの机の端に置いた。
「不思議なのは、侯爵家嫡男のセドリック殿自身は、決して無能ではないということです。彼は新しい婚約者の実家を巻き込んで、王都の有力な投資家たちから大口の資金調達を成功させています。夜会での立ち回りも相変わらず見事で、対外的な交渉事ではきっちりと成果を上げている。お金自体は、侯爵家に十分にあるはずなんですよ」
ヨハンの言う通りだった。
セドリックは、社交や大口の取引においては優秀な男だ。人を惹きつける話術があり、侯爵家という看板を最大限に利用して利益を引っ張ってくる能力は確かにある。だからこそ、彼は次期当主として周囲から期待され、彼自身も「私が侯爵家を牽引している」と幾度となく口にしていた。
「お金があるのに、支払いが遅れる……。どうしてそんなことが起きるんですか?」
ミナの素朴な疑問に、エレナは静かに答えた。
「セドリック様は、実務を『家の機能』だと誤認しているのよ」
「家の機能……?」
「ええ。大金を集めてくるのは俺の才能だが、その金を誰に、いつ、いくら支払うのか。どの倉庫に、何が、どれだけ入っているのか。そういった細々とした実務は、侯爵家という『家』のシステムが勝手に処理してくれるものだと思い込んでいるの」
蛇口を捻れば水が出るように、誰かが勝手にやってくれる雑務。それがセドリックの「実務」に対する認識だった。
だが、その蛇口の裏側で、毎日泥水にまみれながら配管を繋ぎ直し、一滴の漏れもなく資金と物資を循環させていたのは、他でもないエレナだったのだ。
エレナという配管工を「愛嬌がないから」と追い出した結果、侯爵家の裏側では水漏れと目詰まりが同時に発生しているのだろう。
「有能なトップがいれば組織が回るわけではありません。現場の数字を合わせる人間がいなければ、集めた大金もただの紙屑です」
エレナが冷ややかに言い放つと、開け放たれた隣室の扉の向こうから、静かな足音が近づいてきた。
エドガーだった。彼は手にした監査報告書から目を離さないまま、口を開く。
「その通りだ。ハルベルク家の月次数字は、すでに不自然な歪みを見せ始めている。大枠の予算は達成しているように見せかけているが、原資料と突き合わせれば、支払い遅延を来月に回して黒字を偽装しているのは明白だ」
「監査院として、動かれるのですか?」
エレナの問いに、エドガーは冷徹な青い瞳を向けた。
「確認を進めている」
「……新しい支払い遅延も、調べるのですね?」
「ああ。王都の担当班が説明を求め、支払先の控えと照合している。結論はその結果による。君には、関係する照会があれば正式に知らせる」
エレナは商人たちへの返事に、現在の担当窓口を書き添えることにした。もう自分が侯爵家の支払いを肩代わりして整えることはできない。
エレナも深く頷いた。侯爵家がどうなろうと、もう自分には関係のないことだ。今はただ、ロズフェルド領の再建という自分の仕事に集中するだけだ。
――しかし、彼らはエレナをただの「無関係な過去の女」として放置してはくれなかった。
王都からの商人たちの悲鳴が届き始めてからさらに数日後。
ロズフェルド領主館の執務室に、王国の書士の印が押された、仰々しい一通の『正式通知』が届いた。
宛名はエレナ・ヴァレント。差出人は、セドリック・ハルベルク。
「……何よ、これ」
封を切り、中の文面に目を通したエレナは、思わず眉間に皺を寄せた。
「エレナ様、どうされたんですか? ひどい顔ですよ」
「ハルベルク侯爵家からの正式通知よ。……私が婚約期間中に作成した、帳簿のフォーマットや実務手順書について書かれているわ」
エレナは怒りを通り越し、呆れ果てた声で文面を読み上げた。
『貴殿が婚約期間中にハルベルク侯爵家の予算を用いて作成した帳簿フォーマット、ならびに業務手順書は、すべて我が侯爵家の資産である。よって、それらを他領に持ち出し使用することは、我が家の権利を著しく侵害する行為である。直ちに原本およびすべての写しを返却し、今後の使用を停止することを求める』
執務室の空気が凍りついた。
ミナが信じられないというように口をパクパクとさせている。
「な、なんですかそれ! エレナ様がご自身の頭で考えて作った、仕事のやり方そのものを『自分たちの資産だから使うな』って言ってるんですか!?」
「ええ。そういうことね」
通知からは、侯爵家が実務の混乱をどう説明しようとしているかが窺えた。
セドリックたちは今、崩壊していく実務を前にパニックに陥っている。だが、自分たちが実務を軽視していたからだとは認めたくない。だから、「エレナが侯爵家のマニュアルを勝手に持ち出したせいで、自分たちの仕事がうまくいかなくなったのだ」という責任転嫁の理屈をこね上げたのだ。
そして、ロズフェルド領でエレナが使用している帳簿や手順書を取り上げれば、彼女の再建事業を邪魔できると考えたのだろう。
自分の仕事が回らない焦りを、他人の仕事を奪うことで解決しようとする浅薄な一手。
「……ふざけないで」
エレナは通知書を机に叩きつけた。
六年間、誰にも顧みられずに積み上げてきた自分の努力の結晶を、「家の資産だから返せ」と?
エレナの瞳に、静かだが激しい怒りの炎が灯った。彼女はもう、婚約破棄の夜のように隅で黙って耐えるだけの令嬢ではなかった。




