第6話 正しい計算、間違った判断
ロズフェルド領の再建は、順調に滑り出したかのように見えた。
第六倉庫での二重請求を是正し、浮いた資金で冬用の備蓄麦の追加発注を済ませたエレナは、領の財政をさらに健全化するため、全領域にわたる『支出削減』に着手した。
数ある契約書の中で、エレナの目に留まったのは「西地区の馬車業者」との輸送契約だった。帳簿を照らし合わせると、彼らに支払われている運賃は、平野部を走る東地区の業者に比べて明らかに割高だった。
契約更新に際し、エレナは東の業者から届いた「西地区も輸送可能」という見積書を信じ、現地での試走を待たずに西地区の業者との契約を終了させ、東地区を担当している安価な業者へ西の輸送も一括で委託する決断を下した。
机上の計算では完璧だった。見事なコストカットにより、さらに冬の予算が捻出できるはずだった。
しかし、その判断から五日後。
ロズフェルドの中心市場から、西地区で採れるはずの野菜と、補修工事に使う木材が忽然と姿を消した。
「……どういうことですか? なぜ荷物が届かないの?」
報告を受けて市場へ駆けつけたエレナは、空っぽの荷台を前に、新しく委託した東の業者を問い詰めた。
業者の男は、泥だらけになった顔で音を上げていた。
「無理ですよ、再建官様! 西地区の山道は春の雪解け水でぬかるみがひどく、うちの馬と細い車輪じゃ峠を越えられません! 前の業者は、ぬかるみに強い特殊な車輪と馬のノウハウを持っていたから運べたんでさぁ!」
エレナは血の気が引くのを感じた。
現場の地形と、そこに根付いた特殊なノウハウを考慮せず、帳簿の数字だけで代替できない業者を切り捨ててしまったのだ。完全な自分の判断ミスだった。
(どうしよう。私のせいで、物流が止まってしまった)
エレナの脳裏に、ハルベルク侯爵家での冷たい記憶がフラッシュバックする。
『地味で愛嬌に欠け、社交も満足にこなせない君は、ふさわしくない』
役に立たなければ、捨てられる。完璧に実務をこなせなければ、自分には何の価値もない。
その恐怖がエレナの口を閉ざさせた。彼女は、有能な補佐であるミナにも、ましてやあのエドガーにも、事態を打ち明けることができなかった。
彼女は誰にも頼らず、一人で執務室に籠もり、必死に別の運送経路や代替業者を探した。だが、西の山道を越えられる業者はすぐに見つからず、時間だけが過ぎていく。睡眠を削り、目の下にひどい隈を作って三日目の夜を迎えた時、市場の品薄は深刻化し、木材が届かないせいで領内の水路修繕工事までがストップし始めていた。
被害は、確実に拡大していた。
「……くっ、この業者の馬なら、あるいは……」
深夜。フラフラになりながら地図と別の契約書に目を落としていたエレナの耳に、執務室の扉が開く音が届いた。
立っていたのは、漆黒の制服を着たエドガーだった。
「市場の野菜が高騰し、大工が手持ち無沙汰にしている。……西の物流が止まっているな」
静かな、だが確信を持った声。エレナはビクリと肩を震わせ、手元の書類を慌てて隠そうとした。
「あ、あの、これは……すぐに、私一人で解決しますから。問題ありません……!」
「隠すな」
エドガーが歩み寄り、丸めかけた計算用紙を見た。
「見せてくれ」
差し出された手に、エレナはためらった末、計算用紙を渡した。彼はそれに一瞥をくれると、冷ややかな青い瞳をエレナに下ろした。
「自分の判断ミスを隠蔽し、一人で帳尻を合わせようとする。……このまま報告しなければ、訂正できる時間まで失う」
「っ……!」
その言葉は、エレナの急所を的確にえぐった。
「私は……私はただ、使えない女だと思われたくなくて……」
「監査院は君の優秀さを誇示する場所ではない。事実を記録する機関だ」
エドガーの言葉には、一切の慰めがなかった。
「今回の物流停止による損失は、隠さずにすべて監査報告に『エレナ・ヴァレントの判断による実害』として計上しろ」
突き放すような言葉に、エレナは唇を噛み締めた。ああ、やはり私は見限られるのだ。
だが、エドガーはそこで背を向けなかった。彼は机の上に、王国法の分厚い規定集をドンと置いた。
「失敗を取り消す魔法はない。だが、制度による『訂正』は可能だ。規定集の第七項を開け。緊急事態における予算の事後修正および特例再契約の手続きがある。……君が直接、西の旧業者に頭を下げて再契約を取り付けるなら、監査の枠組みには間に合う」
エレナは弾かれたように顔を上げた。
エドガーは失敗を責め立てるのではなく、ただ淡々と「訂正の経路」を示したのだ。失敗しても、名前ごと切り捨てられるわけではない。彼が行動で示したその事実が、強ばっていたエレナの心を一気に解きほぐした。
翌朝。エレナはミナを呼び出し、深く頭を下げた。
「ごめんなさい、ミナ。私の独断で西の物流を止めてしまった。再契約のための予算の組み直しを、手伝ってくれないかしら」
ミナは驚いた顔をした後、安堵したように力強く頷いてくれた。
「もちろんですよ、エレナ様! 一人で抱え込まないでください。すぐに計算を始めましょう!」
ミナの正確な計算に助けられ、エレナは予算修正案を完成させた。自ら西の業者のもとへ赴き、現場を知らずに数字だけで切り捨てた非を真っ直ぐに認めて謝罪した。業者は若き再建官の誠実な態度に折れ、道具の維持費と山道の手間を含む価格で再契約を結んでくれた。
数日後、再びロズフェルドの市場に、西地区の野菜と木材が並び始めた。
事後処理がすべて終わり、エレナはエドガーに修正された報告書を提出した。
作成責任者欄には『エレナ・ヴァレント』と署名し、別紙には今回の物流停止で生じた損失額も逃げずに明記してある。
「受理しよう。損失も正確に計上されている」
エドガーが書類に署名するのを見届けながら、エレナはずっと気になっていたことを口にした。
「レイン首席監査官。……なぜ、あなたはこれほどまでに『個人の名前を残すこと』にこだわるのですか。成功だけでなく、私の失敗という不名誉な記録すらも」
エドガーはペンを置き、少しの間、沈黙した。
彼の氷のような瞳が、遠い過去を見つめるように細められる。
「……私の母は、伯爵家の後妻だった。家政の才があり、領地の立て直しに奔走したが、女が実務を取り仕切ることを父は嫌った」
ぽつりとこぼされた声は、ひどく静かだった。
「母が過労で倒れて死んだ後、父は領地再建の功績をすべて己のものとして発表した。帳簿にも、記録にも、彼女の存在は一文字も残されなかった。……都合よく功績だけを吸い上げられ、歴史から消されたのだ」
エレナは、報告書に記された自分の名へ視線を落とした。
「良い行いも、悪い行いも、人間がやった事実だ。私は、存在した人間を誰かの都合で消させるつもりはない。それだけだ」
エドガーはそれ以上語ろうとせず、再び書類に目を落とした。
彼が権力に媚びず、正規の手続きと個人の名前に執着する理由。その奥にある冷たくて深い祈りのようなものに触れ、エレナは胸が締め付けられるような感情を覚えた。
ただ厳しいだけではない。彼は、人が生きた証を守るために戦っているのだ。
「……教えていただいて、ありがとうございます」
エレナは深く一礼し、部屋を退出した。彼に対する信頼が、自分の中で確かな熱を伴って根を張り始めていた。




