第5話 記録の欠落
ロズフェルド領主館の一室に設けられた仮の再建官執務室。
エレナは、山のように積まれた帳簿と格闘していた。第六倉庫での不正発覚から数日、エレナの動きは迅速だった。
「エレナ様! 追加発注していた冬用備蓄麦の第一陣、無事に納入完了の報せが届きました!」
領の帳簿係である二十二歳の女性、ミナ・フェルトが、インクで汚れた手を拭きながら弾んだ声で報告に駆け込んできた。
彼女は元々、真面目で計算も早い優秀な事務官だったが、旧態依然とした領の体制の中ではただの「下働きの娘」として扱われ、萎縮していた。だが、エレナが彼女の計算の正確さを正当に評価し、実務の補佐に抜擢してからは、見違えるように生き生きと働いている。
「ありがとう、ミナ。あなたの素早い計算のおかげで、予算の再配分が間に合ったわ」
「とんでもありません! エレナ様が不正な二重請求の契約を打ち切ってくださったからです。浮いた資金で、まず町の備蓄を補う目処が立ちました。倉庫番の方も、証言を終えて別の担当者と二人で検品する仕事に戻れました。調査には引き続き応じるそうです」
「ええ。彼ら現場の人間の力なしに、冬は越せないものね」
エレナは微笑みながら、手元の分厚い書類の束をトントンと机で揃えた。
ここ数日の成果――不正契約の破棄、資金の再配分、そして備蓄の確保。これらをまとめた『第一回再建報告書』が、今まさに完成したところだった。
「ミナ。この報告書の添付資料に、あなたの名前と倉庫番の氏名を明記しておいたわ。今回の件は、あなたたちの証言と正確な実務があったからこそ解決できた。今後の昇給査定でも、あなたたちが何をしたか確認できるはずよ」
エレナが該当箇所を指し示すと、ミナは信じられないものを見るように目を丸くした。
「わ、私の名前が、王都に提出する正式な書類に……? そんな、私なんてただ言われた計算をしただけなのに……」
「いいえ。あなたがやった仕事よ。誰が何をしたのか、事実を正確に記録するのは実務の基本でしょう?」
エレナはさらりと告げると、報告書の表紙にサラサラと文字を書き込み、立ち上がった。
「さて。これをレイン首席監査官に提出してくるわ。支出と納入が計画どおりだったか、確認を受けないとね」
執務室を出て、エドガーが仕事部屋として使っている隣室の扉を叩く。
短く「入れ」という声が響き、エレナは扉を開けた。
簡素な机に向かい、王都から届く膨大な決裁書類に目を通していたエドガーが、羽ペンを置いて顔を上げる。その冷徹な青い瞳は、相変わらず感情の動きを読ませない。
「レイン首席監査官。先日の輸送費見直しに関する第一回再建報告書を持参いたしました」
「見よう」
エドガーは差し出された書類を受け取ると、無言のままページをめくり始めた。
室内には、紙を繰る微かな音だけが響く。エレナは背筋を伸ばしたまま、彼の反応を待った。
現場の事実を積み上げ、徹底的に無駄を省いた数字だ。論理の飛躍もない。監査官の厳しい目から見ても、完璧な仕上がりになっているはずだった。
数分後。最後のページまで目を通したエドガーは、パタンと書類を閉じた。
そして、冷ややかな声で告げた。
「記録不備だ。差し戻す」
エレナは息を呑んだ。
「……不備、ですか? 計算に間違いはないはずです。根拠となる納品伝票の写しもすべて添付してあります」
「中身の数字の話ではない」
エドガーは報告書の表紙を指先で弾いた。
「作成責任者の欄だ。ここには『領主家再建班』とだけ書かれている。組織名だけでは、今回の支出を決めた責任者が分からない」
「再建班は、私が領主代行から認可を受けた一時的な実務チームです。ハルベルク侯爵家で仕事を出していた時も、個人の名前ではなく『侯爵家家政部』という名義で提出し、全て受理されていました。貴族の仕事において、実務を担う個人の名前を出さず、家や組織の名でまとめるのは一般的な慣習のはずです」
エレナは早口で反論した。
六年間、ずっとそうやってきたのだ。自分が徹夜で作った帳簿も、胃を痛めながらまとめた交渉記録も、すべて「ハルベルク家」のものとして提出してきた。目立つことは美徳ではない。裏方に徹し、組織の歯車として役に立つことこそが、自分の価値なのだと信じ込んできた。
しかし、エドガーの氷のような視線は一切揺るがなかった。
「ここはハルベルク侯爵家ではない。そして私は、慣習で仕事をするつもりはない」
彼は表紙を上にして、書類をエレナの前へ戻した。
「添付資料には、帳簿係のミナや倉庫番の個人の名前が正確に記録されている。他人の功績は一滴もこぼさず記録に残すのに、なぜ一番の働きをした君自身の名前だけを消そうとする?」
「それは……」
「この計画を立案し、現場を歩き、不正を暴き、予算を再配分する決断を下したのは誰だ。『領主家再建班』という顔のない幽霊か?」
「…………っ」
エドガーの言葉は、鋭い刃のようにエレナの胸の奥を突いた。
誰かに評価されたいわけではなかった。ただ、自分の名前を出すのが怖かったのだ。もし失敗したら。もし数字が合わなかったら。自分の名前が書かれていれば、自分自身が全否定されるような気がして。
だが、目の前の冷徹な監査官は、そんなエレナの自己消去を通そうとはしなかった。
添付資料に書いたミナたちの名前を見て、エレナは自分の空欄だけが不自然なことに気づいた。
「……ペンを、お借りできますか」
エレナは震える声で言い、エドガーの机の上に置かれていた羽ペンを手に取った。
報告書の表紙にある組織名を所属欄へ移す。作成責任者の欄には、一つ深呼吸をしてから、ペンを走らせた。
『エレナ・ヴァレント』
自分個人の、ただの名前。
署名した報告書は、原本を領主館へ、照合済みの写しを担当者と別棟の保管庫へ残すことにした。誰が何を記録したか、紙が散らばっても追えるように。
書き終えた書類を再びエドガーに差し出す。エドガーはその署名をじっと見つめた後、静かに頷いた。
「……受理しよう。見事な手際だったな、ヴァレント再建官」
それは、同情でも慰めでもない、専門家に対する純粋な承認の言葉だった。
エレナの胸の奥で、六年間凍りついていた何かが、静かに溶けていくような感覚があった。自分の名前で仕事が残り、それが正当に認められる。その事実が、こんなにも震えるほど嬉しいことだとは知らなかった。
ほんの少しだけ口元を綻ばせたエドガーの顔を見て、エレナの胸が高鳴る。
だが、安堵に浸る時間は長くはなかった。
最初の危機は越えたが、冬までに必要な資金はまだ全く足りていないのだ。領民を確実に救うためには、さらなる劇的な『支出削減』が必要になる。
自分が責任者である以上、早く完璧な結果を出さなければ。
エレナの心に微かな焦りが芽生え始めていた。




