第10話 第一の訂正
地方行政審判会の議場は、重苦しい静寂に包まれていた。
先ほどまで自信に満ちた声で「侯爵家としての共同事業だ」と主張していたセドリックは、今や椅子に深く身を沈め、真っ青な顔でうつむいている。
彼が自らの手柄だと公言した帳簿。その数字の裏にある『現場の泥臭い修正理由』を、彼はただの一つも説明できなかった。資金集めのための夜会にしか顔を出さず、実務を完全にエレナへ押し付けていた彼に、馬車の積載量や迂回路の距離係数など答えられるはずがなかったのだ。
「――以上をもって、本審判の裁定を下す」
三名の審査委員の中央に座る審判長が、厳かに木槌を鳴らした。
「原告・ヴァレント嬢が提出した作成過程の証拠、および監査院によって保全された原資料の記載は完全に一致した。よって、ハルベルク侯爵家が過去六年間にわたって行った物流および会計改革の実務手順を設計し、運用した実作成者は、エレナ・ヴァレント嬢および現場の職員たちであると認定する」
傍聴席から、感嘆と動揺の入り混じったどよめきが漏れた。
王都の報告会で華々しく発表された改革を、誰が設計し、誰が現場で動かしたのか。家名にまとめられていた仕事が、一人ずつの名と共に読み上げられた。
「本認定に基づき、国庫庁および監査院に提出されている過去の改革記録を正式に『訂正』する。作成責任者欄にはエレナ・ヴァレント個人の名を、そして実務担当者欄には現場職員たちの名を追記する。また、ハルベルク侯爵家がヴァレント嬢に対して求めた『手順書等の返却および使用停止の要求』は、不当な権利侵害としてこれを全面的に棄却する」
エレナの隣で、ミナが「やりましたね……!」と涙ぐみながら小声で喜んだ。
エレナは小さく頷き、静かに目を閉じた。
六年間。誰にも褒められず、ただ「侯爵家の役に立つため」だけに身を削ってきた時間。自分の名前すら消して裏方に徹してきた仕事が、今、確かな形を持って自分自身の名前で歴史に刻まれた。
それは、エレナにとってどんな宝石よりも価値のある報酬だった。
「なお、被告セドリック・ハルベルク卿」
審判長の声が一段と冷ややかになり、セドリックの肩がビクッと跳ねた。
「貴殿は、他人の実務を自らの功績として虚偽の報告を行った。この事実は重い。当審判会は王国評議会に対し、本年度のハルベルク侯爵家に対する国庫補助事業の『優良評価』の取り消し、ならびに貴殿個人の『昇進推薦』の白紙撤回を勧告する」
「そ、そんな……! 私は、資金を調達して……!」
セドリックが弾かれたように顔を上げたが、彼の言葉は虚しく議場に響くだけだった。
数週間前、王都の報告会でエレナを嘲笑し、彼女を無能と切り捨てた貴族たち。彼らは今、信用の地に落ちたセドリックへ、侮蔑と冷笑の視線を向けていた。
彼は家を没落させるほどの極悪人ではないかもしれない。だが、「自分の成果だと言い張ったものを説明できず、婚約者の手柄を横取りしようとした浅ましい男」という烙印は、彼の政治生命に致命的な傷を残すだろう。
エレナは、青ざめた元婚約者を哀れむことも、勝ち誇って見下すこともしなかった。彼が嘘をつき、その嘘が事実の前に崩れ去った。ただそれだけのことだ。自分はすでに、次の仕事へと歩き出している。
裁定には、成果報告書七ページ目の訂正も含まれた。セドリックの決裁で三割削られた王都北地区の冬期備蓄麦の運賃を、保全された最終下書きの数値へ戻す。変更を命じた者の名も、訂正の理由と共に記録された。
エレナは、あの夜から持っていた配付資料の七ページ目を開いた。書き換えられた数字と、自分が作った数字とが、記録の上でも分かれた。
閉会が宣言され、人々がざわめきながら退出していく中。
記録席に立っていたエドガー・レインが、エレナのもとへ歩み寄ってきた。彼の腕の中には、あの成果報告会で彼が封印保全した、青い革表紙の原資料が抱えられていた。
「レイン首席監査官……」
「審判は終わった。この原資料は、監査院の仮保管庫から、本審判の『決定記録』として正式に保管庫へ移管される」
エドガーはそう言うと、書類の束を審判会の書記官へと手渡した。
あの夜の原資料と、自分の手控え。二つを照らし合わせて、消された名を取り戻せた。
「これで、君の仕事は君のものとして確定した。訂正を拒まれた時も、この決定を根拠に請求できる」
エレナは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。原資料を保全してくださったこと、感謝しています。私の手控えと、同じ数字が残っていました」
「私は規定に従ったまでだ」
エドガーはそっけなく返したが、その青い瞳の奥には、確かな敬意と、自らの足で立つエレナへの微かな熱が宿っていた。
過去の軛は、これで完全に断ち切られた。
エレナは晴れやかな気持ちで、ミナと共に馬車に乗り込み、自分を待つロズフェルド領へと帰還した。
しかし、領主館の執務室に戻ったエレナを待っていたのは、祝杯ではなく、厳しい現実を突きつける新たな数字だった。
ミナが真っ青な顔で、再計算を終えたばかりの在庫管理表を机に広げたのだ。
「エレナ様……大変です。先日の西地区の物流トラブルの遅れと、実際の各村の消費ペースを改めて計算し直したのですが……」
ミナの震える指先が、地図の北端にある二つの村、『アルト村』と『リューネ村』の数字を指し示した。
「現在確保できた備蓄麦をどう配分しても、この二つの村には足りません。今のペースでは……初雪が降る前に、食糧が完全に尽きます」
「……!」
エレナは息を呑み、計算表を食い入るように見つめた。
ロズフェルド領の北端は雪深く、一度冬道が閉ざされれば春まで物資を運ぶことは不可能になる。
「初雪までの猶予は……?」
「過去の気象データから予測して、あと百二十日です」
百二十日。
その間に、北端の村々が冬を越せるだけの巨大な物流網を作り直し、物理的に食糧を運び込まなければならない。
エレナは訂正決定の写しを脇へ置き、北の二村の在庫表を引き寄せた。
「……やるしかないわね」
エレナは地図を睨みつけ、力強くペンを握り直した。




